第8章 それでも好きで堪らない(019)

 放火の犯人が捕まったと警察から電話連絡があった。犯人は未成年の大学生で、動機は日常生活の鬱憤晴らしだったそうだ。
 そんな理由で!? と怒りがこみ上げたものの、電話の相手が警察の人だし、犯人も今は留置所の中なので、なんとか自分の中で消化するしかなかった。とにかく、被害に遭う人があれ以上増えなかったことだけはよかった。
 私もほっとした。ずっと気がかりだったことがやっと解決して、これでようやくひとつめの大きな問題が片付いた。

 ──これが昨日のこと。世良さんとの同居を解消して三日後のことだった。

 世良さんとは完全に終わってしまった。恋人同士とも言えない関係だった。それなのにまるで恋人と別れたような落ち込みようと無気力感。三週間近くも男女を意識し、浮かれた状態で一緒に住んでいたから、そういうふうに思うのかな。
 でも私たちの間には、しっかりと事実として残っている。キスをした。それも大人のキスを。思い出すのは肌の上をすべるやわらかな唇の感触。あちこちに口づけされて、のぼせあがって、自分が自分でなくなるような危うい感覚の中を浮遊していた。
 あのまま続けていたら、どうなっていたのだろう。その先を知ってしまった私は、果たして彼を手放せただろうか。


「自分の仕事は大丈夫なのか?」
「はい。急ぎのものはありません」
「それじゃ、頼む。場所はわかるな?」
「現場の場所はわかります。サンセットクリエイトさんの場所は地図で確認しました」

 星型イルミネーションのサンプル品の納期日である今日の十三時半から、現場で定例打ち合わせがある。現場に関わっているすべての業者の代表が集まる大事な打ち合わせだ。いくつもの工事が同時進行なので、様々な業種の人間が集まる。
 当然、うちの事務所もメンバーだ。その打ち合わせの中で、星型イルミネーションのサンプル品を使って、施工方法の確認が行われる予定なのだが、サンプル品がまだ届いていない。サンセットクリエイトさんへの納入はお昼頃になりそうということだった。

「間宮さんは十二時半には出ないといけないそうだ。もし入れ違いになったら事務所の女の子に引き継ぎしておくそうだから」
 間宮さんの都合がつかなくて、現場への配達が無理になった。春山社長も、今日は施工状況の確認のため午前中から現場に入らなくてはならない。そこで私がサンセットクリエイトさんに直接、サンプル品を受け取りに行き、そのまま現場へ届けることになった。
「現場の駐車場に着いたら電話をよこせ。車まで取りに行く」
「わかりました」
 普段、事務所の軽自動車で銀行や役所、設計事務所など、あちこち走りまわっている。そのため、だいたいの道は把握している。
 事務所の他の人たちはコンベンションセンターやFKビルの仕事に追われているために、私がその役を買って出た。こういうときくらいしかお役に立てないから。サンプル品を届けるだけなら私にでもできる。
「迷子になるなよ」
「現場付近の道は何度か通ったことがあるので、大丈夫かと」
 入社当時に何度か道に迷った前科があるので、あまり信用されていない私。事務所の軽自動車にはナビがついていない。なので最初は苦労したけど、逆にナビがないおかげで道を覚えることができた。

 余裕を持ってお昼前に事務所を出発した。十二時過ぎにサンセットクリエイトさんに着いて、待機してくれていた間宮さんからサンプル品を受け取ると、春山社長の待つ現場へと向かった。
「やっぱり目立つなあ」
 現場に近づくと小高い場所に建てられたプラネタリウムのドームが見えてきて、ちょっと興奮してしまった。建物がライトアップされると、ドームがほのかに浮かび上がって、遠くからもおもしろく映るはずだ。
 可愛い宇宙船。どちらかというとファンタジーな世界かな。

「駐車場に着きました」
『どの辺にいる?』
「出入り口の近くにいます。えっと……東側です。車から降りて待ってます」
 さっそく春山社長に電話をすると『今行く』という返事。だけど、現場が広すぎて春山社長がどの方向から現れるのかわからない。私は辺りをキョロキョロと見回した。
 この辺りはもともと、未開発で何もなかった土地だった。最近になって整備され、プラネタリウム公園の建設にあわせて周辺の道路も新しく舗装されていた。
 どんどん変わっていくんだなあ。その変化があまりにもめまぐるしくて、私の方が追いついて行けない感じだよ。
 そのとき、一台の車がゆっくりと近づいてきて、私の前で停車した。
「亜矢ちゃん?」
 運転席の窓が開き、顔を覗かせたのは他でもない、世良さんだった。世良さんはこの現場の関係者なのだから、ここにいるのは不思議なことではない。それはわかっていたはずだった。なのに……
 まさか、本当に会ってしまうとは思ってもみなくて、心の準備がまったくできていなかったから声がでなかった。ボタンダウンのグレーのストライプシャツもさわやか過ぎて、一瞬にして目が奪われた。

