第5章 魅力全開、最強王子様(010)

……あの」
「ん?」
「……すみません」
 シャワーをお借りして、歯磨きもすませて、あとは寝るだけというとき。私はベッドの上に正座をして世良さんを見上げていた。
 そう。ここは寝室。究極にドキドキな場所。けれど、只今の私の服装は腰がかくれるくれいのゆったりめのグレーのティーシャツ。しかもヨレヨレ。下は黒の七分丈のレギンスという色気も可愛げもないもの。
 ムードなんてものは微塵もなく、落ち着いたダウンライトの照明の下で見事な健全ぶりを発揮していた。
 もっとオシャレなナイトウェアにすればよかったよ、と思うくらい。(そんなオシャレウェアなんて持っていないけど)
「さすがにソファで寝させる男はいないでしょう?」
「……そうですね」
 あれだけソファで寝ると豪語していたのに、世良さんに言いくるめられて、結局は世良さんのベッドを占領することになった。『リビングで寝られちゃうと自由にトイレにも行けないんだよね』と冷たい声で言われたら、それもまた申し訳ないことだと思い、萌さんが帰国するまでの短い期間だからとおとなしく従うことにした。
 萌さんは月曜日に帰国する。週末と日曜日の三日間だけだもんね。
「亜矢ちゃん?」
「なんでしょう?」
 世良さんがベッドに腰かけてきた。小さく揺れる私の身体。頭の上で感じたふわっとした感触にドキンと胸が高鳴って、その瞳に視線を合わせると、ゆっくりと頭上にある手の平が動く。
 私を怖がらせないように。何もしないから安心してと伝えるように何度も髪を撫でつけられて、催眠術にかかったかのように私の瞼が下りた。
「この部屋にいることに遠慮しなくていいんだよ」
 静かに浸透してくる声に耳を傾けながら、切ない気持ちが私の中に押し寄せる。
「亜矢ちゃんは女の子なんだ。身体を冷やしちゃいけないし、慣れない環境の上にソファなんかで寝て睡眠不足になんてなったら、それこそ僕が困るんだよ」
 手の平がピタッと止まる。私は目を開けて世良さんを見た。
「あの、私……」
 世良さんを困らせているのかな。世良さんが私を大切にしてくれるように、私だって同じように思うから、返したいと思うの。迷惑をかけないように、負担にならないように気をつけながら、私も世良さんを癒せる人になりたい。
「僕の母さんが言うんだ。女の子は赤ちゃんを産む身体だから大事にしなさいって。特に女の子のお腹には赤ちゃんを育てる大切な臓器があるから乱暴に扱ってはいけないんだよって。僕は小さい頃から、そう言われて育ってきた」
 世良さんが微笑む。世良さんがやさしいのはお母さん譲りなんだね。もちろん、お父さんもそうなんだろうな。だからお母さんは自分の子供にそんなふうに言えるのだと思う。
 お父さんに大切に守られながら世良さんを産み育ててきた。幸せに満たされた毎日に感謝し、成長する我が子にも将来、同じような気持ちを味あわせたい──そんな愛情いっぱいの思いを感じる。
「だからね、僕は亜矢ちゃんを大事にしたい。だから亜矢ちゃんも自分の身体を大事にしてほしいんだ」
 こんなことが言える男の人を私はほかに知らない。世良さんのやさしさの根底にあるものは、もっと大きくて深いもの。上辺だけの人じゃない。やさしい振りして私を裏切っていたシンくんや、最初だけやさしかったハヤトとは次元が違うのだ。

「世良さんみたいな人、初めてです」
「結婚する気になった?」
「えっと、それは……」
「あと、もう少しかな」
「世良さん……」
「いいんだよ。言っただろう。何度でもプロポーズするって。それに、こういう時間もなかなか楽しいし、結構、満足しているよ」
 世良さんの精一杯の気配りが心地よく胸に沁みていく。世良さん、私もなかなか楽しいです。あなたと一緒にいると嫌なことを忘れていられるんです。怖さも憂鬱さも、ハチミツみたいな甘い蜜に上手に溶かされていくんです。
「おやすみ」と照明が落とされて、世良さんがドアの向こうに消えた。私は安心してベッドに身を沈める。すると思いのほか疲れていたらしく、吸い込まれるように眠りに落ちた。


