第4章 守らせてほしい(008)

「亜矢ちゃん!」
 聞き慣れた声が部屋に響いた。
「世良さん!」
「大丈夫? 怪我は? 煙は吸っていない?」
「それはぜんぜん大丈夫です。私もさっき来たばかりなんです」
 それを聞いた世良さんは安堵して、顔をくしゃくしゃにする。
 それから「亜矢ちゃん……」と今にも泣き出しそうな声を出して私を抱き締めてきた。それは熱い抱擁。まるで恋人同士みたいに、きつく、苦しいくらいに。さらに、小さな声で「よかったあ」と何度も繰り返している。
「怖かったよね」
「……いえ、大丈夫です」
「本当?」
「はい。家を留守にしていたおかげでなんとか……」
 初めての世良さん胸の中。心臓のドクンドクンという音まで感じる。ワイシャツ越しでも、ほっぺに体温が伝わってくる。羽毛の中に埋もれているみたいに、ぬくぬくしていた。
 そして、鼻をくすぐる世良さんの匂い。ベイエリアの海風に乗って届いたものと同じさわやかな香りだった。ほっとする。世良さんがいてくれてよかった。
 本当は怖いんです。不安なんです。強がりを言っちゃったけど、本当はすごくうれしいんです。

「世良さん、来て下さってありがとうございます。だけど、どうしてここに?」
 抱き締められた腕の中でなんとか顔を上げた。
「春山社長から電話があったんだよ」
「いつの間に」
「春山社長も急いでいたみたいで、あまり詳しいことを聞けなかったんだ。だから、ここに来るまで生きた心地がしなかった」
 事務所を出る間際、慌ただしい状況でアポイントのキャンセルの電話をしていたのは知っていたけど、世良さんにまで電話をしていたとは知らなかった。
「心配かけてごめんなさい。世良さん、お仕事の途中なんじゃないんですか?」
「そんなこと、どうだっていいよ。それよりも何よりも亜矢ちゃんだよ」
「よくないです。世良さんは管理職なんですから、お仕事を放り出すなんてダメです」
「放り出してなんていないよ。ちゃんと早退してきたから」
「え!」
「当たり前だよ。亜矢ちゃんがこんなときに仕事なんてできるわけないよ」
 そうは言うけど、世良さんほどの人がそう簡単に早退できるはずがない。今日やるべきことを今日やらないと、明日が大変になるに違いないのに。
 同じ会社なら仕事のお手伝いができたんだけどな。残念だけど、会社が違うと、それもできない。
「ごめんなさい」
「謝らないでよ。僕が勝手にしたことなんだから」
 世良さんは泣き出しそうな私を落ち着かせようと、右手で私の頭を撫でてくれる。「いい子だね」と、泣くことを我慢している二十七歳の私を褒めてくれた。
 ううっ……世良さんっ! そういうの、弱いんです。両親も友達もいない東京で不安いっぱいに就職をして、信じていた人に去られ、それでも頑張らなきゃと虚勢を張ってきた私という意地っ張りな人格が崩れていってしまう。
 小さい頃からそうだった。ハワイからの帰国子女だった私は、日本の生活に馴染めずに、学校でもだんだんと孤立していった。
 本当はもっと元気いっぱいな子供だった。でも、日本の学校では自己主張をし過ぎてはいけない。それを学びながら暮らしてきたけど、結局、大人になっても日本人の謙虚な部分をマスターし切れなくて、シンくんとハヤトに振られたんだ。

「僕に亜矢ちゃんを守らせてほしい」
「でも私はまだ──」
 プロポーズの返事どころか、気があるような態度だけとって、世良さんに自分の気持ちを伝えていない。私の気持ちは、今も定まらないというのが正直なところ。あと一歩のところで踏み込めないでいる。
「守りたいんだ。亜矢ちゃんだけは他の男には譲れないんだよ」
「世良さん……」
「僕って我儘だね」
「そんなこと……」
 ちゃんと答えなきゃいけないのに。どうして、飛び込めないのだろう。
 一緒にいて心が穏やかになる。同時にときめきも感じ、ドキドキもする。初めての出会いのときも再会のときも、こんなふうにはならなかった。
 プロポーズの日以来、私は世良さんに他の男性には感じない特別な感情を覚え、自分でも不思議に思うくらいに世良さんでいっぱいになっている。
 それなのに、ねえ、どうしてなの?
 声に出して、そのことを伝えられない──

