第2章 恋愛の後遺症(003)

 まだ、ドキドキしている。

 あれから家まで車で送ってもらったけど、そのときになって初めて知った。そこそこ酔っていた私とは反対に世良さんは、ワイングラスに口すらつけていなかったということを。
 お酒好きだけど、一生に一度のプロポーズという重大な日なので今日はアルコールは飲まないと決めていた世良さん。レストランに着く前から緊張して喉がカラカラだったそうだけど、そうは見えなかった。
 なので、いまいち信じられなかったけど、よくよく思い出せば今日はワインと一緒にペリエを注文していた。

 けれどワインを飲んでいた私も、帰る頃には体の中のアルコールは見事に吹き飛んでいて、車の中では妙に意識してしまってガチガチだった。おかげでかなりヘトヘト。家に着いて牛乳で作ったあたたかいココアでなんとか気持ちを落ち着かせようとするけど、どうしても思い出してしまう。

 運転席で正面を見据える瞳がキラキラと輝いていて、瞬きするたびに動く長いまつ毛が繊細な印象だった。
 だけど、ハンドルを握る手の甲は男らしい。手すら握ったことがないのに、やっぱり握力は強いのかなと考えてみたり、手の平は触り心地がいいのかなと想像してみたり。世良さんの細かいところまでもが鮮明に浮かんできて、あまりにもいい男っぷりに胸が締めつけられた…──

『そんなに見られると照れちゃって運転しにくいよ』
『ごめんなさい。つい、見とれちゃって──あっ、いやっ、なんでもないです!』
 私ったら余計なことまで。世良さんに笑われちゃったよ。
『謝らなくていいんだよ。少しは僕に興味を持ってくれたということだからね』
『世良さんは素敵な人です。それは前から思っていました』
『本当かな?』
『嘘じゃありません。実際、会社でおモテになっていたじゃないですか』
『ぜんぜんモテないよ。本命の子には、いつもそっぽを向かれていたな』
『世良さんも振られることがあるんですか?』
『もちろんあるよ。でも、今度こそは頑張るよ。一度や二度、振られたくらいじゃ諦めないからね』

 世良さんはそう言って、楽しそうな顔をしていた。こんなときでも笑顔になれるなんて、世良さんはとても強い人だ。強いだけじゃない。誰よりもやさしい。

 ──…それほどまでの人なのに

 私のどこがいいのだろう? 考えれば考えるほどわからない。
 私がいつ世良さんに元気を与えていた? それは私の方なのに。世良さんの、大人なのに無邪気な笑顔を見ながら、ほんわかとした気持ちにさせてもらっていたのは私の方なんですよ。


 ***


 今まで二度、恋をした。
 一度目の恋の相手は高校時代に知り合った二歳年上の大学生のシンくん。

 私が生まれたのは東京だけど、商社マンの父の転勤のためにハワイ、福岡、北海道と三度、引越しをしている。
 高校と短大時代は北海道で過ごし、シンくんとは高校二年の冬に付き合いはじめたが、三年半で別れた。
 小学生の頃に開放的なハワイで過ごしてきたせいか、恋愛に積極的だった私。高校時代からシンくんに好き好き攻撃を繰り返すほどのべったりな毎日で、シンくんのいない人生なんて考えられなかった。
 そのため、東京の会社に就職が決まっていた大学四年のシンくんを追いかけるように、短大二年だった私も東京で就職活動をして、なんとか東京に本社のある高嶋建設に就職したのだった。

