第6章 もっともっと愛するから(013)

「明日はお休み……のわけないですよね?」
 その日の夜、いつもより早めに帰宅した世良さんに尋ねた。明日は土曜日だけど休日出勤の可能性の方が大きい。すると、ネクタイを片手でゆるめながら世良さんが聞き返してくる。
「どこか行きたいところでもあるの?」
「そうじゃないんです。もし、お仕事ならお弁当を作ろうかと思っているんですけど」
 土曜日でも工事現場は動いているだろうけど、会社に出勤している人は少ない。世良さんがお昼に会社にいるとも限らないけど、どちらにしても車移動だから、コンビニの駐車場とかに車をとめて食べることはできるかなと思った。
「作ってくれるの?」
 聞けば、土曜日だけでなく日曜日も仕事なのだそうだ。ちょうど締め切りが重なっていて今時期はハードスケジュールだけど、来週にはひと段落つくとのこと。
「迷惑でなければ」
「ないない! 毎日、お昼ごはんは何を食べようかと考えるのって結構面倒なんだよ。お弁当があるとうれしいよ」
「なら、これから毎日作りましょうか?」
「大丈夫なの?」
「はい。いい機会なので自分の分も一緒に作ろうかと思います」
 同居生活の間、私も少しだけど生活費を入れている。本当にほんの少しの額だけど。それでもなかなか受け取ってもらえなかった。
 仕方なく、頑なに拒否する世良さんを説得するために、週に一回はスーパーでの買い出しに付き添ってもらうことと、食器のあと片付けのお手伝いをお願いした。

 晩ごはんの前にシャワーを浴びに行った世良さん。私はその間、食事をあたため直す。
 ここ数日で味わった模擬結婚生活。なんの問題もなく、障害もなく、毎日が過ぎていく。悪くない。むしろ楽しい。
 他人と暮らす、ほどよい緊張感は嫌ではないし、部屋で待っていれば毎日帰ってきてくれるという日常は初めて味わう安心感だ。”会いたい”と声に出さなくてもいいんだもん。

「いただきます」
 シャワー上がりの世良さんが手を合わせる。まだ髪が濡れているから、なんとなく色っぽい。
「久しぶりですね」
 ふたりで食べる晩ごはん。世良さんの帰りが遅いときも、なるべく待って一緒に食べるようにしている。けれど、昨日とおとといは帰宅が深夜になると連絡があって一緒に食べられなかったので、今日は三日ぶりの団らんだった。
「火災保険の保険金なんですけど、来週中には振り込まれるみたいです」
 初めての経験でどうなることかと思ったけど、これでやっとかたが付く。アパートの修繕工事のために、部屋の荷物も使えないものは処分して、残りは引っ越し業者さんに頼んで安いレンタルボックスに運んでもらった。
「それはよかったね。スムーズに手続きできたんだ」
「はい。それからアパートも解約しました。月途中なんですけど、どちらにしても住めないので家賃は日割りになったんです。差額は後日振り込んでくれるそうです」
「ついでに敷金も全額戻ってくるよ」
「なんでですか?」
「保険金で部屋を修繕するから敷金は使わなくてすむんだよ。もし戻ってこなかったら不動産屋さんに確認するといいよ」
「へえ、なるほど」
 詳しいなあ。敷金のことなんてすっかり忘れていた。

 世良さんはとても博識な人。ブルーモーメントの話もそうだし、政治や経済なんかにも詳しい。テレビをあまり見ない世良さんだけど、夜のニュース番組だけは熱心に見ている。
「あっ! 経済新聞、配達されていましたよ」
「そう。でも会社で読んじゃった」
 世良さんはいつも経済新聞を持って出勤し、仕事前に会社でそれを読むのが日課になっている。それなのに、今朝、経済新聞の配達が遅れた。残念そうに出かけていく今朝の様子はなんだか可哀想なくらいだった。
「受付のロビーで読まれたんですか?」
 高嶋建設では、新聞は全国紙、経済紙、建設業の業界紙を契約していて、それらはすべて受付で自由に読めるようになっている。ただし業界紙については社長の分のほか、建築部や営業部など必要な部署の分も多めに契約しており、各部署で回覧されている。
 だから受付の新聞はお客様と役員の人くらしか利用しないんだけど、世良さんは時間があるときに受付に寄っては新聞によく目を通していた。社内の回覧がなかなかまわってこないので、業界紙は受付で読んでしまうのが手っ取り早いのだそうだ。