「あのさ、お取り込み中、悪いんだが」
 そのとき、世良さんと私を引き裂くように現れたのは紛れもない春山社長。いや、現れたのではない。彼はずーっと、ここにいたのだ。
「あ、忘れてました」
「すみません。僕としたことが」
 世良さんとふたりで気まずくなって目を合わせる。よりにもよって春山社長に一部始終を見られてしまうとは。(100%自業自得だけど)
「ふーっ。やっと俺のことを思い出してくれたよ」
 春山社長はわざとらしく溜息をつくと、居心地が悪いのか、ネクタイをゆるめた。
「いやあ、世良くんの熱い想いがこっちまで伝わってきて汗が出る出る」
「お恥ずかしいです」
「恥ずかしがることなんてないよ。うちの亜矢でよければ、いつでも持って行ってくれ」
「いいんですか?」
「もちろんだ」
 もう、世良さんまで。
 本気なのか冗談なのか。区別ができないふたりの会話を、私は半ば呆れながら聞いていた。

「そうそう。亜矢。保険会社の人間も来ていたみたいだから、あとで声をかけとけよ」
 春山社長に言われて、初めて気づく。そっか。鑑定する専門の人に現場検証に来てもらわないと保険金が下りないんだ。
 それまでは部屋の中のものを触ってはいけないのかな。そうなると、着替えはどうすればいいんだろう。それだけじゃない。他にもたくさん。化粧品にコンタクトレンズのケア用品。スマホのバッテリーも必要なのに。
 でも、そんなことを悩んでいる暇はなかった。すぐに事情聴取がはじまる。まずは警察署の人の事情聴取があり、今朝からの行動を事細かく聞かれた。
 これがかなりの時間を要してしまい、どっと疲れが襲う。その途中で、春山社長が部屋を出て行こうとする。「世良くん、ちょっといい?」と世良さんも呼び寄せ、二人一緒に外に出て行った。
 なんの話だろう? 見当がつかない。でも、こんな非常事態に、さすがの春山社長も変なことは言い出さないだろう。そう思い直し、私は事情聴取に集中した。
 ふたりは、あのあと少ししてから部屋に戻って来たけど、その話題に触れることなく、じっと部屋の隅に立っている。

 そしてようやく警察の事情聴取が終わった。すると、すかさず春山社長が私に近づく。
「亜矢、夕方のアポイントはどうしてもキャンセルできないんだ」
「私だったら大丈夫です。お仕事を優先して下さい」
「悪いな」
「いいえ。今日は助かりました」
「それじゃあ俺はもう行くから──世良くん、亜矢のこと、よろしく頼むよ」
 春山社長が世良さんの方を振り返る。
「わかりました。亜矢ちゃんは僕が責任を持ってお預かりします」
 満面の笑みの世良さん。だけど、私はあまりのことに世良さんを凝視していた。
 今、なんて言いました? 預かるって聞こえたような気がするんですが?
「亜矢ちゃん、今日は僕と一緒に帰ろうね」
「へっ? 帰るって?」
「僕の家だよ」
「世良さんの……お家?」
「大久保さんが上海に出張中なんだってね。だったら、僕の家の方がいいと思うんだ」
「……はい?」
「もちろん、寝室は別にする。だから安心してよ」
 何がどうなって、そうなって、こうなったの? どうして私が世良さんのお部屋に泊まることになっているんですかっ!?
「しゃちょうっ!!」
 もしかして、世良さんを外に連れ出したときにふたりでそんな相談を?
「大声出すなよ。警察もいるんだぞ。勘違いされたら困るだろう」
 春山社長は、眉間に皺を寄せて不機嫌そうに口をへの字にする。挙句にチッと舌打ちまでされてしまった。
「だって、世良さんにこれ以上、迷惑をかけられません!」
 勝手に決めないでほしいよ。男の人の部屋に泊まるように、普通、勧める?
「ひとりにしておけないんだよ。俺だって心配なんだ。だから、俺から世良くんにお願いした」
 今度は先程とは打って変わって真面目な顔。
「でも、いくらなんでも……」
 一方、失速していく私は言葉が続かない。隣には世良さんがいる。これ以上のことを口に出してしまうと、世良さんに対して失礼な言葉を言ってしまいそうだった。
「あつーい抱擁をする仲なんだろう? だったら構わないだろ」
「あれはそういう意味ではありません」
「どういう意味でもいいんだよ。どっちにしても世良くんだから頼んだ。彼以外の男だったら、こんなこと言わないよ。例え、亜矢の彼氏だとしても俺は反対する」
 春山社長が世良さんの人柄を買っていたことは知っていたけど、ここまでだとは思ってもいなかった。確かに私も思う。世良さんが変なことをするはずがない。

