第6章 もっともっと愛するから(012)

 日曜の今日は、午前中から夏を思わせるような眩しい日射しが降り注いでいた。
 清々しい空の青さを見て気合いが入った私は、朝からお布団を干してシーツと枕カバーを洗濯機に投入。それから窓を全開にして部屋中に掃除機をかけて、洗い終わった二人分の洗濯物を干す。お風呂とトイレの掃除を終える頃には十二時近くになっていた。
「お昼ごはんは、お蕎麦にしようかと思うんですけど。ザルとあったかいのと、どちらがいいですか?」
 自宅用のノートパソコンで仕事をしている世良さんに話しかける。昨日、会社から資料を持ち帰ってきたらしく、ダイニングテーブルの上にはそれらが無造作に置いてあった。
「今日は暑いからザルにしようか」
「わかりました。今から作りますね」
 冷蔵庫の中にはたくさんの食材。昨日は軽く買い足す程度のつもりだったけど、せっかくなので数日分の食材を買い込んだ。お世話になったお礼に、お料理をして冷凍しておこうかなと思いついて、午後から仕込みをしようかなと計画中。
 それでもって、明日はスーツケース持参で出勤しよう。萌さんは夕方には帰国する。なので、会社からまっすぐ萌さんのマンションに向かおうかなと思っていた。

 そうこうしているうちにお蕎麦が茹で上がった。氷水で締めてお皿に盛りつける。世良さんの分を大盛りにして薬味も添えて……
「うん、完成」
 と、独り言を言ったら「できたの?」という声が返ってきてびっくり。
「はい。今、お持ちします」
「じゃあ、テーブルの上、片付けるね」
 ノートパソコンの電源を落とし、散乱していた資料を集めると、トントンと角をそろえて封筒にしまう。その分厚い封筒と一緒にパソコンをリビングのテーブルの上に置きに行っている間に、私はダイニングテーブルの上にお蕎麦を並べた。
「おいしそうだね」
 ダイニングに戻って来た世良さんは席につくと丁寧に「いただきます」と手を合わせた。昨日の夜も思った。“いただきます”“ごちそうさま”という言葉はなんて素敵な響きなのだろうと。ひとりでは味わえない喜びが私の頬をゆるめた。
「どうかした? ニコニコしちゃって」
「人にごはんを作ることは楽しいんですね」
「相変わらず可愛いこと言うね」
 ズルズルッと遠慮なくお蕎麦をすする音がする。おいしそうに食べてくれる姿を見ながら、私は実家のことを思い出していた。
「そう言われると恥ずかしいんですけど。でも、うちの母もそうなのかなって。あんな母ですけど、あれでもかなり家庭的なんですよ」
「実際にお会いして、お母さんは家でも楽しそうに家事をしているイメージだよ。明るい家庭が想像できた」
「そうですか?」
「それは亜矢ちゃんを見ていてもわかることだけどね。亜矢ちゃんはお母さんによく似ているよ。いつもハツラツとした顔で受付の席に座っていたし、さっきもキッチンで楽しそうだった」
 そんなふうに見えたのなら、うれしい。普通にしていたつもりだったけど、世良さんの目にはそんなふうに映っていたんだ。
「それに僕も思っていたよ。亜矢ちゃんが僕の奥さんみたいだなって思いながら、ひとりでニヤニヤしてた」
 キラリと瞳を瞬かせ、極めつけはニッコリスマイル。だからそれは反則なんですってば! 王子様にニヤニヤされる自分を客観的に想像して、こっちのニヤニヤが止まらなくなりそう。
 そんな、ゆるーいランチタイムを過ごしたあとはシンクの前にふたりで並んで仲良く食器のあと片付け。家事をやり慣れている世良さんは手際よく、次々に食器を洗っていった。
 私はすすぎ担当。そのあと世良さんが食器をフキンで拭いてくれて、私がそれを食器棚にしまった。