 ところが入社して三カ月ほどたった頃、シンくんが急に冷たくなった。

『亜矢。悪いけど、俺が今、優先したいのは仕事なんだよ。就職したばかりで覚えなきゃならないことがたくさんあるんだ』
『私たち、結婚の約束をしたよね? 就職したら、なるべく早めに籍を入れようって』
『あのときと状況が違うんだよ。とてもじゃないけど結婚なんて考えられない』
『じゃあ、待つよ。だから、シンくん、そんなこと言わないで』
『亜矢、まだわからない? 俺は亜矢と別れたいって言ってるんだ』
 強く結ばれていると信じていた絆が、あっけなく崩壊した瞬間だった。
 ハジメテを捧げた相手。『痛くない?』と何度も確認して、私を女にしてくれたシンくん。一緒に上京したいと言った私に『うれしいよ』と言って抱き締めてくれたよね。この先もシンくんと一緒に歩んで行くのだと信じて疑わなかった。
 もっとたくさん会いたいと言っただけなのに。それなのにどうして別れ話になっちゃうの?私だって会社に就職したばかりで、覚えることがたくさんあった。毎日が不安だったし、心細くもあった。それでもシンくんがいてくれたから頑張ろうと思えたんだよ。
『もしかして他に好きな人ができたの?』
 このときまでは信じていた。だから、そんなことが簡単に言えた。だけど、そう尋ねた瞬間に目を逸らされて、積み上げてきたものが一気に崩れた。
『へえ。そうなんだ。同じ会社の人なの?』
『亜矢、ごめん。俺を追いかけて上京までされて、正直、プレッシャーだった。おまえの気持ち、重いんだよ』
 謝りながら、何を言っているのだろうと思った。何が『ごめん』なの? 私を全否定して思いっ切り、けなしているじゃない。
『浮気するなんてサイテー。シンくんなんて、こっちから願い下げだよ!』
 絶対に泣くものかときつく睨み付けてやった。
 だいたいね、上京することを決めたことはシンくんのことだけが理由じゃないんだからね。父の仕事の関係で再び転勤も有り得るから、北海道に残ることに執着する必要がなかったの!
 言うのも面倒だから言わないけど。せいぜい“俺を追いかけて来たしつこい女”だと思って、上から目線でいなさいよ。まったく、シンくんには幻滅。新しい彼女がかわいそうなくらい。
 それから三日後。悩んだ末にスマホに登録されている電話番号もメアドも写メも削除して、プリクラも誕生日のプレゼントの指輪もピアスも全部捨てた。

 こうして一度目の恋は幕を閉じた。
 けれど三年半の思い出は、いざ振り返るとたくさんあり過ぎた。強気で別れを告げたけど思ったよりもダメージが大きくて、それから十カ月も引きずることとなる。

 ただ皮肉なことに、そんな私をどん底から救い出してくれたのが二番目の人だった…──

 同じ会社のハヤトは、ひとつ年上の建築課の人。一日中、現場に出ていて社内で会うことはめったになかったけど、受付を通るハヤトと日を追うごとに目が合う回数が増えていった。
 意識せずにいられなかった。ゆるやかな時間の流れがよかったのかもしれない。少しずつ仕事が楽しくなって、少しずつハヤトを見つめる時間が長くなっていった。こうして私たちは自然な流れで付き合うことになった。
『来月のお盆休みなんだけど。ハヤトの休みはいつからいつまで?』
 付き合って二年がたっていた。このとき、父の転勤のため両親は神戸に移り住んでいた。私はお盆休みを利用して、両親のもとへ帰ろうと思っていたのだけど、できればハヤトを両親に紹介したいなと思っていた。
『なんとか二連休は取れそうだけど、お盆中に取れるかは微妙だな』
 ハヤトの部署の場合、会社が休みでも現場の稼働状況によって仕事になることが多い。しかも、お正月と違い、お盆は現場はなかなか休みにならない。
『お盆にお休み取るのは無理かな?』
『どっか行きたいとこでもあるのか?』
『うん。うちの親がハヤトに会いたいって言っているんだけど』
 恐る恐る口にしてみた。付き合って二年。そろそろ結婚の話が出てもいい時期じゃないかなと思うんだけど、ハヤトはそんな話をちっともしてくれなかった。
 だからと言って自分から結婚という言葉を出すのは女の子として抵抗がある。プロポーズは自分からではなくハヤトからしてほしい。両親に会ってほしいなんて言ったらプレッシャーに感じるとは思うけど、そろそろはっきりしてほしかったこともあり、思い切って打診してみる。
『一緒に私の実家に行かない?』
 言ってしまった。もう、あとには引けない。私はハヤトの様子をうかがった。
『ハヤト?』
 しかし、見事に絶句してしまったハヤト。その姿に私はショックを受けていた。びっくりとか緊張ならわかるんだけど、目の前のハヤトは、なんだか迷惑そうな顔に見えたからだ。
 ねえ? 私の両親に会うのがそんなに嫌なの? 心の中で呟きながら涙が出そうだった。
『……あ、うん。どうだろうな。今はなんとも言えないな』
『ご、ごめんねっ。さすがにお盆に都合よく休めないよね。無理にじゃないから。都合が良ければの話なの』
 必死にフォローしている自分が情けなくて、悲しかった。ハヤトは私と同じ気持ちではないのかもしれない。
 それでもなんとか自分をなぐさめた。そうだよね。まだ入社三年目の二十五歳だもん。結婚は、まだ早いか……
『ごめんな。休みの日は現場監督だけでなくて、職人さんたちとも調整しないといけないんだ。俺の希望は通りにくくて……』

