第3章 ときめきの瞬間(006)

 そのあとはベイエリアをドライブ。すると、少し先にレインボーブリッジが見えてきて、ちょっと興奮。
「大きい!」
「初めて?」
「……いえ。違いますけど、何度見ても迫力あるなあと」
「前の彼と見たんだろうけど、妬けるな」
「世良さんこそ。私で何人目ですか?」
 途端に黙り込む世良さん。
「もしかして、人数を数えてます?」
「そう言えば……と思ったんだけど。やっぱり、わからないな」
 平然と言われて、本当にこの人は私を好きなのかなと疑いたくなるほど。普通、適当に誤魔化すでしょう。間違えても、女性の数を数えませんから。
「どれだけいるんですか」
「そんなにいないよ。いちいち覚えていないだけ。それに、どちらかというと、ひとりで通ることの方が多いよ」
「おひとりで、この辺りまでドライブに来るんですか?」
 不思議に思って尋ねた。ドライブが趣味だなんて、聞いたことがなかったから。
「仕事だよ。現場調査や打ち合わせ。この辺りの再開発は90年代から本格的にはじまって一応完了したんだけど、今でも仕事は転がっているんだよ」
 建物は完成してもリニューアル工事が発生するときがあるそうだ。確かにこのエリアは竣工後、年数が経過している建物が多い。あれだけの施設があれば、毎日どこかしらで工事が行われていてもおかしくない。
 さすが世良さん。そういうところでビシッと引き締めてくるからドキッとする。

「北欧でよく使われている言葉なんだけどブルーモーメントって知ってる?」
「いいえ。なんですか?」
「昼と夜が入れ替わる間の空のこと。夜明け前と日没後のほんの短い時間に見えるんだよ」
 例えば、黄昏時。太陽が西の空に沈んだあと、東の空から青色に包まれていく神秘的な現象。
 上空で太陽の光が塵や水蒸気によって吸収されて、青い光だけが地上に降り注ぐ。日本ではそれが十分程度なのだが、北欧ではそれが数時間続くのだそうだ。
「モーメント。青の瞬間と言っても、数時間も見られるんですね」
「なんでだろうね。北欧の人たちは、それだけ、その空が大切で愛おしいということなのかな」
 事務所の中にいると、空なんてほとんど見ることはない。夕方の空というと、夕焼けばかりに目がいっていたけど、今度、ブルーモーメントの空を探してみようかな。
「海があると空が広く見えるだろう。だから、このあたりは絶好のビューポイントなんだよ。ただ残念。今日は曇り空だから難しいな」
「レインボーブリッジを背景に見たかったです」
「見ようと思えば、見られるよ。今度は天気をちゃんと確認しておくから、また来ようね」
「はい」
 ……あっ。
 つい、つられて『はい』なんて言ってしまったけど、世良さん、気づいているかな。次のデートの約束。どれくらい未来のことなのかわからないけど、この先も一緒だよと言われているみたい。
 でも世良さんはその場のノリで言ったのかな。前を向いたままの世良さんは、特になんの反応も示さなかった。

 連なる車の列は遙か彼方まで続いていた。ここまででもかなりの距離。あまりにも快適なドライブだったので気づかなかったけど、日もだいぶ傾いている。もうそんな時間なんだなと思いながら、思いのほか、楽しんでいる自分がいることに驚いていた。
 以前にもドライブをしたことがあったけど、世良さんとの時間はいつも自然な流れで過ぎていく。だけど今となっては、そのことが私にとって障害となっている。
 過去の恋愛で抱いていた好きという激しい感情を世良さんとの間に感じないことが引っ掛かって、その胸に飛び込むことができない。
 それでも確かに感じている、この胸のときめき。ただ、今の私にはそれが恋に発展するサインなのか、それとも思い違いなのかを見極められないのがもどかしい。

「車を降りて少し歩こうか」
 突然、世良さんがそう言い出して首都高を降りた。


 ***


「疲れていない? 足は痛くない?」
 駐車場に車を停めて、お台場を散策中。世良さんは、さっそくヒールの私を心配してくれている。
「平気ですよ。世良さんこそ、ずっと運転していたから、お疲れじゃないんですか?」
「好きな女の子を乗せて運転しているのに疲れる男なんているのかな」
「でも、あまり無理はしないで下さいね。夕べも遅くまで残業だったんでしょう?」
「わかるの?」
「残業がない日の方が珍しいのは知ってます」
 せめて、これくらいの心配はさせて下さい。世良さんの一生懸命さはいつも伝わってきます。時々、大丈夫かなって。眠そうな夜の電話の声が気になってしまうんです。

