楽園−ベッド・イン−

 

 おそらく窓からの夜景は、絶景だろう。

 地上150メートル。部屋は最上階の37階にある。
 ここは、ゴールドとブルーを基調としたスイートルーム。クリスタルガラスのシャンデリはピカピカに磨かれており、アンティーク家具は重厚感がある。壁掛け時計ですら素人目にも歴史を感じるくらい本物の気品が漂っていた。

 世界がまるで違う。うっとりと、もはや溜息しか出ない。
 この部屋に入った瞬間、抱かれてもいいと思った──


「美優(みゆ)……」

 ラグジュアリーな部屋に響く、男の声。私の名を呼ぶ唇は、そのまま私の唇を塞いだ。それがこの男との初めてのキスだった。
 舌が襲う。口の中で暴れていた。器用に動き回り、唇を合わせながらキスの角度も変える。
 
 ──信じられない
 ふたりの間での、初めての記念すべきキスなのに、この男は容赦なかった。ぜんぜん、やさしくないのだ。
 その上、慣れていることは知っていたけど、その経験値は予想以上だ。やっと解放されたときは、口のまわりが唾液で濡れまくっていた。

「もう少し手加減して。食べられるかと思った」
「俺のキスに文句言う女、初めてなんだけど」

 赤い舌がのぞく。唇をペロリと舐めて、男は余裕の笑みを浮かべた。
 真っ白なシーツには皺ひとつ見当たらない。最高のベッドメイキングの技は十円玉をシーツの上に落とすと跳ねるらしいけど、きっとそれは本当だ。
 しかし、手の平でシーツの感触を確かめていると、ふいにその手を取られた。

「随分と余裕だな」

 目の前の男は私の両手首を掴み、シーツにはりつけた。強い眼差しで見下ろされる。
 それは甘い瞳──ではなく、冷めた瞳。本気になった証拠だ。

 今まで、どこをどう踏み越えればいいのかをキスをしながらお互いに探り合っていたけど、先に覚悟を決めたのは男の方だった。
 再び襲われた唇は、さっきよりも深く舌が差しこまれ、息がままならない。怖いくらいの迫力にドクドクと胸が鳴って、私の中のボルテージが勝手に上がっていくのがわかる。
 止められない。この男に囚(とら)われたら、逃れられないと思った。

 なによ、この男。こんなに荒っぽかったっけ?

 確かに、抱かれてもいいと思ったけど、その豹変ぶりは反則だ。涙が滲んでくるような、切なさを含ませた時間を送るのだと思っていた。そんな中で味わうセックスは、いったいどんな感じなのだろうと漠然と思っていた。
 いつもクールで、めったに笑みを見せない男。だけど、限りなくやさしくて、いつでも私のことを心配してくれる。過保護過ぎるくらいに尽くしてくれて、だけど、深くは詮索してこない。そんないまいち掴めない男の本能を見られるのだという興味本位も、正直、あった。

「集中してくれねえと、萎(な)えるんだけど?」

 そう言って、男は眉根を寄せる。
 どうやら、かなり機嫌を悪くしてしまったようだ。期待に反して、冷ややかな空気がすっかり充満している。

「あ、ごめん」
「ごめんじゃねえよ。雰囲気台無しにしやがって」

 怒りをぶつけるように握られた手に力を入れられた。

「痛っ……」

 血流が止まるんじゃないかというくらいの激しい劣情は、怖いくらいだった。けど、それも一瞬のこと。

「こっちはそんなに余裕ないんだからな」

 指先で顎を持ち上げられて、今度は素直でいたわるようなキスをされた。一度離すと、もう一度、ゆっくりと重ね合わせてくる。それを何度か繰り返していると、不思議なことに、だんだんと夢うつつになっていく。
 目の前の男が作り出す世界に落とされて、いつの間にか溺れていた。一枚一枚、丁寧に衣服をはぎ取られ、その都度、男は私の髪に指を通したり、頬を撫でたりする。鎖骨を指でなぞって、耳に噛みついて、目を細めて笑っていた。