 そして案の定と言うべきか。翌月の八月に私は振られた。
 別れ話を切り出されたとき、シンくんのときと違って、めちゃめちゃ泣いた。恥ずかしいくらいにすがった。別れたくないと何度も言った。だけどハヤトは『ごめん』としか言ってくれなかった。
 それでも私は会社で普通に振舞ったんだよ。受付の仕事だから暗い顔なんてできない。どんなに辛くても悲しくても笑顔でいなくちゃいけなかったから……
 ハヤトを見かけるたびに目で追ってしまう自分がいたけど。こちらをチラッとも見ようとしない彼の後ろ姿に、何度、叫びたかったか。
 待って、行かないで、私はまだ好きなの──と届かない声を心の中で響かせていた。

 そんな私に追い打ちをかけたのが、総務部にいる同期の女の子からの情報だった。
『ハヤトさんなんだけど。うちの緒川さんと結婚が決まったこと、知ってた?』
 緒川さんとは総務部の人で、ハヤトと同期入社の女の子だ。
『ハヤトが結婚?』
 別れてから九カ月後のことだった。ハヤトが別な女の子と付き合っていたことを知ったのも初めてだった私は寝耳に水で、どうしても信じられなかった。
『嘘……いつから付き合っていたの?』
『亜矢と別れたあとみたいだけど。結婚式の日取りも決まっていてね……スピード婚みたい』
『結婚式はいつなの?』
『七月だって』
 今から二カ月後だ。
『私は披露宴に招待されていないんだけど、総務部の先輩が招待されてた』
『そんな……』
 こんな仕打ちってないよ。私たち、別れて一年もたっていないんだよ。それなのに他の人と結婚だなんて。ひどすぎる。
『やっぱり亜矢も知らなかったんだね。私も今日、初めて知ったんだ』

 このときの衝撃は一度目の失恋よりも大きかったように思う。私との結婚が前向きでなかったのに、他の女性とはあっさりと結婚を決めてしまうことが、私からありとあらゆる自信を奪っていった。
 まさにどん底の日々。どんなに頑張ろうと思っても恋にも仕事にも向き合えなくなった私は、ハヤトの結婚式があった七月に会社を退職した。
 私とハヤトが付き合っていたことを知っている人は多かったから惨めだった。逃げるように会社を辞めて、それから二カ月間近く、家に閉じこもる生活をしていた。

 そんなある日、父から私の状況を聞いた叔母である大久保萌(おおくぼもえ)が手を差し伸べてくれた。萌さんは父の妹で、父とは年齢がひとまわり違う。
 お父さん、心配性なんだよね。私が上京するとき、萌さんに私のことをお願いしていたらしくて、学生時代には萌さんとちょくちょく連絡を取り合っていた。
 萌さんは春山デザイン事務所の春山社長の元奥さん。もともと春山デザイン事務所で働いていたのだが、離婚をきっかけに旧姓に戻り、知り合いの建築設計の会社へ移った。
 私が現在、春山デンザイン事務所で働けていられるのは、萌さんが元旦那さんでもある春山社長に私を紹介してくれたからだった。

 世良さんは、それらの過去を知っている。ハヤトとのことは社内の噂としても聞いていたとは思うけど、シンくんのことも含めて私からすべてを打ち明けた。
 何度目の食事のときだっただろう。ふいに過去の恋愛のことを思い出してしまい、泣き出した私は、世良さんに胸の中に溜め込んでいたものを吐き出させてもらった。
『辛かったよね』と。たったそれだけの言葉だったけど、ようやく惨めさから解放されたような気がした。


 
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