 世良さんはすぐ近くのスペースに車を停めると、颯爽に歩いてこちらに向かって来る。背が高くてスタイルも良くて、こうして見るとやっぱり王子様みたいだなと思った。ほんの四日前までひとつ屋根の下で暮らしていたのに、とても懐かしい気持ちになった。
「どうしてここに?」
「届けものを……」
「ああ、そっか。納期がギリギリ今日だと言っていたやつか」
「はい」
「預かろうか? どうせ僕もこのあと春山社長に会うから」
「いえ……」
 世良さんはいつも通りに私に話しかけてきた。だけど私はひとことずつしか返せない。それすらもやっとという感じで、自分でもイライラする。
「亜矢ちゃん」
 俯く私に沈んだ声が落ちてきた。
「そんなに僕が嫌いかい?」
「そんなこと……」
 なんとなく一歩後ずさりしてしまった。
「なら、逃げないで」
 世良さんが私が避けた分の一歩だけ距離を縮めてきた。かつて私たちはもっと深くて近い仲だったのに、今はこの距離感が苦しい。たった四日間では何も変わらない。
 当然のことながら思い出には程遠くて、こんなところで泣きそうになっている。
「せめて、前みたいに戻れないかな? プロポーズする前に」
 プロポーズする前……つまりそれは、抱き締め合ったこともキスしたことも忘れてほしいということなのだろうか。そんな簡単に割り切れることができる人なんだ。
「そうですね。プロポーズはなかったことにした方がいいですよね」
「そういう意味で言ったんじゃないよ」
「そう聞こえました」
「そうじゃない。亜矢ちゃんだってやりにくいだろう? 今日みたいに顔を合わせる機会だってあるんだ」
 世良さんが説き伏せるように言う。
 彼の苛立ちを見るのは何度目だろう。温厚な世良さんを怒らせてしまう自分に、人としての自信もなくなっていく。
 私はいつもそうだ。心の抑制が効かなくなって、いつもこんなふうに感情をぶつけてしまう。過去にも、こんな経験は何度もしてきた。だから、今ならわかる。私のこの状況を言葉で説明するならば……

「ごめんなさい!」
 夏の太陽がじりじりと照りつける昼下がり。ここは駐車場といっても舗装されておらず、言わば単なる空き地。
眩しさと砂埃でコンタクトの目を開けているのが辛くて、閉じてしまった瞼の奥から零れてしまった涙を世良さんに見られたくなくて、その場を駆け出してしまった。
「待って、どこに行くの?」
 だけど、数歩であっけなく捕まってしまう。
「いやっ! 離して下さい」
「逃げないで。頼むから、避けないで」
 世良さんが私の手首を握っている。脈拍がわかってしまうくらいに、きつく強く。
「ここを離れてどうするの? 何しにここに来たのか忘れたわけじゃないよね?」
 だって、ここにいられない。気づいてしまったんだもの。私は自分で思っていた以上に世良さんを好きになっていたということに。
 今なら引き返せると思っていたのに、とんだ誤算。私の恋心は引き返せないところまで大きくなっていた。胸の痛みが肥大していく。いつの間にこんなに?
 ゆったりとした時間の中にいた私はそのことに気づけなくて、世良さんのお見合い相手のために身を引いてしまう過ちを犯してしまった。

「世良さんこそ、もうすぐ打ち合わせの時間ですよ。早く行かないと」
「あと十分もある」
「ダメですよ。時間に遅れたら大変です」
「泣いている亜矢ちゃんを置いていけない。知りたいんだ。どうして泣いているのか。どうやったら償える?」
「違うんです……そういうんじゃ……世良さんは何も悪くないんです」
 広がる青い空の下で、いくつも落ちる涙の雨。私の手首を掴む世良さんの手に縋るように自分のもう片方の手を重ねて、首を横に振って否定した。
 悪いのは私なんです。手放してから気づいても遅いのに。たくさん傷つけてしまった。
 だけど、もし許されるのなら……ぬくもりあるこの手で包まれたい。その胸に飛び込んで、あなたを独り占めしたい。今、ここで勇気を出したら、世良さんは私を許してくれる?
「泣かないで……って言っても、そうさせているのは僕なんだよね。でも安心して。僕なりにちゃんとケジメはつけたつもりだから」
「世良さん……?」
「それを伝えたかったんだ」
 どこかスッキリとした眼差しを受けて、私の心には津波のように後悔が押し寄せる。一心に注がれて守ってくれていたものが一気に奪われて、私は途方に暮れていた。
「世良さん……あの……」
「亜矢!」
 そのときのタイミングの悪さといったら、とんでもなくて、これほどまでに彼を恨んだことはない。駐車場に響く大声に私と世良さんは何事かと思い、声の方を向いた。


 
 
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