「こうやって遊びながらもいいかもな」

 男は、チュッと楽しそうに唇を当てた。

「好きにしていいよ。タケの好きなように……」
「従順な女のフリかよ?」
「フリじゃないよ。私、タケだからいいと思ったんだよ」

 スイートルームを借りてくれたのは、きっと私のため。
 ヨーロッパの古城を彷彿とさせるデザインの部屋の中にいると、自分がただのOLだということを忘れさせてくれる。限られた夢の時間で、私はお姫様になる。子供の頃に憧れていたガラスの靴を履いたシンデレラになったような気分になるのだ。
 お姫様だなんて。子供じみているし、二十三歳の大人の発想としては、かなりイタイ。だけどね、タケが王子様みたいだから、勘違いしちゃうの。
 クールな王子様。ちょっと口は悪いけど、十五歳の頃からお互いを知っているから、それはぜんぜん気にならない。むしろ、ひとりで大人になって、こうしてギャップを見せつけてくるから、新たな発見の中に私は落ちて、はまっていく。

 だけど変わらないのはそのやさしさ。
 ねえ、タケ? この現実離れした部屋を選んでくれたのは、タケなりの気遣いなんでしょう?

「“好きなように”ね……うれしいこと、言ってくれるじゃん。なら、遠慮しないで抱くぞ」

 そう言うや否や、タケの猛攻撃がはじまった。脇腹から腰のラインの素肌を大きな手が移動していく。それからその手で私の脚を広げさせると、その間に自分の身体を忍び込ませた。それがあまりにも早業で、びっくりして目を見開けば、至近距離で目が合う。

「遠慮しないって言っただろ」

 タケのご満悦の顔が見えた。なんだかそれもちょっと悔しい。
 でも、きっと、どう張り合おうとしたって敵うはずないんだ。抵抗したって無駄。それでもいいと思っているからこそ、私はこうして自慢にもならない裸体をさらしている。

「そんなの、最初から覚悟してるよ」

 私だってそれなりに経験はあるから、少しくらい乱暴でもたぶん平気だと思う。こんなのでよかったら、いくらでも利用してくださいという感じ。満足させられる身体とも思ってもいないけど、一応、女の機能は備わっているから。
 だけど、ぜんぜん投げやりな気持ちなんかじゃないんだよ。確かに、恋とか愛とか、そんなものは私たちの間には残念ながら存在しないけど、タケは私にとって大切な存在。不思議な私たちの関係は、今のところ、例えようがない。

「やっぱり、なかなかの余裕だな」

 だから違うのに。そう言おうとしたら、その口をキスで封じ込められた。胸の膨らみに手を置かれ、たったそれだけで全身がゾクッと粟立ってしまう。強く揉まれると、いてもたってもいられなくなった。

「反応よすぎ」

 だって久しぶりなんだもん、と言ったらタケはなんて思うだろう。また、いつものように心配してくれるのかな? 私がいまだに恋愛に否定的だと知ったら、すぐに抱き起こして、服を着せてくれていたのかな?

「だって、タケ、上手なんだもん」
「他の男と比べんな」
「比べてないよ。身体が勝手に反応しているだけでしょう」

 タケこそ、他の女の人と比べないでよね。いつぶりなの? とは敢えて聞かないけど、女はね、そういうの、気にするものなんだから。

 私は、タケの過去の女性遍歴をほとんど知らない。二十歳のときの同級会で再会して、それから、私たちの第二の歴史がはじまったわけだけど。よく考えたら、その頃から特定の相手がいるようなことは本人の口から聞いたことはなかった。
 ついでにそんな素振りもないから、いないのかもしれないけど……でも、本当はいるのかも。
 ん? 恋人がいたらマズイか。
 いやでも、そもそも、タケはそういう性格ではないような気がする。浮気や二股をかけるような面倒なことはしない。ひとりの女性に満足できないのなら、最初から恋人を作らなさそう。
 つまり、結論! セックスする相手はいたとしても、本命の彼女はきっといないのだろう。

「また考えごとかよ?」
「ごめん。だけどタケのことを考えていたの。ちなみに、さっきもだからね」

 このままだと本気で怒られそうだ。
 お詫びのつもりでタケの首に手をまわし、ぎゅっと引き寄せると、今度は私からキスをした。タケの真似をして、舌を駆使しながら頑張ってみる。だけどこれがやってみると、なかなか難しい。