「今日は業界紙もまとめ読みしていたら、受付の子にコーヒーを出されちゃったよ。あれ、プレッシャーだね。早く出て行けって言われているみたい」
「そんなことないですよ。あれだって経費がかかっているんですから。誰かに読んでもらえるとうれしいんです」
「へえ。そういうものなんだ」
「そういうものでした」
 以前の会社での数少ない私と世良さんの接点。親しい間柄ではなかったけど、ささやかな思い出は残っていた。
「じゃあ、今日の分の経済新聞はそのまま処分しちゃっていいですか? 月曜日は古紙回収の日なんです」
「僕がやっておくよ。かなり溜めていたから捨てに行くのも大変だろう」
「はい、お願いします」
 世良さんは「うん」と頷いて食事を続けた。
 生活感のある会話ですら充実感を覚える。恋愛と結婚は別という人もいるけど、私にはこの生活感が堪らなく愛しく思える。
 意識せずにはいられない結婚。同居生活をしてみて、よかったかもしれない。世良さんを知れば知るほど結婚に前向きになっていく私がいた。

「来週の土曜の夜は外で食べようか?」
 世良さんがお箸を箸置きにきれいに並べた。身を乗り出すように顔を近付けてくるので、リラックスムードが一気に吹き飛んだ。
 キラッキラッという表現がぴったりなくらいの瞳がじっと見ている。それに反応するかのように、私の体の中で熱情がどこからともなく押し寄せてきて、頬がほんのりとあたたかくなった。
「予定でもあった?」
「いいえ。何も」
「来週いっぱいは天気がいいみたいだから」
「……あ、はい! 楽しみです」
「見えるといいね」
 零れる笑顔に私は頷く。大きくて深い海の中でふわふわと漂っているような気分。
 通じ合う思い出の先に見えるオレンジと青の融合。潮の香りがここまで届きそうなほど、あの日の景色を覚えている。
「来週も見えるといいですね、ブルーモーメント」
 ミラーレースのカーテンが夜風でふわりと揺れた。もうすぐ本格的な夏。スプリングコートがめくれるほどの風に桜の花びら舞い散っていたのは、ほんの少し前のことだったのに。確実に時は刻んでいる。

 食事のあとは、いつものようにふたりで食器のあと片付け。食事前にシャワーを浴びたばかりの世良さんからはシャンプーの香りがして、必要以上に息を吸い込んでしまった。
 普通、逆だよね。男の人が女の人のシャンプーの匂いを意識するのに。私ったら軽く変態チック。
「シンクの掃除は僕がやっておくから、亜矢ちゃんはお風呂に入ってきなよ」
 そう言った世良さんの手には、すでにシンク用のスポンジが握られていた。
「ありがとうございます。じゃあ、あとはお願いします」
「うん。ごゆっくり」
 ふるふると泡だらけの手を振る世良さん。お茶目な世良さんに見送られ、私は着替えを取りに寝室に戻った。そのときに萌さんからもらったスケスケルームウェアが入った紙袋が足元に当たり、慌てて拾い上げた。
 もらったこと、すっかり忘れてたよ。昼間のことを思い出し、もう一度、中を確認してみる。すべすべの生地を引っ張り出し、改めてピンクのレースが可愛いなと思ったけど……
 うわぁ、ほんとスケスケ。丸見えだよ。男の人はこういうのが好きなの? 世良さんも? いや、まさかそんなはず──きゃあぁー!
 変な想像をして、ひとりで照れまくる。
「……やめよう」
 くだらないことを考えるのは。世良さんの顔が見られなくなる。それよりも、これは絶対に見つからないようにしなきゃ。私は紙袋ごとそれをスーツケースにしまうとしっかりと鍵をかけた。


 ***


 お風呂から上がって洗面所で髪を乾かしたあと、歯磨きをして化粧水で顔を整えた。
 毎日の日課をいつものようにこなしただけなのに、鏡に映る私はいつもの私と違う私。高揚した頬は、ほんのりとピンク色。お風呂上がりで火照っているせいか、妙に艶っぽくなっている唇。その唇を指でなぞり、長い間遠ざけてきた恋する気持ちを呼び起こしていた。
 繋がれた手の感触や囁かれた声の響き、見つめられる瞳の熱が、この体を刺激して変えていく。もう一度、女だった頃の私に戻っていく──そんな気がした。