 ***


 目覚めるとカーテンの隙間から光が零れている。だけど、寝ぼけている頭ではどうして外が明るいのかが理解できない。おかしいな、さっき眠ったばかりなのに。うつろに考えるが、再び目を閉じかけてハタと気づいた。
「朝ごはん!」
 時刻は七時三十分を過ぎている。平日だったら遅刻だよ。だけど今日は土曜日。世良さんは何時に出勤するんだろう? 昨日の夜にちゃんと聞いておけばよかった。その前に朝ごはんは食べる派なのかな?
 疑問は残るけど、急いで着替えてボサボサの髪の毛をきゅっとひとつに結ぶ。それから化粧ポーチを持って音を立てないようにドアを開ける。するとキッチンの明かりが見えた。

 今朝もさわやかな笑顔を振りまいて、世良さんがキッチンのカウンターの奥から「おはよう」と声を発した。私は化粧ポーチを胸のあたりに抱えながら小さくおじぎをする。
「お、おはようございます。あの……洗面所、お借りします」
 スッピンは夕べ、シャワーあがりに見られたから、どうでもいい。でも、この寝ぐせだらけのボサボサ髪と寝ぼけた顔はなんとかしないといけない。
「朝ごはん、もうすぐできるから」
 あっ。遅かったか。そうだよね、世良さんが寝坊なんてするわけないもんね。
「ん? なに? どうかした?」
 足を止めて突っ立っている私を不審に思った世良さんが尋ねる。
「いえ。私が朝ごはんを作りたかったんですけど、スマホのアラームをセットするのを忘れてました」
「かえってよかったよ。ゆっくり眠れたみたいで、ほっとした」
「ホテルに泊まらなくてよかったです。ひとりで過ごしていたら、心細かったと思います」
 火事の原因は放火とは決まっていないけど、故意に火を付けられたと思うと恐ろしい。もし部屋にいるときに火事になっていたら、部屋は燃えなくても煙を吸っていたかもしれない。その煙で最悪なことだって考えられる。
「これからのこと、ひとりでなんとかしようなんて思わないで。僕がいる」
「世良さん……」
「あの部屋は引っ越そう。昨日の大家さんと不動産屋さんの話では取り壊す意向はないような感じだったけど。どちらにしても、あんな場所に住まわせるわけにいかない」
 世良さんが真剣に語る。心強く感じた。引っ越すことまでは考えが及ばなかったけど、確かに、放火だとしたら犯人が捕まるまで、あの部屋には戻れない。戻れたとしても変な想像ばかりしてしまいそう。
「引っ越します。今日、不動産屋さんにもそのことを話してきます」
「新しく住む場所は僕も力になるから」
 そう言って世良さんは俯いてしまう。それから何かを言いたげに唇を動かし、意を決するように静かに息を吐いた。
「正直に言うと、春山社長よりも僕を頼ってほしいんだ」
 照れ笑いを見せながら、ゆっくりを顔を上げる。
「なんか格好悪いね。よりにもよって春山社長をライバル視しちゃうなんて。でも恋敵とか、そういう意味じゃないよ」
 これって、やきもちみたいなものなの? だけど、さすがに相手が春山社長だと笑うしかないよ。
「やだっ、世良さん! それ、ものすごく可笑しいですっ」
「だよね。自分でもそう思うよ。春山社長と亜矢ちゃんは親子みたいな関係だって知っているのにね」
「そうですよ。血の繋がりはないですけど親子みたいなものです。それに春山社長は今でも──」
 そう言いかけて止めた。私の勘違いかもしれないもん。春山社長が今でも萌さんのことを想っているなんてあるわけないよね。もしかすると、私の願望がそう思わせているのかもしれない。
「萌さんのこと?」
「世良さんも感じます?」
「うん。あのふたりを見ていると、離婚したとは思えないくらい、いい感じなんだよね。ただ僕は結婚していた頃のふたりを知らないんだけど」
「離婚前も今も、あまり変わっていませんよ。あのふたりは昔からあんな感じです」
 プライベートでも人前で露骨にのろけることをしないふたりだった。おまけに、ふたりとも自己主張が強いわりに、喧嘩をするところを見たことがなくて、理想的な大人の関係に見えた。
「でも、ふたりが話し込んでいるときには、入り込めないものがあるよね」
「そうなんですよ。邪魔しちゃ悪いなと思っちゃうんです」
「うん。しっかりと男と女の関係に見えるね」

 萌さんは春山社長のことを思って事務所を離れた。その気持ちを知らない春山社長なのに、いまだに萌さんを気にかけている。自分のせいでライティングの世界から遠のかせた責任を感じているように思えた。
 だから、もう一度、この世界に呼び戻したいのかな? 春山社長は萌さんが持ってくるライティングデザインの案件のいくつかを断っていた。
 小さな店舗のデザインは萌さんが得意としていたところ。萌さんの方が顧客の要望を熟知してデザインに生かせると判断したものは、萌さんの会社に仕事を受けさせていた。萌さんの才能を埋もれさせないように、うちの事務所の利益よりもデザイナーとしての萌さんを優先した。
 そんなふたりの互いを思いやる気持ちがひしひしと伝わってくる。