 海がさざ波を立てていた。遠くに東京の街並みが見える。日没直前の景色は明かりを灯した建物の輪郭がはっきり見えて、夜景とは違う美しさがある。
 この景色をブルーモーメントの中で見られたら格別だろうな。
「こういう景色もなかなかだと思わない?」
「はい。実態がちゃんとあるからなのか、人の息づかいというか、生命力を感じます。夜景とは違いますね」
 夜景に浮かぶ光の点は、繊細で、どこか儚くて、幻のように思えるときがある。そこに人々の生活を思い浮かべることもできるけど、リアルに感じられない。
 それとは違い、遠くに映る高層ビルの景色には都会で働く人々が目に浮かぶ。コピーをとっている様子や受話器を耳に当てる姿を自分と重ね合わせ、今日は日曜なのに休日出勤なのかなとこっそり思った。
「亜矢ちゃんの事務所とうちの会社が目指しているものは、限りなく近いけど、正反対でもあるよね」
 闇と光。真逆の世界で力を発揮する。でもどちらも必要なもの。人が息づく街があるからこそのライティング。人を魅了する光を描くためにはキャンバスが欠かせないのだ。
「だから、一緒にお仕事ができるんですよ。ないものを補い合えるんですから」
「いいこと言うね」
「でも私、事務の仕事しかわからないので、ちょっと寂しいです。何かを作り上げるって、やっぱり快感なんですか?」
 どんな気持ちなのだろう。どれだけの感動に包まれるのだろう。
「そりゃあね。僕は設計だから直接作るわけじゃないけど、それでも感無量な気持ちになるよ」
「現場の人の苦労を知っているから、なおさらですよね」
 世良さんは、以前は現場で働いていた。両方の気持ちがわかる立場だから、言葉にならないのだろう。
「人間はすごいね。自分よりも遙かに大きなものを作ってしまうんだから。飛行機なんて、空を飛ぶんだよ」
「飛行機は不思議ですよね。何時間も飛んでいられるんですもん」
「仕組みを知っても、それでもやっぱり不思議だよ。素人だからかな」
 子供みたいに高揚している。世良さんに仕事を語らせると、内容がどんどん広がっていく。そのうち宇宙にまで飛び出してしまうんじゃないかと思うくらい。それくらい仕事好きなことが伝わってくる。

「それより、亜矢ちゃんは専門の仕事をやりたいの?」
「それはさすがに……あの世界は基本がないと。実際、美術大学出身の人が多いんですよね」
「必ずしもそうとは限らないよ。春山デザインの人にも元メーカー出身の人がいなかったっけ?」
「いますよ。だけど、あの人は特別です。もともとセンスがある方ですから」
 アウトレットモールのイルミネーションを担当した人がその人。照明メーカーの会社を辞めて、うちの事務所に転職した。春山社長に憧れていたという彼は、現在もめきめきと才能を伸ばしている。
「私はそこまでは考えていないんです。でも、少しでも覚えたいなとは思っていて、取りあえず、おうちでCADの勉強だけは進めています」

 CADは図面をパソコンで描くソフト。業者間での図面データのやり取りも頻繁。建設業界では扱えることが常識だ。
 しかし、最近はCADどころか、照度計算機能を持つ3次元CG用のソフトに注目が集まっていて、取り入れている設計会社もある。
 特に、実際の建物で試行錯誤できないライティングデザインは、CGでプランをプレゼンすることが求めらる時代になりつつある。施主や施工する人間にこちらの意向を伝える際に、平面図やスケッチよりも伝わりやすいというのも利点だ。

「CADは最低限の技術ですから」
「そっか。たださ、CADは少しやれば誰にでもできること。言い方は悪いけど、トレースしかできないレベルなら、アルバイトやパートの人に任せた方が会社としては得なんだよ」
「そうですけど。それができないと仕事にならないじゃないですか」
 世良さんにしては珍しく厳しい言い方だ。ちょっとショックだな。
「ごめんね。亜矢ちゃんの頑張りを否定しているわけではないんだ」
 私の様子を察して、眉を下げる世良さん。
「僕が言いたいのは、大事なのはそこじゃないということ。そういう分野で働いている女性の多くは今の亜矢ちゃんより、もっと高い向上心を持っているんだ」
「私だって趣味の範囲で勉強しているんじゃありません」
 私もつい、ムキになって言い返した。それでも世良さんは冷静に続ける。
「誤解しないで。亜矢ちゃんがプライベートの時間を潰してまで努力していることにはびっくりしたし、感心もした。だけどね、そういった目先の技術よりも、もっと勉強することがあると思うんだ」
「他に?」
 そんなこと、考えたことなんてなかった。自分では思いつかない。何をすればいいのだろう。

