第7章 赤い口紅の女性(018)

「いい加減にしなさいよ」
「え?」
「『え』じゃないわよ。さっきから溜息ばっかりで、辛気臭いったらありゃしない」
「溜息くらいいいじゃない」
「よくないわよ。運気が逃げるからやめてちょうだい。どうしてもっていうんなら、ベランダでやりなさいよ」
 私にこんなキツイ言い方をするのは叔母である萌さん以外いない。気が強いところは昔からだけど、今日はそれが特に顕著だった。もっとも、マイナスオーラ全開の私のせいなんだけど。
「冷たいなあ。可愛い姪に元気がないんだから少しは労わってよ」
「いやよ、面倒くさい」
「萌さん、こわーい」
 だけど、これでも男性が言い寄ってくるのだから世の中って、わからない。ただしそれは初対面限定だけど。萌さんと親交のある男性陣は、決して口説こうとはしないらしい。
「……黙っていれば美人で通るのに」
「何か言った?」
 うわっ! 春山社長にに似て、萌さんも地獄耳だ。
「いいえ、何も」
「嘘ばっかり。今、私の悪口を言ったわよね?」
「言ってません」
「ほんと調子いいんだから。ぜーんぶ聞こえていたわよ。なにせ、地獄耳なんで」
 ひぇー! こっちはホンモノの地獄耳だよ。私の心の声まで拾っちゃうなんて、なんて人なんだ!
「それより、世良くんにちゃんと連絡をしておきなさいよ。家出なんて、亜矢らしくない」
「家出なんだから連絡しなくていいんじゃない?」
「ヘリクツ言わないの。とにかく世良くんが心配するから。今すぐよ。わかった?」
「はーい」と言いながら、スマホの画面を見るけど指が動いてくれない。世良さんからの着信がたくさんあるのに……

 電車を降りたあと、二度乗り換えて向かった先は萌さんの住むマンションだった。どうしても世良さんのアパートに帰りたくなかった私の足は、自然とここに向かっていた。

「温厚な世良くんと喧嘩をするなんて、よっぽどのことなんだろうけど。時間がたつと謝りにくくなるだけなんだからね」
 萌さんはリビングの床に座り、私が作った豚肉入り野菜焼きそばを食べながらビールを飲んでいる。泊まらせてもらう代わりに夕飯を作ると言ったら、焼きそばがいいと言うので作ったのだ。
 そんなので満足するなんて普段はどんな食生活なんだろう。実際に冷蔵庫にはお肉も野菜も一切入っていなかった。焼きそばのためにスーパーに走り、たかが焼きそばなのに人件費割高の高級焼きそばになってしまった。
「別に喧嘩をしたわけじゃないの。その前に、どうして私が悪いことになってるのよ?」
「だって、そうとしか考えられないもの」
「でも違うもん」
「あのねぇ。世良くんみたいな男性は、そう簡単には見つからないのよ。誰かにとられる前に謝っちゃいなさい」
「だーかーらー。私が謝る理由なんてないの」
 萌さんったら。一方的に決めつけちゃって。世良さんはね、他に気になる女性がいるんだよ。その女性と結婚を前向きに考えているんだから。
 それにね、すごく素敵な女性なの。萌さんもきれいだけど、萌さんに負けず劣らずの美人さんだったんだ。私が敵うわけないんだよ。どうあがいたって捨てられるのは私なんだから。
「そんなこと言ってると、私が奪っちゃうわよ。いいの?」
 何気にお母さんと同じこと言っているんだけど……
「どうぞ、どうぞ。お好きなように」
 萌さんの美貌なら、あの女性に勝てるかもね。それに萌さんなら許せるような気がする。
「年の差も四歳だけだし。年上女房っていうのも萌さんのキャラに合っているね」
「亜矢! いい加減にしなさいよ」
「私は真面目に言ってるの。萌さんこそ、私がここにいて邪魔だから、そんなこと言うの?」
「そんなわけないでしょう!」
 萌さんは厳しい形相でビール缶をテーブルの上に乱暴に置いた。
「ちょっ! 萌さん!」
 おかげで飲み口からビールがこぼれてしまって、私は慌ててキッチンにフキンを取りに行った。
 酔っ払い萌さん。お酒を飲むと、いつもよりも感情豊かになる。クールビューティーな萌さんの素顔を知っている人は、おそらく数少ない。私と春山社長。昔は他にもいたと思うけど、今はそんなものかな。

「亜矢?」
「なに?」
「さっきのことなんだけど……」
「ん?」
 テーブルの上を拭いていると、萌さんの声が穏やかになっていく。私は手を止めて、その場に正座をすると、萌さんの話の続きを静かに待った。
「ここに居たければ、いつまで居てもいいのよ。それこそ、亜矢をここからお嫁に出してもいいくらい」
「やだ。大袈裟だよ」
「私は本気よ。私の目の届くとろこに置いておけば、何かあってもすぐに気づけるし、亜矢の両親も安心だと思うの」
「萌さん。私だって、もう二十七歳だよ。ちゃんとひとりで解決できるよ。少なくともこれからは」
 辛いことがあったからといって会社を休むつもりもないし、明日の出社のことだって、ちゃんと考えている。着替えをしに世良さんのアパートに寄っていては遅刻してしまうから、明日の分の服と下着はここに来る前にちゃんと買っておいた。
「萌さん……それから、さっき言ったことは本当にそう思っているわけじゃないからね。……でもすごい嫌みだったよね。ごめんなさい」