「引っ越し先については是非お願いします。世良さんなら不動産に詳しいですもんね」
 うじうじ考えていても仕方ない。今回のことはポジティブに捉えて、新天地でやり直すのもいいなと思った。
 社会人一年目から住んでいたアパートには過去の思い出がつきまとっている。それに縛られている自分に踏ん切りを付けることが必要。そう考えれば、これも神様が与えてくれたきっかけなのだと思える。
 試練じゃない。立ち止まっていた私の背中を押してくれたのだ。思い切って一歩を踏み出せば、明るい未来がきっと待っているはずだよね。


 ***


「亜矢! 大丈夫なの?」
 神戸から始発の新幹線で東京に駆け付けてくれた両親。タクシーで私のアパートに着いて、迎えた私を見るなり、母が駆け寄って来て抱き付いてきた。
「ちょっとお母さん、人が見てるって」
「いいじゃない。昨日の夜は心配で眠れなかったのよ」
 火事があったときは仕事をしていたと何度も言ったのにな。それなのに、こんなに心配してくれるんだ。
 親はありがたいなと改めて思った。離れて暮らしていても両親がいてくれることは心の支えになっている。こういうとき、それを強く感じる。

 今日も朝から現場検証。昨日も警察の人からいろいろなことを聞かれけど、今日も部屋の中で事細かく尋ねられた。
 その後、火災保険会社から派遣されてきた鑑定人による建物と家財の調査が行われ、書類の手続きについて説明を受けた。やることがたくさんあり過ぎて混乱してくる。
 そんな私を見かねた父が途中から交渉をしてくれて、その日もなんとか乗り切ることができた。

「お父さん、ありがとう。いろんなことを説明されても右から左で、頭に残らないんだもん」
「火事のときは本人は動転しているから、第三者の人に立ち会ってもらうべきだよ」
「ほんと、そうだね。お父さんがいなかったら、保険金の額が少なくなっていたと思う。火事なんて一生経験することないと思っていたから、そういう知識の勉強をしないもんね」
「まさか亜矢が火事に巻き込まれるとはな。怪我がなくて本当によかったよ」
「……うん」
「大変だったな」
「……うん」
「よく頑張った」
 やっぱり父だ。そばにいてくれるだけでほっとする。父の言葉を聞いているだけで涙が溢れてきた。
「お父さん、ごめんね」
「何を謝ってるんだよ? 亜矢が悪いんじゃないだろう」
「でも心配かけちゃったんだもん。疲れているのに東京まで来てもらっちゃったし」
「馬鹿だな。娘のためなら当たり前だ」
 親というものは絶対的な存在だ。この年になっても甘えたくなってしまう。母がハンカチを取り出して私の目元を拭ってくれる。「しょうがないわね」と言いながら、母はなぜかニコニコと笑っていた。
「何がおかしいの?」
 いじけて母を見た。
「おかしくて笑っているんじゃないのよ。亜矢の小さい頃を思い出しての」
「よく泣いていたから?」
「そうよ。転校した初日に泣いて帰って来て、転校が決まっても泣いていたわね」
「だって何度も引っ越ししていたから……」
 あまりにも昔のことを持ち出されて、言い淀む。
 そんな恥ずかしい過去なんて、今ここで思い出さないでよ。むしろ、封印したい過去なのに。
「小さいあなたにお友達との別れを経験させてしまうことは可哀想だと思っていたわ。でもそう思いながらも、亜矢には辛抱してもらった。だってお父さんに単身赴任をさせたくなかったんだもの。家族はいつも一緒じゃないとダメだと思っていたから」
 私も母と同じ考えだった。転校を繰り返すことは辛かったけど、父と離れて暮らすことは考えられなくて、子供ながらにそれは理解していた。泣いてばかりいたけどね。
「だけど、亜矢が大人になって、独立することになって……子供が成長することはうれしいのに独立していくことは寂しかったわ。親としては複雑ね」

 シンくんを追いかけて東京の会社の就職試験を受けると話したとき、父も母も反対することはなかった。不純な動機だった私を快く送り出してくれたことは、できた親だなと娘ながらにも思う。
 ただ私にとって東京は生を受けた街だから、そこに戻りたいという気持ちも少なからずあった。父と母が生まれ育ち、出会い、愛を育んだ場所。そこに惹かれるものがあった。