「お疲れ様」
「世良さんもお疲れ様でした」
 なんとも言えない達成感。たかが食器洗いなのに不思議だ。
「何か飲まれますか?」
「緑茶がいいな。あったかいの」
 世良さんはそう言ってキッチンを出ると、カウンターのスツールに腰かけた。そこから、じっと私を見ている。この間の仕返しのつもりだ。私がカレーを作っている世良さんをジロジロと見ていたから。
「真似っ子ですね」
「でも、やめないよ」
 イタズラに瞳が細まって、私も思わず笑ってしまった。
「こうしていると、僕たち、新婚みたいだね。世良亜矢……なかなかの響きだと思うけど、どう?」
「おもしろいです。せらあや。微妙に韻を踏んでいますね」
「いよいよ、その気になった?」
「うーん……」
 カウンターに緑茶の入ったマグカップを置きながら考えてみるけど、すっきりと答えが出てこない。自分の分のマグカップを握り締めて、もう一度考えるけど、不安がなさ過ぎて逆にこのままでもいいかなと思ってしまう。
 満たされ過ぎなのかな。けれど、こんな贅沢なことで悩んでいたらバチがあたってしまいそうで怖い。
「あともう一歩かな」
「ごめんなさい」
「本当に悪いと思ってる?」
「……え?」
「もし、そう思ってくれているなら僕の提案を聞き入れてくれないかな?」
 突然、何を言うのだろう。世良さんが真面目な顔付きになった。ふんわりとした雰囲気がシャープになって、その変わり様にドギマギと私の胸は落ち着かなくなった。
「え、な、なんでしょう?」
 たどたどしく、声も上ずりそうになった。
「自分勝手なのはわかっているし、こんなときにこんなことを言うのも卑怯だと思ってる。でも、このチャンスを逃したら一生後悔すると思うから言うよ」
 ひたむきな姿に胸が打たれた。世良さんが何を言おうとしているのか、まだわからないけれど、聞いてしまったら従ってしまいそうだ。

「しばらくの間、この部屋で一緒に暮さないか? 僕のことを知るには手っ取り早いと思うんだ」
 しかし、それは想像を超える提案だった。
「えぇっ!」
 さすがにすんなりとはいかない。
「一緒に……でも、そんなこと、急に言われても……」
「もちろん、亜矢ちゃんが嫌がるようなことは絶対にしない。無理やり迫らないと誓うよ」
「世良さん……」
「大久保さんのマンションからだと通勤が大変だろう」
「それはそうですけど。だからと言って、いくらなんでも同居なんて……」
 毎日がドキドキ。それでも三日間だけだから辛抱できたのに、これがしばらく続くなんて。考えただけでも緊張してくるよ。
「ダメかな?」
「世良さんのお気持ちはありがたいと思っています。でも、それだと……」
「何?」
「……身体に悪いです。私がベッドを占領しちゃうことになるので」
「理由はそれだけ?」
「……」
 本音を言えなくて黙り込む。素直になれない自分が嫌になる。世良さんはいつもストレートに気持ちをぶつけてくれるのに。
「ベッドの問題だけなら、オッケイということになるよ」
「え?」
「布団を買いに行こう。それをリビングに敷いて寝れば問題ないよね」
「いや、でも……」
「さっきから『でも』ばっかり。どうして避けようとするの? そんなに僕が嫌かい?」
 強い意志をみなぎらせた瞳でスツールに腰かけている世良さんが私を見上げる。その姿は強くてたくましい男の人。まごまごしている私に強引にぐいぐい迫ってきて、気づけば私は逃げ場を失っていた。
 だけど嫌じゃない。そんなふうに思うわけない。溢れてくる感情が恋や愛なのかはまだわからないけど、確かに私は自らの意思で逃げ道から目を逸らしていた。

「お布団はいつ買いに行くんですか?」
 きっと、こんな状況を望んでいたのだ。一緒に暮らせば私が知りたい私の本音が見えてくるはず。それを確認しないと結婚という領域に踏み込めない。
「さっそく今日にでも行こう」
「わかりました」
「亜矢ちゃんのご両親にも了解をもらわないといけないな」
「電話をしておきます」
「僕がしてもいい? でも同居を延長しますなんて言ったら、さすがに怒られるかな?」
 実直さの中にユーモアを織り交ぜてくる、その気遣いがあなたの強さだと知りました。やさしさは強さだということをまざまざと感じ、笑いかけてくれる世良さんを前に、私はやっぱり泣きそうです。
 こんなふうに愛してくれる人はいなかった。私はこの一年、世良さんの何を見ていたのだろう。どうして気づけなかったのだろう。もしかして私は、少しずつ距離を縮めてきた世良さんに気づきたくなくて、彼の気持ちなんて知らないと自分に言い聞かせてきたのだろうか。
『正当な方法で口説いていたら、亜矢ちゃんは僕を前の男と比べて、結局は僕から離れてしまっていたはずだ』
 前に世良さんが言っていたセリフを思い出しながら、むしろ離れたくない気持ちが私の意識の下にあったのかもしれないと思いはじめる。好意を持ってくれることに気づいてしまったら、私は逃げ出してしまっていた。
 だからなの? だから私は本能的に鈍感になっていたのかな。

