第7章 赤い口紅の女性(016)

 翌々日の日曜日の早朝、世良さんは千葉のゴルフ場へと出かけて行った。
 世良さんは、玄関でお見送りする私に向かって『鍵を閉めたらもう一度、ベッドにお戻り』と言って、私のほっぺたを指でツンツンとした。
 世良さんが出かける直前に飛び起きた私は、寝ぐせピンピンでおまけに完全な寝ぼけまなこ。そんな私をからかうように世良さんは、最後に『おやすみ』と言い残し、玄関ドアを閉めたのだった。
 失敗したあ、と思いながら鍵を閉めたけど。掃除も洗濯も昨日のうちにすませていたので、お言葉に甘えてベッドに直行。あと一時間だけと思い、幸せの二度寝を堪能した。

 しかし、気づいたらお昼近くで、結局、慌てて飛び起きる羽目になった。はぁ……今日で二度目だよ。
 夕べの残りものでお昼をすませ、軽くお掃除をしたあとは、少し前に買ったライティングに関する本を読んで過ごした。だけどそのうち世良さんの帰りを待ちわびて、そわそわ。結局、本に集中できなくなって、買い物リストの書き出しをした。

「ただいまー。亜矢ちゃん、収穫だよ」
 三時頃、ご機嫌な声とともに世良さんが帰って来た。玄関で出迎えた私は世良さんの大荷物を見てテンションアップ。
「うわあ! 魚沼産コシヒカリ! しかも5キロも!」
「景品でもらったんだ」
「すごーい。いい成績だったんですね」
「珍しく今日は調子が良かったんだ。いつもはそれほどでもないんだよ」
 お米もそろそろなくなる頃だったので今日の買い物リストに入っていたんだけど。これで買う必要がなくなった。
「タイミングバッチリです」
「だよね。センスのいい幹事さんでよかったよ」
「そうですよね。うちの父はゴルフボールをもらって文句を言ってました」
「あるある! ゴルフコンペの景品がゴルフ用品っていうのは、ほんと困るんだよねえ。お父さんの気持ち、よくわかるよ」
 お米を受け取ってキッチンに置きに行くと、世良さんはさっそくシャワーを浴びに行く。「たくさん汗かいちゃった」と言って、鼻歌を歌いながらバスルームに入って行くのを見届けて、ほのぼのとした幸福感を味わっていた。


 シャワーを終えた世良さんが身支度を終えると、車で近所のスーパーへ買い出し。もうすっかり通い慣れたスーパー。今ではどこに何があるのかを、だいたい把握している。
 テキパキと食材や調味料をカゴの中に入れて、最後にビールとおつまみ用の冷凍枝豆も入れると、買い物カゴの中はいっぱいになった。
「タラの切り身と豚肉とブロッコリーとレタス──それから、みりんとお味噌、ミネラルウォーター……」
「ミニトマトを忘れてるよ、亜矢ちゃん」
「あっ、そうでした」
 買い忘れがないか、買い物リストと照合しながらカゴの中をチェック中、世良さんに指摘されて野菜売り場に引き返す。
 世良さんはミニトマトが大好き。このスーパーでは、ときどきミニトマトバイキングをやっている。赤い色だけでなく、黄色やオレンジ色のミニトマトが置いてあって、好きなように組み合わせて買えるのだ。
 世良さんが楽しそうにトングで透明の容器に詰め込んでいく。その様子は無邪気で、子供みたい。
「たくさん詰められましたね」
「いつもやってるから」
「そういうの、会社の人達が知ったら、びっくりするでしょうね」
「うん。だから内緒だよ」

 こうしてミニトマトも無事に買え、ようやくお会計。ふたりでレシートの金額に驚いて、車の中で「買い過ぎちゃいましたね」と笑い合いながらアパートに到着すると、車を降りてアパートの入口まで歩いたところで世良さんが足を止めた。

「ごめん。先に行ってて」
 なんだろうと思って振り返ると、世良さんのスマホに着信があったらしくて「お世話になっております」と電話口で言っていた。相手は仕事関係の人みたい。休みの日なのに大変だなあと思いながら、ビールや調味料などの重い荷物は世良さんにおまかせして、私は軽めのエコバッグを一個だけ持って階段をあがった。
 だけど、部屋に着いて買い物の荷物の片付けが終わっても世良さんは帰って来ない。待てども待てども、部屋の玄関が開くことはなかった。
「……遅い」
 いくら仕事といっても話が長過ぎる。私は心配になり、一階まで世良さんを迎えに行くことにした。
 しかし、そのとき──

「わかってるよ、母さん。父さんの立場もあるんだろう。前向きに検討してるから安心して」
 世良さん? 階段を下りたところで声がした。見ると世良さんは私に背を向けるように立っていてスマホを耳にあてている。
 仕事の電話かと思っていたら、実家からの電話のようだった。相手はお母さんみたい。あのあとかかってきたのかな。だから時間がかかっていたんだ。
「──昨日会ったときに今度また会う約束をしたよ。そのときに正式に返事をする予定だから」
 会話の内容がさっぱりわからない。わかったのは、電話の相手というのが、昨日、私との約束をドタキャンしてまで会いに行った人だということ。
「──ああ。いい人だと思うよ。つき合う相手として不満はないよ」
 相手は社長と言っていたけど、どこの社長だろう? その社長とご実家のご両親がどうつながっているのだろう? 昨日の夜は仕事ではなかったということ?
 次々に浮かんでくる疑問。だから変に想像してしまうの。もっと、しっくりとくる人を。それは、お見合い相手……
 社長の知り合い、社長の親戚、社長令嬢、女社長。社長と会うと言っても、いろいろと可能性は考えられる。やっぱり架空のお見合い話とはいかなかったのかな。
 でも私はあのとき、それでもいいと思った。世良さんにその気がないことを確信したから安心できた。私は、お見合いはしないという世良さんの言葉を信じたのだ。
 だけど、あれから事情が変わったのかもしれない。世良さんはお父さんの立場を気にしていた。そこに、お見合いをどうしても断れない事情があったとしたら?