「ヘタクソ」

 そして結局、馬鹿にされて、主導権はあっという間にタケに移った。
 ああ、やっぱりタケは大人だ。

「んっ……」

 ゆらゆらと揺りかごに揺られているような、ふわふわとした感覚になる。

「ふっ…んぁっ……」

 タケの手がシーツと背中の間に入り込んで、私はゆるやかに抱き締められていた。幸せの波間で、次第に全身がとろけていくのがわかった。スイッチが入ったのだ。
 熱い。奥が疼きまくっている。猛烈に欲している。

「んぁっ……はぁっ」

 私の反応を見て悟ったのだろう。タケが少し動きを加えながら、片方の手を伸ばしてきた。繊細な指先が、太腿(ふともも)の付け根に忍び寄る。指が襞(ひだ)に触れて、突起に辿り着いた。指の腹でぐりぐりと押される。
 身体が変化していく。徐々に高揚していって、じりじりとした快楽が襲ってきた。このままだと……

「あ、そこはダメ……これ以上、ムリ」

 すぐにイッちゃう……

「催促したの、そっちだろ?」
「……」

 意地悪に返されても、本当のことだから反論できない。でも、このままだと本当にダメなのは事実で、快感と不安が入り混じる中、見上げると、タケがニヤリと笑った。
 え? その顔って、どういう……
 でも、考える間もなく

「あっ! やっ」

 すぐさま指を中に一本差し入れた。スルリと簡単にそれは飲み込まれ、さっそく蜜音を奏でる。恥ずかしいその音は、騒音のない37階のスイートルームで、それはそれは大きく響いた。
 同時に、熱くて湿った舌が、耳の穴や首筋、うなじを這っていく。ゾクゾクと震える身体は、すっかりコントロールを失って……

「自分でもわかるだろ? ひくついてる、ここ」
「や、めて……」

 だけど、それでやめてくれるはずもない……

「すごいな。こんなに濡れてる」

 仕舞いには中をぐるっとかき回し、さらに羞恥心を煽った。
 馬鹿、いちいち言わないでよ……
 涼しい顔がチラチラとこちらを見ている。感じている顔を確認して、楽しんでいる。
 なんて余裕。人がアップアップ状態で言い返せないのをいいことに、好き勝手。
 油断すると、とんでもない声が出そうなのが怖くて、私は必死に口を固く結んでいた。それを解こうと、タケはそうやって、私をいじめているのだ。

「……タケ、やめて」

 とうとう限界に達した私はその手を止めようと手を伸ばす。けれど「邪魔だ」と言われて、あっけなくそれも跳ね返された。

「慣れさせないとダメだろう。痛くされたくなかったら、おとなしく言うこと聞いてろよ」

 やさしいような、やさしくないような。でも、もっともなことを言われて、言う通りにすることにした。

「あぁ、やだ、もう……」

 それからは、もてあそばれて、感じさせられて、思いっきり焦らされている。絶頂を味あわせる勢いで、いじられているのに、寸止めばかり。
 ひどい、ひどいよ。おかしくなっちゃう。
 このときの私は、まさに“めくるめく”状態で、一向に解放されない地獄を味わっていた。

「限界そうな顔してんな」

 指を引き抜いたタケがクスリと笑う。知的な顔が意地悪くなにかを企んでいて、体が楽になった反面、意識が追い詰められていった。
 誘惑の眼差しは、本人は意識していないはず。
 見惚れるほどの、きれいな顔は、とても罪深い。

「タケのせいだよ。タケがそうやって、いじめ──あっ!」

 言いかけて、衝撃が走る。前触れもなく、いきなり貫かれて、息が止まった。すっかり準備は整っていたから痛みはなかったけど、強引さと身勝手さに驚かされていた。

「本当は、参ってんのは俺の方だよ」

 私が、よほどショックな顔をしていたのだろう。フォローするようにタケが言う。

「ごめん。痛かったか?」

 私はその言葉に胸がいっぱいになり、大事にされているのだと実感した。

「平気。ちょっと、びっくりしただけだから。いいよ。私、タケになら、なにをされても構わない」

 抱き合う理由は見当たらない。好きという言葉は私たちの間には存在しない。別に今までの関係のままだっていいのに、それでも肌を求め合ってしまうのは、どうしてかな?
 快楽を得るため? 寂しさを埋めるため? だったら、相手は誰だってよかったはず。
 でも、そうではない。私はタケだから、いいと思った。このタイミングもちょうどよかったし、準備してくれたこの環境も理由のひとつ。
 心臓の鼓動を感じる。初めて聞く彼の音に、私は夢中になった。