 萌さんとは十三しか年が離れていないから、叔母というより姉という存在。私が社会人になるとさらに年の差の感覚が縮まって、対等な立場で語り合えるようになった。
 当時は自分の離婚問題でそれどころではなかったはずなのに、会社を辞めて半ば引きこもり状態の私を再び外の世界に連れ出してくれたのは萌さんだった。春山社長が手がけたものを私に見せるために、時間を作っては私をいろいろな所に連れて行ってくれたのだ。
 地方の小さな城下町や町屋の街並み、仏閣など。それらはひっそりとして、趣のある静かな光。イベント的なイルミネーション、例えば電飾の施されたクリスマスツリーや、ルミナリエのウォールタペストリーのような華やかなライトアップとは正反対のもの。
 私を導いてくれた光にはそんな光もあった。人々の生活の中にそっと入り込んでいる灯を春山社長は好んでいるようだった。

「亜矢の、素直でまっすぐで、時々、無邪気になるところがとっても可愛いの。何を言われても、その想いは変わらないわ」
「面と向かって言われると、すごく照れるよ」 
「今度こそ、幸せになりなさいよ。小さい頃から苦労をしてきたんだもの。これ以上、泣かせたくないの」
「ありがとう。でも、世良さんとは、もう……」
「何があったの? 深刻な問題なら相談に乗るわよ」
「ううん、相談は必要ないの。私が身を引けば、それでいいだけのことだから」

 私は萌さんに今までの経緯を説明した。萌さんは納得していないようだったけど、世良さんに謝りなさいとは言わなくなった。
 その代わり、ちゃんと電話は入れなさいと言われ、私はようやく世良さんと向き合って話そうと思えた。
 すると、ずっとスマホを手にしていたのだろう。呼び出しコールがワンコール鳴り止まないうちに世良さんの声が聞こえてきた。
『心配してたんだよ。迎えに行くよ、今どこ?』
 事情を尋ねることなく、いきなりのセリフ。焦ったような声は私をどれだけ心配していたのかを物語っていた。だけど私は冷静に答えた。
「萌さんのマンションです。しばらく、ここに住まわせてもらうことになりました」
 不動産屋さんで引っ越し先も探していることを告げると世良さんは絶句していたけど、私は構わずに続けた。
「明日の夕方、荷物を取りに行きます。世良さんは何時頃に帰って来ますか?」
『どういうこと? どうして急にこんなことになるんだよ?』
「その話は明日──」
『今から迎えに行くから住所を教えて』
 私の言葉を遮って世良さんが口調を強める。ついでに会話も噛み合わなくて困り果ててしまった。
『だいたいの場所は知っているから、取りあえず駅前あたりまで行くよ』
「迎えに来てもらっても、私は帰りません」
『なら、直接会って話だけでもさせて』
「今日はもう遅いので。世良さんだって、明日は仕事なんですから」
 なだめるように言う。私が電話を一切無視して、その間に家で散々待ちぼうけを食らわされていたのだから、さすがの世良さんも苛立ちを抑えられないのだろう。待つ身とはそういうものだということは私も経験してきたことだからよくわかる。
 だけど、今日、会ったところで言い合いになるに決まっている。明日になれば、私も落ち着いて話せると思うので、そのことを告げようとスマホを違う方の手で持ち変えて息を整えると、それをさっと奪われた。
「萌さん!」
 いいからという瞳で私を見る。それから、私に背を向けて、電話の向こうの世良さんと話しはじめた。私はその様子を、固唾を飲んで見守った。しかし、数分もたたないうちに電話が切られてスマホが私の手元に戻された。


「どうだった?」
「大丈夫よ。明日まで待つと言ってくれたわ」
 そばで萌さんの声を聞いていたから、だいたいのことは把握できたけど、あまりにも短い会話に疑心暗鬼。
「それだけ?」
「私と一緒だと確認できたから納得できたのよ。それを確かめられないまま、放っておけない性格でしょう、あの人って」
「それはそうだけど」
「それだけ心配していたってことよ。明日、世良くんに会ったら、そのことだけはちゃんと謝りなさいよ」
「……うん」
 心配……それを聞いてなるほどと思った。彼本来のやさしさもあるけど、私を預かった責任を感じているからこそ、そこまで必死なのだと。
 結局、世良さんの中では私は新入社員のままなのかな。上京したての世間知らずな二十歳の女の子。好きな男の子を追いかけるために就職先を選んでしまうような無鉄砲さは、我ながら恥ずかしい。おまけに行動力のわりには結果が伴わないから、格好も悪い。
 途端にあの女性が頭の中をちらつく。あの艶めいた魅力はきっと充実した生き方をしているからだ。仕事もプライベートも順調で、その上、美人ときたら人生がおもしろくて仕方ないに違いない。
 弧を描いた赤い唇が、彼女の色気を際立たせていた。私にはない魅力を彼女は持っている。世良さんとお似合い過ぎて、私の出る幕なんてないよ。