「外国のライティングの歴史を調べたり、デザインをたくさん見たりするといいよ」
「ニューヨークやラスベガスですか?」
 タイムズ・スクエアやベラージオの噴水ショー、それからフレモント・ストリート・エクスペリエンスはあまりにも有名。
「それもいいけど、ヨーロッパもなかなか斬新だよ。パリにリヨンにベニス。あとコペンハーゲンとかね」
「ブルーモーメント、ですね」
「そうそう。コペンハーゲンはブルーモーメントをバックにして映る街並みがきれいらしいよ」
 明かりがぽつんぽつんと点在している様子は、煌びやかな夜景とはまた違う美しさがあるのだそうだ。
「有名なイルミネーションのスポットもあるけど、それよりも僕が興味があるのは街灯でね、日本とは違う照明方式なんだよ」
 日本の街灯はポールを立てて、その上に照明器具を設置する。しかし、コペンハーゲンでは通りを挟んで空中で建物と建物をつなぐ支持線に照明器具を通して照らすのだそうだ。イメージ的には日本のお祭りのときの提灯に近い。
「詳しいですね。ヨーロッパに行かれたことがあるんですか?」
 世良さんは物知りだ。建築関係の人なのに、ライティングのこともよく勉強している。
「ヨーロッパは一度だけ。でも時間が足りなくて、パリとリヨンだけだけど」
「へえ。そうだったんですか。前から思っていたんですけど、世良さんって見分が広いですよね」
「そうかな。普通だと思うよ。でも、いつか一緒にヨーロッパに行きたいな。新婚旅行で行くのもいいね。亜矢ちゃんの勉強も兼ねて」
「はぁ……」

 どさくさ紛れに攻めてくる。わざとじゃないのだろうけど、やっぱり返答に困るよ。
「わざとだよ」
「はい?」
「どう? こういうやり方だと結婚を具体的に考えられない?」
「うーん。ちょっと無理があるかもしれません」
 ベッドも新婚旅行も、世良さんの真摯なアプローチだけど、そういう問題じゃないんだよね。
 形からというのは不純なような気がする。結婚は相手の人と一生添い遂げる誓いだから、丸めこまれたくない。
「覚悟してと言ったよね。だから遠慮もしない。思ったことはどんどん言わせてもらう」

 海風で髪が揺れる。世良さんから淡いさわやかな香りが漂ってきて、縮めてきた距離に動揺を見せると、自信に満ちた顔があった。
「亜矢ちゃんは、きっと僕と結婚したくなるよ」
 吸い込まれそうな瞳にうっとりする。大人の色気が女の部分を誘う。弱いところを攻められて、囚われて、私は視線を逸らせない。
「そういう言い方は卑怯です」
「どうして?」
「油断すると、その気になっちゃいそうです」
「それが狙いだから。マインドコントロール……なんてね」
 迷いなく、その胸に飛び込めたらどんなにいいか。幸せになれるに違いない。世良さんの深い愛情に包まれて、私は平穏な毎日が送られるはず。
「私に、それだけの価値があるとは思えません」
 世良さんは、背が高くて、脚も長くて、端正な顔立ちで、頭が良くて、王子様そのもの。謙遜でなく、私のような人間に世良さんはもったいないと本気で思う。世良さんには、きれいで、聡明で、仕事のできる格好いい女性が似合うのだから。
「好きなんだ。誰よりも。それじゃ、ダメなのかな?」
 不意に世良さんの身体が傾いてきて、そっと耳打ちされた。
「世良さん……」
 周囲にいるたくさんの人が見えなくなって二人だけの世界になる。すっと身体が離れたかと思ったら、にこやかな顔が見下ろしていて、私は涙が出そうだった。私に、もう一度、人を信じることを教えてくれようとしている。
「ゆっくりでいいよ。気長に待つから。だから、絶対に僕と結婚してよ」
 信じていいのかな? 私にも、もう一度、人を愛することができるのかな?

 遠くにある雲の切れ間からミラクルな青い空が見えた。ブルーモーメントだ。なんてやさしい色なのだろう。
 深い青なのに、あたたかい。まるで、世良さんのようだった。汚(けが)れのない彼の心に身をゆだねながら、私は遠くに世良さんとの未来をぼんやりと夢見ていた。



 
 
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