「あぁっ……はぁ、んっ……」

 中を満たすモノが壁をすり上げている。完全に支配下。その動きは最初から力強くて、乱れる息が吐息となって吐き出されるが、それすらもキスをしながら吸い込んで奪おうとする。

「んっ……く、るしぃ……」

 薄目を開けて懇願する。しかし、彼には聞こえていないようだった。それを見て、急に可愛げが出てくる。
 たくましい身体つきなことを、今日、初めて知った。服の上からではわからなかった鍛えられた背中に手を差し伸べて、筋肉の動きを確かめる。汗で指が滑っていくけど、その度に動かして、受身ながらも自分なりの愛撫をした。

「……美優」

 まるで愛しい人に語りかけるよう。だから錯覚してしまいそうになる。それでも……
 ダメ、間違っちゃ……
 混沌(こんとん)とした意識の中でも、そのことをしっかりと言い聞かせている自分がいた。

「タケ……もっと激しくして」

 やさしくしないで。そんな切なそうな目をしないで。私にはそんな資格はないんだから。私はただ、あなたと離れるのが怖くて……一緒にいられる方法を考えていたら、これが最良の方法だと思ったの。
 最低なの。身体の繋がりで引きとめてしまう自分が情けない。
 でも、わかってほしい。中途半端な気持ちで抱かれているんじゃないってことを。あなたはただの気まぐれでも、私は決してそうじゃない──

 奥に到達する瞬間、引き抜く瞬間、ひとつひとつを感じながら、熱い身体を抱き締め合った。熱い空気に淫らさが混ざり、この世のものとは思えない空間は、例えるなら“楽園”。

 お願い。なにもかも忘れさせて。この瞬間だけでいい。

 私を救って──


 * * *


「一泊じゃなくて月単位。取りあえず、向こう半年分で話をつけた」

 へッドボードに背を預け、冷たいシャンパンを喉に流し、すっきりしたついでに、部屋の料金の話をしようとしていた。
 スイートルームのだいたいの相場はわかるので、ある程度の覚悟はしていたけど。桁外れなことを告げられ、持っていたグラスを落としそうになった。

「え、だってここ、日本でも有数の高級ホテルだよ。しかも、これだけの広い部屋が四部屋もあるんだから、一泊としたって相当でしょう?」
「別にいいだろ。仕事場としても使うんだから。それに掃除だってやってくれるし、セキュリティもセットだ。それらの人件費と設備を金で買ったと思えば、少しは納得できるだろう?」
「だとしても、どれだけ無駄が多いのよ」

 自分のことではないのに、すごく心配になる。タケのことだから、もちろん、そのあたりはちゃんと計算しているのだろうけど。

「美優はなにも心配することねえよ」

 シャンパンからミネラルウオーターに切り替えたタケが、透明な瓶から直接、口に含む。あれだけ動いたから、喉が渇いていたらしい。勢いよく、それは、おさまっていった。

「必要経費でどれだけ落ちるんだろう?」

 私が言うのも変だけど、責任みたいなものを感じる。

「税理士に相談してみる。ま、全額は無理だろうけど」

 と言いつつ、ぜんぜん気にしていない様子。三割だろうが六割だろうが、タケにとってはどうでもいいことなだ。大金を動かしているわりには、自分の手元に残る利益に執着がない。興味はそこじゃないのか、それとも……

