第6章 もっともっと愛するから(014)

「そういうことだから、お見合いの件は──」
「もう大丈夫です。よくわかりました」
 私を安心させるためなのかもしれないけど、それでもいい。世良さんは、お見合いをする気なんてないんだってわかったから。
 心がそれをしっかりと感じている。世良さんなら信じられる。
「すみません。私、自分勝手ですよね」
「気にしてくれたことはうれしいよ」
「あの、私……世良さんもそうなのかなって。世良さんも私の前からいなくなっちゃうんじゃないかって怖かったんです」
 気づくと胸の奥でくすぶっていた気持ちを素直に口に出していた。それは悲しい記憶。私から女である自信を奪っていった惨めな出来事。最後まで闇に閉ざされていた一番奥にあった私の心の扉をノックしてくれたのは世良さんだった。

「人の心は難しいよね。でも、相手の人を憎んだり、引きずったりしていても何も生まれないよ。そんな自分も嫌になるだろう?」
「おめでとうと思えない自分が嫌でした。浮気されても心が離れてしまっても、それでも相手の幸せを願える人間になりたかったです」
「一度は好きになった人だから。ありがとうって思えたらいいよね」
 苦しかった。ずっと苦しかったんです。会社を辞めてしまったことで、辛さを乗り越えるチャンスを失ってしまった。そのせいで自分自身に負けてしまっていた。
 それでも仕事があったから、なんとか普通に暮らしてこられたけど、それまでの私は人としての大事な要素が欠けていた。
「やっと再出発できます。世良さんと再会できてよかった。私のことを好きになってくれて、ありがとうございます」
 止まらない涙を世良さんの指先がすくう。
「泣き顔は二度目だね」
 そう言いながら微笑みかける。
 一度目は過去の恋愛を思い出して取り乱したときだった。それまで誰にも言えなかった気持ちを世良さんが静かに受け止めてくれて、思えば、その日に飲んだワインがとてもおいしくてハマりだしたんだった。
「でも、今日の涙は悲しい涙じゃないよね?」
「……はい」
「それなら喜んでいいのかな?」
「はい」
 耳の後ろに手を添えられて見つめ合う。あたたかい手の平の温もりを感じていると、世良さんの顔が近付いてくるのがわかった。
 唇と唇の間の距離はほんのわずか。触れるか触れないかのギリギリのラインだと思う。至近距離で交わる視線は薄闇でもしっかりと絡み合い、そそるような眼差しの中にもうひとりの彼を見た。
「いいの? 拒まないとしちゃうよ」
 だけど私の返事を待たずに、それは重ねられた。
 こういうところはやっぱり肉食系なんだなと思いながら、目を閉じて受け入れる。やわらかい感触を堪能できるほど、ゆっくりと私の上をなぞる世良さんの唇。控えめに啄ばんで、角度を変えて、でも離れることはない。
 経験豊富な世良さんのことだから、もっと情熱的なキスかと思っていた。でも、こんな穏やかなキスもいい。私をとても労わっていることが伝わってくる繊細なキスも、この胸をときめかせてくれた。
「ぁ、ん……」
 だけど、どうも私は欲深いらしい。次に思うのはさっきとは正反対のものだった。もっと深くがいい。激しく求め合うような、奪い尽くされるような、深いキスも味わってみたい。
「……もっと」
 唇が離れてしまった寂しさから思わず漏れた声。
「ん?」
 でも止められない。そう思ってしまったんだもの。
「大人のキスがいいです」
「亜矢ちゃんって、小悪魔タイプだね」
 世良さんはたいして驚きもせずそう言うと、もう一度、私にキスをした。