「わかったなら、俺は行くぞ」
 言いたいことを言い切って、春山社長がドヤ顔をする。もちろん、それについては反論はないんだけど、話の次元がすご過ぎてついていけない。
「春山社長」
 そこへ世良さんがさわやかに話に割り込んできた。
「あとのことは任せて下さい。事情聴取が終わったら、まっすぐ家に戻りますから」
「いやあ、事情聴取が意外に長いからどうなることかと思ったけど、世良くんがいてくれて助かった」
 春山社長が世良さんの肩を軽くたたき「ありがとう」と言う。そのやり取りを見ていたら、春山社長にもだいぶ迷惑をかけているなあと感じた。
 それに、私の父よりも八つ年下の春山社長は父親世代より若いけれど、いざというとき頼りになるし、今日だって忙しいスケジュールの中で付き添ってくれて心強かった。世良さんとは違う安心感だ。
「亜矢。保険会社の人間に言って、明日にでも部屋と家財の鑑定をしてもらえ。明日はちょうど会社が休みの日だしな」
「わかりました」
「それと、何かあったら電話しろ。マナーモードにしておくから、いつでも大丈夫だ」
「はい」
「実家にもちゃんと連絡するんだぞ」
「わかってます」
 玄関先で、そんなやり取りをしたあと見送る。
「あっ、それから──」
「まだ、何かあるんですか?」
 大事な打ち合わせがあるというのに。これだけ後ろ髪ひかれまくっていると遅れちゃうよ。
「萌にも連絡してやってくれ。時差は一時間。夕方以降は自由行動だから、いつでもいいってさ」
「電話します」
「萌も心配してたぞ。けど、世良くんと一緒だって言ったら安心してた」
「……はい」
「それと、最後まで付いていてやれなくて、すまない」
 春山社長の心配してくれている姿にジンとした。ぜんぜんらしくないんだけど、だからこそ心に響いた。
「いいえ。私も大人です。本当だったら、全部ひとりでやらないといけないことですから」
 春山社長とは、叔母である萌さんの元旦那さんという繋がりだけ。血の繋がりのない関係なのに、家族としてのあたたかい愛情を注いでくれることには、いつも感謝している。

 春山社長が帰ったあと、引き続き消防署の事情聴取が行われたが、暗くなる前にはなんとか終えることができた。
 明るいうちにこの部屋を出なければならない。この部屋に入ったとき、ブレーカーは落ちた状態だったけど、こんな水浸しの状態でブレーカーを上げたら大変なことになる。そのため照明を点けられないのだ。
「ありがとうございました。世良さんが来て下さったおかげで、かなり安心できました」
「なんの役にも立たなかったけど」
「いてくれるだけでいいんです。それに、お部屋にも泊らせて頂けることになって本当にありがとうございます」
 私の部屋は火がまわってこなかったので、当分の着替えと生活用品を持ち出すことが保険屋さんから許された。大きめのスーツケースに詰められるだけ詰め込む。
「できた?」
「はい。オッケイです」
「じゃあ、行こうか。それ、かして」世良さんがスーツケースを持ってくれて部屋を出ると、外は相変わらず騒然としていた。
 黒いすすで部屋が汚れてしまった火元近くのお部屋の方は憔悴しきっていて、それを横目に私たちは足早にアパートをあとにした。


 
 
inserted by FC2 system