「有り余るお金ってことか」

 次元が違い過ぎる。もはや私の頭も麻痺してきているようで、そんなもんかなんて思っている始末。

 タケは都内の大学院に籍を置く学生。大学時代に会社を興し、早三年。今の地位を築いた。
 事業内容はよく知らない。たまに手伝ってくれる仕事のパートナーはいるらしいけど、会ったこともないし、どんな人なのかすら知らなくて謎だらけ。そこまで踏み込んでいいのかと躊躇して、仕事のことを尋ねたことはなかった。
 タケから聞かされているのはM&A(企業買収)やサイト売買ということだけ。あと株もやっているらしい……

「金は動かさないと、自分にもまわってこないもんだよ。この部屋を借りることだって、仕事に有益だと思ったから借りたまでだ」

 信用ということだろうか。こことは別に都内にタワーマンションの一室も持っていて、今まではそこを仕事の拠点にしていたみたいだけど。あの部屋もかなりグレードの高い部屋だけど、それ以上のこのスイートルームは訪れた人間は全員魅了されるはずだ。

「もしかして、あの仕事部屋、わざわざ改装したの? 大胆だよね。できて間もないホテルのスイートの内装をぶち壊しちゃう度胸は、見習いたいよ」
「悪いかよ?」
「そうじゃないけど。当時、このお部屋のデザインをした人や施工した人たちが知ったら、きっと涙目だよ。相当、苦労して完成させたのにってね」
「そんなの、知るか」

 部屋は四部屋。ベッドルームとリビングはプライベート用で、応接室は仕事用。そして、もうひとつの部屋は仕事部屋、つまりタケの会社の事務所である。
 想像だけど。ここは、もともと、2ベッドルーム・スイートだったはず。会社事務所のその部屋は、もともとベッドルームで、タケの要望で内装がリニューアルされ、家具が入れ替えられたのだろう。
 半年契約のことを聞き、言われてみれば、だ。あの部屋だけ雰囲気が違う。モダンな書棚やデスクが置かれていたのは、そういうことだったのだ。

 ハイスペックなPCが整然と並べられた仕事部屋は、部屋全体が綿密に計算されて、足りないものはもちろん、無駄なものもひとつもない。おそらく、自然光の入り込む角度や空調設備の位置も、タケの頭に中にはしっかりと入っている。部屋の空気の流れも読んでいると思わせるレイアウトだった。
 全体的な印象は、無機質で少しだけ冷たい。グレーや白、黒といった色ばかりのせいか、ぬくもりは一切感じられなかった。
 でも、タケらしい。仕事をしているタケは、あんな感じだから。仕事のときは、恐ろしい鬼となる。ほんの少しの気の緩みで莫大な損失を被る可能性もあるのだから、それは当然だ。

「そうだ。ここの鍵を渡しておくよ」
「合鍵?」

 ベッドの下に脱ぎ捨てたスラックスのポケットをあさり、出てきたのはゴールドのシリンダーキー。手渡されたキーには、同じゴールドの丸いキーホルダーもついていた。いまどきカードキーが主流なのに珍しいなと思った。

「失くすなよ。その合鍵は、そこらの店で簡単につくれるもんじゃないんだからな」
「最新式なの?」
「複製はまずできない」

 なんだか責任重大だ。絶対に失くさないように、お財布の中に入れておこう。生まれて初めてもらう合鍵がスイートルームのものというのも、なかなか、気が重い。
 ずしりと重みのあるそれは、見れば見るほど高級で。たかが鍵のくせにと思ってしまう。
 でも、あれ?

「このキーホルダー。キラキラ光ってるよ」
「ダイヤだろ」

 ティアラをモチーフにしたデザインは、このホテルのロゴである。それがキーホルダーに刻印されていた。そのティアラに散りばめられたキラキラが、その……

「え、これ、ダイヤモンドなの?」
「別にいらないのにな。たかがキーホルダーなのに」

 あっさりと言う。
 そりゃあ、仕事と大学院の研究に没頭しているタケは、宝石なんてものには興味がないのかもしれないけど。ダイヤモンドだよ。女の子の憧れのジュエリーなんだから。

「俺が迎えに行けないときもある。そのときは美優が仕事帰りに直接ここに来た方が早いと思うし、俺がいないときもその鍵使って好きに使えよ」
「仕事でも使っているのに?」
「どっちにしても、仕事部屋の入口は別だから」
「他にも入口があるんだ」
「中で部屋はつながっているけど、普段は施錠している。向こうからプライベート空間に入ることはないよ。その逆もだ」