 きっとこれまで大胆な女性をたくさん見てきたんだ。“来るもの拒まず”というフレーズが浮かび、自分のことを棚に上げて、ちょっぴり妬けた。
 だから私も自然と積極的になる。彼の舌にこたえたくて、つま先に力を入れて精一杯背伸びをした。そんな私の不安定な身体を支えるように彼の手がそっと伸びてくる。背中に手が添えられて、私も世良さんの首に腕を絡ませた。
 上手にできない私を誘導するようにスローに動く舌は少し歯痒いけど、その分、艶(なま)めかしくて体の奥が熱くなる。私の中で悶々としていたものが弾けて、女としての欲望が本格的に再燃した瞬間だった。
 けれどそんな自分にまだ慣れない。キスを続けながら密着していく身体が気になって仕方がない。思っていたよりも厚い世良さんの胸板に、お風呂上がりに身に付けたキャミソール越しに自分の胸が押し付けられ、恥じらって離れたくても彼の手がそれを阻んでいる。
「逃がさないよ」
「でも、待って……」
「おねだりしたのはそっち」
 我慢できないとばかりに口づけられると、三度目の甘い時間がはじまる。一度目とも二度目とも違うキスは互いの抑えきれない感情がむき出しになって、押されるようにしてベッドになだれ込んだ。
「もっと好きになってもいい?」
 頭上にある甘い瞳が見下ろして、さっきまでつながっていた唇が言う。
「今も十分なくらいなのに」
「これでも抑えているんだよ。本当の僕はこんなものじゃない」
「嘘……想像がつかない」
「怖い?」
 鋭く光る瞳は男の本能をむき出しにした野獣のよう。慣れない視線に息をのみ、自分の心と真剣に向き合った。
「怖くは、ないです」
「そうかな? そんな顔しているよ」
 怖いと感じるのは世良さんにではなく、世良さんにのめり込んでいく自分に対して。人を愛することは素敵なことなのに不安を覚える。信じているはずなのに、どうしてだろう。
「世良さんが怖いんじゃないんです。私が未熟だからです。だからもう少しだけ。世良さんの奥さんにふさわしい人間になれるまで、プロポーズの返事は待っていてくれますか?」
 さすがに今すぐ結婚とはいかない。だけど、いずれそんな日が来たらいいなと思う。そのタイミングが早いのか、少し時間がかかるのかわからないけど、世良さんと一緒の未来しか想像できない。

「しばらくは恋愛期間ということ?」
「ダメですか?」
「いや、賛成だよ」
 私に覆い被さるようにしながら片肘をついて上半身を支えているから顔が近い。空いている方の手はベッドの上に広がった私の髪を整えるように動いていた。
「早く婚約者に昇格できるように頑張るよ」
 誓いを立てるように髪の束にキスを落とす。サラサラと手から零れ落ちる髪からシャンプーの淡い香りがして、それが世良さんの香りとリンクしてクラクラと眩暈のような感覚が襲う。
「世良さんが頑張る必要はないですから。恋人として過ごす期間がほしいだけなんです。他の人たちみたいに」
 嫉妬を含めた好きという激しい感情と肉体的な欲望。世良さんが与えてくれる時間が穏やか過ぎて、最初はそれが見えなかったけど、今日のことで自分の本音が明らかになり、私の中にちゃんとあるのだと知った。
 あとは、この関係を守ることができるのかということ。私は世良さんに愛されるべき人間なのか。それが知りたい。
「このまま抱いていい?」
「……はい」
 背中ごと抱き締められ、首筋から鎖骨にかけて肌が濡れていく。夜の空気にさらされて途端に冷んやりとしていく肌に、リビングの窓はしっかりと閉めたのに寝室の窓はそれを忘れていたことに気づいた。
 太腿が膝で割られ、そこに世良さんの身体が入り込み、めくられたキャミソールの下のおへその脇にそっと唇が寄せられた。同時に胸もやさしく包まれて、思わず自分の手を口元に当てた。
「え、何?」
 世良さんが問いかけるけど私は黙って首を横に振った。
「もしかして感じてくれてる?」
「……」
「教えてよ」
「……イヤ」
「何がイヤなの?」
「そういうの……です」
「具体的に言ってくれないと、わからないよ」
「だから、そういう言い方は……やめてほしいんです」
 人が変わったようにイジワルになる世良さんに手を焼きながら、それでもこの先を期待して突き進みたくて、うずうずしている私がいる。
「いじめているつもりはないんだけどなあ。ただ聞きたいだけなんだよ。亜矢ちゃんの気持ちいいところを知りたいんだ」
「いちいち聞いてくるのはマナー違反です」
「聞かないと言ってくれないだろう。せめて声だけは我慢しないでほしいよ」
「だって、それは……」
 窓の方に視線を向けると世良さんが「なんだ」と意味を理解した。
「聞こえたって構わないよ。どうせ賃貸なんだから」
「お隣の方とバッタリ会ってしまったら、どんな顔をしていいのか」
「気にしなくていいよ。お互い様なんだから。たまにお隣さんの声も聞こえてくるよ。正直迷惑だったけど、これでおあいこ」
「おあいこって──」
 競うものでもないのに。でも、その言葉もあっけなくキスで封じられた。
 すかさず、さっきよりも脚を広げられ、愛撫を受けながらキャミソールをゆっくりと脱がされていく。シーツの上の私は流れに身をまかせる従順な女。だけど今の私は誰よりも淫らで貪欲。世良さんがほしくてほしくて堪らない。
 けれど、恍惚な表情を浮かべながら私の上で動いていた世良さんの動きが、突然、ピタリと止まった。