 私はそのまま引き返して階段をのぼった。今のは聞かなかったことにしよう。聞いたところで仕方のないこと。世良さんは、きっと言い繕って否定するだろうし、その前に、世良さんが実際に相手の方に会ったのならば、私にはどうしようもない。
 人の心は操作できない。会ってみたら思いのほか条件のいいお相手で、前向きになっているのだとしたら尚更だ。
「結婚かあ」
 そんなに急いでしないといけないものなのかな。出産や子育てのことを考えるとそうなのだろうけど、自分の気持ちが追いつかないときはどうしたらいいの?
 あまりにも時が過ぎるのが早くて、周りから急かされれば急かされるほど、この状況が嫌になってくる。
 世良さんが私の返事を待てないのなら、私は彼を縛りつけていてはいけない。これ以上、中途半端な状態でいたら、世良さんの人生を台無しにしてしまうかもしれない。

「ごめんね。電話が長引いちゃって」
 部屋に帰って来た世良さんがキッチンに入ってきた。何事もなかったかのように微笑んでいる。
「冷凍枝豆、とけてないかな」
 買い物の荷物を冷蔵庫や戸棚にしまっていた。私はそれを黙って見つめている。
「冷蔵庫もいっぱいだね。ビールが入らないや。取りあえず二本だけでいいかな?」
「……」
 口を開けば、さっきのことを問いただしてしまいそう。もしそうなったら修羅場になってしまうのかな。世良さんとは言い争いたくないよ。
「亜矢ちゃん?」
「あ、はい。二本だけ入れましょう」
 でも、やだよ。聞きたくない。これ以上、現実を知りたくないの。


 ***


 春山デザインから数駅のところにJRと私鉄が乗り入れる駅がある。その街に春山デザインのメインバンクがあって、図面のコピーや製本を頼んでいるコピー屋さんもある。他にも大きな書店もあるし、仕事帰りに洋服や靴のショッピングをすることもある。
 とても便利な街だから仕事でもプライベートでもよく立ち寄る。今日も仕事帰りにその駅に降り立った。
 三カ月に一度の通院。といっても、ただの定期検診。普段、コンタクトレンズを使用しているので眼科に通わないといけないのだ。

 駅から七、八分ほどの距離。メインストリートから少し外れたところに通院している眼科がある。駅前に比べると格段に静かで、この通りにある小さなカフェや雑貨屋さんをのぞくのも楽しみのひとつ。
 石畳の通りには、街並みにとけ込むような茶色いポールの街灯が立っている。歩道にも白色のLED照明が埋め込まれていて、夜になると街路樹をささやかにライトアップしていた。

「あっ、完成したんだ」
 ずっと気になっていた建物の前にはいくつもの生花が飾られていた。三カ月前までは工事中だったお店。五階建てのビルの一階には洋食のダイニングレストランが新しくオープンしていた。
 大きな窓があって解放的な感じ。オレンジ色の白熱球はお料理をおいしそうに発色し、居心地もよくしてくれる。
 どうして前から気になっていたのかというと、建築の施工会社が高嶋建設だったからだ。工事看板を見たときに名前を見つけて勝手に親近感を抱いていた。
 世良さんが設計したお店かな? あとで聞いてみよう。

 その後、眼科での診療を終えて夜の道を駅まで歩いた。さっきのダイニングレストランの前をもう一度通るとお客さんがちらほらと食事をしているのが見えた。それを眺めながらお腹が空いたなあと思っていると…………世良さん?」
 窓際の席に彼の姿を見た。白いワイシャツにボルドーのネクタイは今朝見たものと同じスタイル。そして、いつものように素敵な笑顔を振りまいていた。目の前の女性に!
 あの女性は誰だろう。ふたりは親しげな雰囲気で、かなり打ち解けている感じ。女性は私と同年代くらいの年齢で、肩まで伸びた髪をひとつに束ねて、形のいいおでこを見せるように長い前髪を色っぽく垂らしていた。
 キャリアウーマン? でも、やわらかい雰囲気もある女性。もしかして、あの女性がお見合い相手?
『──昨日会ったときに今度また会う約束をしたよ。そのときに正式に返事をする予定だから』
 五日前の日曜日。世良さんは電話でそんなことを言っていた。そうなんだ。つまりそういうことなんだ。お見合い相手をオシャレなダイニングレストランに誘って、会話を弾ませて、その返事が“お断りします”のわけがない。
 金曜日の今夜は会社の人と飲み会があると言っていた。けど、ぜんぜん違うじゃない。世良さんの嘘つき! こんなの二股と一緒だよ。それならそうと言ってくれればいいのに。
 実際に会ってみたら、美人で話も合うから、気が変わってしまったんでしょう? 結婚に踏み切れない小難しい女より、前向きな女性の方がいいものね。

 アパートに帰ってクレンジング片手にバスルームへ直行した。シャワーの蛇口をひねり、熱めのお湯を浴びる。これで思う存分泣ける。やっと泣ける。
 帰りの電車のことを考えてしまい、泣くに泣けなくて、とことん悲しいのにそういうところを計算している自分の存在も悲しかった。
 大人になると涙のコントロールもうまくなるのかな。一気に熱い涙が頬を伝う。声を上げて泣くことは久しぶりだった。


 
 
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