 ああ、なるほど。私は、そちら側へは立入禁止ということか。今日は特別に見せてくれたんだ。

「コンシェルジュには言っておくよ」
「うん。ありがとう」

 さすがにタケがいないときに、この部屋でひとりで過ごすことはないけど、タケがそこまで言ってくれる気持ちはうれしい。
 本音を言うと怖気づいている。私には相応しくないこのスイートルームに強烈なプレッシャーを感じていた。
 私はひとりっ子。子供の頃から親の期待を一心に背負いながらも応えられなかった私は、タケも幻滅させやしないか、そのことが気にかかっていた。

「なに、考えてる?」

 タケが私の冷たくなった肩を抱く。もう片方の手が、私の手の中の空のシャンパングラスを抜き取った。

「この部屋にいると、仕事なんてしたくなくなるなあと思って」

 敏感なタケにどこまで嘘が通じるかわからないけど、一応、そう答えた。

「そんな場所を会社にした俺に、よく言えるな」
「あはっ。そういえばそうだね。でも、あの部屋は仕事がはかどりそうだよ。タケ、いい趣味してるね」

 そう言うと、タケは小さく笑うだけで、それ以上は問い詰めることはなかった。ただ、相変わらず肩を抱いているだけ。
 だけど、触れている手の平からは、安心感が伝わってくる。あたたかくて、やさしい。

「でも、仕事って自分の中のほとんどを占めるものだよね。だから、それがうまくいっていないと、自分の人生にも自信が持てない」
「まだ入社して数ヶ月だろ?」
「月日は関係ない。私なんて、いてもいなくてもいいような仕事しかしていないから。きっとこの先も同じ」
「総務部は会社の心臓部だぞ。むしろ、社内で一番重要と言っていい」
「生産性のない部署なのに?」
「でも、なくなったら、会社は成り立たない」

 それはそうなんだろうけど。三流大学出身の私は、それだけでもコンプレックスで、自分の代わりなんていくらでもいることを自覚しているから、時々、不安になる。私は、そこにいていいのだろうかと。

「やっぱり、営業や技術職の人たちはすごいなって思うよ。秘書課の人たちなんて、そりゃあ優雅そのものだもん。社長秘書っていう響きもいいよね。いいなあ、憧れる」

 キスをしようとしているタケに笑いかけると、タケが一瞬だけ目を逸らし、そしてもう一度、まっすぐに見つめる。

「おまえ、社長秘書になりたいのか?」
「どっちにしても、私がなれるわけないから。もちろん、なりたくもないけどね」

 すると「そりゃあ、よかった」と、タケが唇を重ねてきた。私は目をつぶり、深くなっていくのを従順に受け入れた。
 すっかり冷えた身体。さっきまでの汗だくの時間が懐かしい。秋が深まったこの季節、37階から望む夜景は、少しだけクリアだった。
 もうすぐ冬がやって来る。それから春が来て夏が来て、また秋が来る。そのときも、まだ私は、あなたの隣にいますか?

 ゆっくりと身体が倒された。ほろ酔いのまま、これからのことを最後まで覚えている自信はまるでない。
 でも、それでもいい。目が覚めたとき、あなたが隣にいてくれるのなら、それだけで私は安心できる。

 甘えるようにキスをせがむ。肌を寄せ合いながら、互いの体温の高まりを知る。それからは、昂ぶるのみ。
 楽園を見つけた私たちは、欲情に身を焦がして、淫らに喘いで、本能を見せ合って……

 そして、不思議な絆で結ばれるのだ。



『楽園―ベッド・イン―』
−END−


このお話は長編の『愛を伝える方法(完結済)』のプロローグ的なお話となっております。
本編完結後に考えたお話なので、先に本編を読んだ方の中には順番が逆になってしまって不快な思いをさせてしまったかもしれませんが、ご了承下さい。

未読の方で、興味のある方は本編の方もぜひ覗いてみてください。
かなり長いお話ですが、完結済です。
お時間があるときにでも、ごゆっくりどうぞ。
            



[2013年09月28日]

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