 ***


「プロポーズはお断りします」
 翌日、私は世良さんにはっきりと言った。いつも楽しく食事をし、お茶を飲んでいたダイニングは殺伐とした雰囲気になっていた。
 ピリピリとした居心地の悪い空気の中、世良さんが目を見開いた。
「ちょっと待ってよ! いきなり何を言うんだ?」
 世良さんが不服そうに声を荒げるが、私は彼の瞳から視線を逸らさずに見つめた。
「ですから、これが最終の答えです」
 ちゃんと伝えなきゃ。世良さんの幸せのために、覚悟を決めてここに来たのだから。
「それから、夕べは連絡をしないで、すみませんでした。心配をかけてしまったことは反省しています。それから、おとといの夜も。せっかくのレモンティーも全部残してしまいました」
「そんなこと、どうでもいいよ。それより、どうしてこんなことになっているのか、僕にはさっぱりわからないんだ」
「おととい、私が言ったあの気持ちは本当なんです。自分が思うまま……世良さんにはそうしてほしいんです」
「それがわからないと言っているんだ。たったそれだけを言って全部終わりにするつもり? 本気なの?」
 世良さんがテーブルの上で拳を固く握るのが見えた。
「世良さんにはもっと相応しい女性がいますよ」
「相応しい女性?」
 世良さんが眉根を寄せて、いっそう不機嫌な顔になる。でも、世良さんだってあの女性とふたりきりで楽しそうにしていたじゃない。朝帰りするくらい、身も心も相性が良かったんでしょう。
 私だって世良さんには幸せになってほしいと願っているの。だから、世良さんの口から聞く前に私から別れを告げさせてほしい。じゃないと、また同じことの繰り返しになってしまう。もう二度と人を好きになることができなくなりそうで、怖いんです。
「私はいい年をして、いつも誰かに頼ってばかりでした。こんな私が誰かを支えるなんて無理だと思うんです。何もないんです、今の私は。だから結婚できないんです」

 言い終わると私はスーツケースと旅行バッグを持って玄関に向かう。ここに初めて来たのは三週間と少し前。そのときはスーツケースひとつだったのに。たったそれだけの期間で鞄ひとつ分の荷物が増えていた。
 世良さんに買ってもらったネイビーのワンピースを着てデートする夢は叶わなかった。クリスマスイルミネーションを見に行きたいなと、ひとりで妄想していたことも無駄に終わった。
 だけど人との出会いなんてこんなもの。出会いもそこそこあっても、別れもそれに近い数だけある。残るのはほんの一握り。
 今度こそと夢見てしまった私が馬鹿だった。なんの取り柄もない私は誰かを幸せにできるわけがないし、そうしてもらう価値もない。シンくんとハヤトが別の女性を選んだ事実がその証拠。あのふたりは幸せを掴んだ。新しい人と出会い、恋をした。それがすべてなんだろうなと思う。

「亜矢ちゃん!」
 玄関まで追いかけて来た世良さんが混乱のせいか息を乱していた。一生懸命に何かを伝えようとして私を必死に見つめている。
「亜矢ちゃん……」
 苦しそうな顔をしていた。だけど、せめて最後は笑顔でお別れしたい。私はかわいそうな女じゃないの。自分で選んだ道なの。だから……
「ごめん……」
 そんな顔で頭を下げられると惨めになる。
「どうして謝るんですか?」
 私を裏切ってしまったから? 他の人と結婚しようとしているから?
「あ、いや……怒らせるつもりじゃなかったんだ。ただ……」
「私、怒ってませんから」
「そうじゃなくて。朝帰りしたこと以外にも理由があるんだろうけど……」
 それは世良さんが一番よくわかっていることでしょう。だったら、わざわざ言わないで。
「もうやめて下さい。話し合いも終わったんです」
「だけど──」
「お世話になりました。短い間でしたけど、一緒にいた時間は楽しかったです」
 私は一礼して世良さんを振り切った。重いスーツケースと旅行バッグを抱えて階段を下りていく。
 これでよかったんだよね。世良さんにとっても、ご両親にとっても。そして、私にとっても。

 ひと気のないアスファルトの上でゴロゴロとスーツケースの音がむなしく鳴り響く。そこに、鼻をすすりながらしゃくり上げる私の情けない泣き声。
 流れ落ちる涙が頬の上で湿気を多く含んだ風に触れて、一向に乾いてくれない。けれど、この涙が乾く頃には夢もすっかり醒めているだろう。そして私はまた単調な毎日を送る。そうだよ。元通りに戻るだけのこと。
 かすんだ夜空を眺めながら、前に見た銀河鉄道の夜みたいなデザイン画を重ね合わせた。プロポーズされたことは遠い思い出……そうなれますようにと願いを込めて、お世話になった世良さんのアパートをあとにした。


 
 
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