 それからほどなくして、寝室に戻ろうとバスルームのドアを開けたとき、リビングの方から話声が聞こえてきて反射的に足を止めた。寝室に行くにはリビングを通らないといけない。お客さんだったらどうしようと思っていたら、話声は世良さんだけのものだった。
 電話かな? ほっとしてリビングのドアに手をかけた。しかし、聞こえてくる声がいつもよりもほんの少しだけ荒っぽいような気がする。仕事のときとは違う喋り方だ。相手は誰だろう。
 けれど盗み聞きしてはいけない。私は静かにリビングのドアを開けた。
「──はいはい、お見合いの話だろ。母さんの気持ちはわかってるよ。だからもう少し待ってて」
 しかし、突然、飛び込んできた衝撃的なセリフに息をのんだ。お見合い? 世良さんにそんな話が持ち上がっているの?
「──そんなわけないだろう。僕だって将来のことはちゃんと考えているよ。──わかったよ。その話はもう少し待っていてよ。いい方向になるように考えているから」
 いい方向……それはつまりお見合いを前向きに考えるということなの? 私にプロポーズしておいてお見合いをするつもりなのかな。
 世良さんが私を裏切るだなんて思えないけど、確かに“お見合い”と言っていた。もしかすると最終的に私がプロポーズを断ったら、お母さんが勧める縁談に応じる約束なのかもしれない。
 だってお母さんだって世良さんがいつまでも結婚しないことを心配するのは当然だもん。ひとり息子に幸せな家庭を作ってほしいと願う気持ちはわかるし、早く孫の顔も見たいだろう。
 だけど私の胸は痛かった。プロポーズを快諾できない申し訳なさと世良さんが他の女性との結婚を選んでしまうかもしれないという不安が、ズキズキッと体の奥で暴れていた。
「……あ、母さん、そろそろ電話切るよ。その話はまた今度。──うん、それじゃあ」
 ドアを開けたまま、廊下で立ち尽くしている私の姿を見つけた世良さんが慌てて電話を切った。
「ごめんね。母さんからなんだ」
 別に謝る必要なんてないのに。相手はお母さんなんだから。
「いいえ。私の方こそ電話の邪魔をしてすみません」
 湯冷めした体が震えそうになる。急に世良さんが遠くの人のように思えた。
 こうしてひとつ屋根の下で暮らしているのに、いまだに返事をしていないズルイ私。そんな私には何も言う資格はないけど、どうしても思ってしまうの。世良さん、そのお見合いは前向きになる予定なんですか?

「おやすみなさい」
「亜矢ちゃん?」
 顔を見ないように寝室に向かう私を、世良さんが呼び止める。
「どうかしたの?」
「別に」
「待って」
 やめて、追いかけて来ないで。今の私は自分でも何をしたいのかよくわからないの。世良さんのお見合いの話を聞いて動揺している自分が格好悪くて、とてもじゃないけど顔を合わせられない。
 私は寝室のドアを勢いよくバタンと閉めた。

「亜矢ちゃん、ドアを開けて」
「なんでもないんです。おやすみなさい」
 明かりを点けていない寝室を照らすのは窓の外から差し込む淡い光。ドアを背に世良さんの気配を感じていた。だけど、世良さんはどうせ寝室には入ってこられない。強引にドアをこじ開けるような人ではないから。
「聞こえていたんだよね? お見合いの話のこと」
 暗闇に目が慣れた頃、静かに問いかけられた。やっぱり本当なんだ。私の勘違いかもしれないと期待していたのに。
「ごめん。でも、お見合いはしないよ。ちゃんと断ったから」
 ドア越しに聞こえてくる声は切なく甘い。だけど、私を求めるその声に、熱くなりかけていたハートが冷たく凍った。
「謝らなくてもいいですよ。本当だったら、プロポーズを断った私に遠慮することなんてないんです」
 これではただの駄々っ子だ。いい年してみっともない。
 だけど怖いの。世良さんもいつか、ほかの女の人を選ぶ日がくるんじゃないかって。だって私はシンくんにもハヤトにも必要とされなくなった女。結婚したいと思えない女なんだもん。