 両親への報告は夜にでも入れようということになった。まずは私から事情を説明し、そのあと世良さんに電話を代わってもらい、挨拶をしてもらう。「今から緊張するなあ」なんて言いながら緑茶を飲む世良さんの姿を見下ろしている私の脳裏には、今から母のはしゃぐ姿が浮かんでいた。


 ***


 それから数日が経過し、今日は金曜日。世良さんのお部屋で同居をはじめてから一週間を迎えていた。
 新しく買いそろえたシングルのお布団は、今日もリビングの隅に畳まれて置かれている。両親と萌さん、そして春山社長公認の同居生活はなんとか順調だ。
 だけどプラトニックな分、不便なこともちょとだけある。例えば寝室で着替えるとき。世良さんが覗き見するなんて微塵も思っていないけど、万が一、間違ってドアを開けられても大丈夫なように下着姿をさらさない着替え方をしている。それから洗濯物を干すときは、さすがに下着は干せなくて乾燥機を利用させてもらっている。

「亜矢。はい、これ」
 久しぶりに事務所に顔を見せた萌さんから、小さな紙袋をもらった。紙袋の中身はわからないけれど、かなりやわらかそうな物体。
「何?」
「火事見舞いみたいなもんよ。上海では、あなたのことが気になってお土産どころじゃなかったのよ」
「うっ……ごめんなさい。でもありがとう」
「無難に白にしておいたわよ」
「白?」
 ハテナと首を傾げる。すると萌さんが「スケスケの、ね」と耳元で囁くので、ハッとした私は急いで紙袋を開けてみた。
 そこには真っ白でふんわりとしたランジェリー。細い肩紐には小さなピンクのリボンがひとつずつ。胸元と裾はピンクのレースで縁取られていた。
 うわぁ! エロいっ! 有り得ないっ!
「どう? 気に入った? ルームウェア」
「ルームウェアと言えるほど健全じゃないでしょう、これ。どう見てもベビードールなんだけど」
「商品名はキャミソールセットアップ・ルームウェアなのよ」
 確かにショートパンツもついている。キャミソールとおそろいのピンクのレースが裾の部分を彩っていて可愛い。スケスケだけど。
「通販?」
「いけない?」
「そういう意味じゃないよ。どうせ、自分の分を買うついでに私の分も買ったんでしょう。だいたい、こんなの、いつ着るのよ?」
「そんなの決まってるじゃないっ」
 萌さんが色気ある声で言った。いやいや、決まっていないから。普通の女の人はこんなスケスケなルームウェアを着て誘わないし。
「これを届けにわざわざ?」
「そうよー。それに顔を見るまで心配だったのよ。でも、やっと会えてよかったわ。元気そうでなによりね」
 心配してくれることはありがたいけど、余計なお世話も含まれるから困るよ。こういうところは春山社長と似ている。感性も似ているから、仕事上でも張り合いながらもベストパートナーだった。
「春山社長なら、お昼前には戻ってくるよ」
「いいのよ。あの人には用はないもの」
「でもせっかくだから、もう少しだけ待って、ふたりでお昼に行けばいいのに」
 もうすぐお昼休み。ちょうどいいのにな。
「変な気のまわし方しないでくれる? それに私はこれから別な用事があるのよ」
「なーんだ。つまんないの」
「つまらなくないでしょう。おかしな子ね」
 ディオールの香りを漂わせた萌さんがプイとそっぽを向く。自分は余計なお世話をするくせに、自分がされると露骨な態度で示すんだから。大人げないなあ。

「そろそろ行かないと」
 事務所の壁掛け時計に視線を向けて、萌さんが肩に掛けていたクランベリー色のバッグを持ち直した。黒のパンツスーツの萌さんは「またね」と言って、ヒールを鳴らして事務所を去って行く。
 格好いいなあ。男性と同じ仕事をこなし、おそらく収入もそこらの男性より稼いでいる。一人で生きていく力があるのに、女性らしくて色気もあって、四十歳なのに、いまだに見知らぬ若い男性から声をかけられるらしい。
 その後ろ姿を眺めながら、ふと思った。特技も技術もなんにもない私がもしも世良さんと結婚して、離婚するようなことになったら、私にいったい何が残るのだろう。



 
 
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