「それはそうと、亜矢、あの方は?」
 母が突然そう言って、私を通り越した玄関先を見つめていた。まさかと思い振り返ると、案の定、そこに立っていたのは世良さんで、唖然としている両親にペコッと頭を下げた。
「世良さん、お仕事は?」
「切り上げてきた。やっぱり心配でね。それに、ご両親が上京していると聞いたから」
「え? 誰に聞いたんですか?」
 私じゃない。夕べも両親の上京のことは敢えて言わなかった。だって、世良さんのことだもん……
「萌さんから電話があったんだ。ぜひ、挨拶をさせてもらおうと思って」
 ほら、やっぱり。そう言い出すんじゃないかと思ったの。律儀な彼の性格だから、こんなことになるんじゃないかと思っていた。
 それにしても萌さんったら。世良さんのことは黙っていてとお願いしていたのに。わざわざ世良さんが挨拶に行くように仕向けるあたり、策士なんだから。
 だいたい、両親になんて紹介すればいいのよ? 恋人とは言えないから、友達でいいのかな?

「世良さん、紹介します。私の父と母です」
「初めまして。世良文哉です。急に現れて申し訳ありません。前々からご挨拶したいと思っていました。お会いできて光栄です」
 これでもかという王子様スマイル。当然、うちの母はあっけなく陥落。
「まあ! なんて素敵な方なんでしょう! きっとおモテになるんでしょうね。女性が放っておかない感じですものね」
「ちょっとお母さん! 変なこと言わないでよ」
「いいじゃない。本当のことなんだから。それより、亜矢、いいお相手を見つけたわね」
「……まだ、そういうんじゃ」
 世良さんを前で言いにくいよ。はっきりと否定するのもどうかと思うし、だからと言って……
「あら? お付き合いしているんじゃないの?」
「それは、これからおいおい考えるっていうか……」
「もうっ、亜矢ったら。そんな呑気なことを言える立場なの? 違うでしょう。だったら、はっきりしなさい!」
 背中をバシッと叩かれて、世良さんの前に突き出される。私は苦笑いしかできなくて、世良さんも困ったように笑っていた。
「……す、すみません」
「僕も、焦り過ぎたかな」
 顔を見合わせて、なんとも気まずい雰囲気。こうなるのもわかっていたから、言わなかったのにな。母が暴走するのは目に見えていたから。
「まあまあ、亜矢はもう二十七歳なんだ。親がいちいち口を挟むことじゃないだろ」
「それはそうだけど」
 父の言葉に母がシュンとなる。
「ちゃんと決まったら、亜矢から報告してくれるよ。今までだってそうだっただろう。ほら、結局は振られたけど、二人ほどいたじゃないか」
 やだ、お父さん。過去の話を持ち出さないでよ。うまくまとめようとしているつもりみたいだけど、それ、違うから。
 チラリ、世良さんを見るとますます困った顔をしている。そりゃそうだよね。私の過去を知っていると言っても、私の両親からその話題を持ち出されると気分が悪くなるよ。

「あの!」
 そのとき世良さんが口を開いた。
 親子三人で注目すると、世良さんの口からとんでもないセリフが飛び出した。
「僕は亜矢さんに結婚を申し込みました。お付き合いもしていない関係ですが、それくらい本気です」
「世良さん! それはまだちょっと……言うのは早すぎます」
「ごめん。でも、このことはちゃんと言っておかないといけないと思うんだ。じゃないと、ご両親だって納得してくれないと思うんだよ」
「どうしてですか? それを今言う必要性は感じないんですけど」
 世良さんが考えていることがよくわからない。そんな中、母だけが何かを閃いたらしく「ふーん」と頷いていた。
「何よ、お母さん。何が言いたいの?」
「ふふっ。そういうことなのかと思ったのよ。亜矢、あなたもなかなか大胆ね」
 脇腹を突かれて私も閃いてしまった。
「……」
 バレたんだ! 母はおそらく、あのことを勘づいたんだ! やばいよ、どうしよう。
「付き合ってもいないのに結婚を申し込んだとは、どういう意味だね? つまり、娘と結婚するのか?」
 黙り込む私と入れ替えに、父が尋ねる。
「亜矢さんからの返事は保留です。と言うか、本当は一度断られたんですが無理やり保留にして頂きました」
「そこまでうちの娘を?」
「はい。僕には亜矢さんしかいません。彼女が僕に振り向いてくれるためなら、なんでもするつもりです」
「すごい熱意だね」
「一生に一度のことですから」
「ははっ。なるほど。確かにそうだな。だが、いまどきそんな男がいるとは……」
 私たちの会話を聞いて、なんとなく事情を察した父。世良さんの誠実さは、おそらく両親も感じとっていることだろう。
「世良さんは、うちの娘にはもったいないな」
「その通りだわ」
 父と母が静かに言った。


 
 
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