「開けるよ」
 急にそう言われ、慌てる暇もなく押されるドアに足元がフラついた。
「ごめんっ!」
 倒れこそしなかったものの、少しだけ前のめりになった私に世良さんの手が瞬時に伸びてきて、タイミングよく腕がキャッチされた。
「大丈夫?」
「は、はい」
「乱暴にするつもりはなかったんだ。どうしても亜矢ちゃんの顔を見て話したくて」
 掴まれた左腕の圧迫感が強くて世良さんの真剣さがうかがえる。いつもの、ほんわかと包み込むような甘さはどこにも見当たらない。
 投げかけられる低いトーンの声。強い眼差しで見下ろしてくる瞳はクールな印象。ニコリともしないで不動に立ち尽くす姿は、こうして見ると近寄りがたくて拒絶したくなる。思わず視線を逸らした。
「離して下さい」
「なら、顔を上げて」
「……嫌です」
「顔が見たい。亜矢ちゃんの顔を見て話したい」
 そのとき、掴まれていた腕が解放された。勢いよく血流が身体を巡るような感覚がして、安心した私はゆっくりと上を向く。
「ありがとう。でも部屋が暗いから顔がよく見えないや」
「電気は点けないで下さい」
「どうして?」
「今の私はひどい顔をしているから」
 嫉妬なのか我儘なのか。自分でも訳がわからない感情が芽生えて冷静になれない。
「それって僕のことを意識してくれているから? ……そう自惚れてもいいかな?」
 リビングの明かりをバックに浮かび上がる世良さんの顔。その顔は確かに微笑んでいた。部屋中の光を吸収した虹彩が輝き、今度は私をやさしく見つめる。
「そうなのかも。でもそうでないのかも。よくわかりません」
「でも変化があったのは本当だよね。それだけでも進歩だと思っちゃうよ。だけど電話の件は気にしなくていいから」
「でも、お見合い相手の方の強い希望なのかもしれませんよ」
 その人は、世良さんの写真を見たりプロフィールを知ったりして、むしろ乗り気なのかもしれない。その人に限らず、世良さんがお見合い相手だったら、みんなそう思うはずだもん。
「どうせ、お見合い相手なんていないよ」
「え?」
「母さんの嘘なんだ。うまく騙しているつもりみたいだけどバレバレなんだよね」
 あっけらかんとした答えにまさかと思ったけど、どうやら嘘ではないようで、世良さんはその理由を丁寧に話してくれた。相手の女性の情報も、どういう伝手で舞い込んできた話なのかも、世良さんがお母さんに尋ねても適当に誤魔化されるばかりで一切明かされなかったそうだ。

「お見合いをさせると言えば、僕が結婚を焦ると思っているんだよ」
「だからって相手が存在しないのに、そういう話を持ち出しますか?」
「うちの母さんはそういう人だから。それに自分の子供がいい年して独身だと、どこの親もそうだろう?」
「よく聞く話ですけど……」
「つまり、そういうことだよ」
 いまだに緊張が解けない私をリラックスさせようと、世良さんの手の平がやんわりと私のほっぺたの上で弾んだ。よほど顔が強張っていたらしく、触れられて初めて思い出したように瞬きをした。
「早く孫がほしいんじゃない? 周りの友達がそんな感じだから、うらやましく思ったんだよ、きっと」
「それはうちの母も同じです。世良さんも大変なんですね」
「ほんとだよ。亜矢ちゃんのお母さんも強力そうだよね」
 この間のことを思い出し、ふたりで小さく笑う。どこの親もそんなもの。世良さんも同じようなプレッシャーを感じていたんだ。
「僕が結婚したいと思った女性は亜矢ちゃんだけだよ。それは本当」
「たくさんの女性とお付き合いしてきたのに、ひとりも?」
「結婚そのものは、しない主義でもなかったんだけど。なんでだろうね。好きではなかったのかな」
「好きじゃないのにお付き合いしていたんですか?」
「相手に悪いと思ったから途中でやめたよ。僕と付き合うと時間の無駄になるかもしれないだろう?」
 それが世良さんが特定の彼女を作らなかった理由だったんだ。薄情なようだけど、それもまた世良さんらしい思いやりなのかな。
「でも今は違う。自分の気持ちがはっきりしたから告白をした。まあ、いろいろ事情があってプロポーズになっちゃったけど」
 冷えた身体が再びあたたかくなるようだった。やわらかな風がほんのりと肌を滑る、ぽかぽかの陽気の中で深呼吸したときみたいな純真な気持ちになる。
 はにかんだ表情の、ありのままの世良さんを残したくて、心のシャッターをこっそりと切った。


 
 
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