「……やっぱり、やめておこう」
「え?」
「ないんだ、アレ」
 “アレ”と言われて思いつくものはただひとつ。……避妊具。すぐにピンときて噴き出してしまった。
「笑いごとじゃないよ」
「だって、ここまでしておきながら、ナイだなんて」
「亜矢ちゃんのご両親の手前、手は出さないと自分の中で誓ったんだよ、あのときは。だから敢えて買わなかったのに。とうとう我慢の限界で……」
 世良さんは項垂れながらそう言って私の乱れた衣服を直すと、腕を引っ張って起き上がらせてくれた。
「そんなふうに思ってもらえたことは、うれしいです」
「本当はこのまま抱いちゃおうと思っていたんだよ。サイテーな男の一歩手前だよ」
 そんなセリフを言っていても、世良さんはやっぱり素敵で男の人なのにきれいだなと思う。内面がそのまま見た目に表れる人もいるのだと実感。
「そんなことないです。私の体を一番に考えてくれたんですよね」
「うん、気持ちもね。さすがに今の状況で子供ができてしまうと戸惑わせちゃうと思うから」
 いつだって私のため。この部屋で一緒に住むようになって、私はどれだけのやさしさをもらったのだろう。初めて出会った日から数えたら相当なものだ。私が気づいていないところにも、それはたくさんあるに違いない。
「安心して。ちゃんと準備ができるまでしないから」
「準備?」
 それはアレのこと? それとも私の気持ちのこと?
 世良さんがわざと言葉で遊ぶので、どちらの意味で捉えていいのかわからない。
「さて、どちらの意味でしょう?」
「またイジワルですか?」
「答えになっていないよ」
 ベッドの上でも世良さんが一枚上手。まだそういうことはしていないけど、これだけのことでも経験値の差を感じる。どう頑張っても私が敵う日が来るとは思えないよ。
「少なくとも私の方は準備万端です」
「そこまで言うなら、とことんまで抱くよ」
「女も男の人と同じです」
 解かれていく性が吐息となって吐き出される。心だけでは足りないと思ってしまうのは人間だからで、快感も人を愛することの一部だと正当化している。
 だから、もどかしい気持ちを互いに共有し、ふたり寄り添う未来を思う。抱きたい、抱かれたい。生々しいことだけど、とても神聖なことのようにも思える。
「なら、遠慮はしないから。次は覚悟して」

 挑発的な態度を見せても、それはあなたのやさしさだと私は知っている。覚悟して──もっともっと愛するから、僕を信じてついて来てほしい。そんなふうに私には聞こえるんです。
 抱き寄せる腕は力強いのに、心に残る余韻はほっとする安心感。迷うように唇がおでこに着地して、クスリ笑い合うと、たくましい胸の中におさめられた。
 信じます。あなたの愛について行きます。離れるなんて考えられない。


 
 
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