第9章 新しいベッドを買ってもいい?(022)

 銀の糸のような美しい雨はいつしか上がり、日が高くなるとともに猛烈な暑さが再来する。自然光は、濡れたビルの壁面や街路樹、そして水たまりに乱反射して、街中にいつも以上の光を溢れさせていた。
 今日から八月。びっくりするほど普通に過ごしていた。ただ、楽しさや張り合いは感じない。毎日を惰性で生きている感じだった。

「暑い……」
 銀行二箇所を車でまわってきただけなのに、額には汗が滲んでいる。日焼け防止のために半袖のブラウスの上に着ていたサマーニットのカーディガンを脱いで、冷蔵庫で冷やしておいた自分用のペットボトルのストレートティーを口にした。
 最近、無意識に買ってしまう。紅茶を飲む習慣がなかった私は今も世良さんを忘れられなくて、毎日、彼を思い出しては胸が締め付けられるような感覚を味わっていた。
 シンガポール支社への異動の辞令はいつでるのだろう。結婚の準備は進んでいるのだろうか。

「みんなへの差し入れだ。今日でも明日でもいいから三時に配ってやれ」
 十三時近く。出先から戻ってきた春山社長がアイスクリームの入ったコンビニ袋を私に手渡してきた。
「うわぁ、ありがとうございます。いただきます」
 春山社長は、たまにだけど事務所のみんなにスイーツを買ってきてくれる。それは、有名店のシュークリームだったり、老舗和菓子店の一日限定百個のおはぎだったり。そのときどきによって違うので、他の女性社員の人たちと楽しみにしていた。
 あんな人だけど、意外に女心を掴むのが上手い。本当か嘘かは知らないが、バツイチになってから急にモテだしたと自分で言っていた。
 でもよく考えたら、顔はイケメンというほどでもない春山社長があの萌さんを落とせたのだ。仕事ができるだけでなく、何か隠しワザみたいなものを持っているのかもしれない。
 ひょっとして、世良さんみたいに甘い言葉を囁く人だったりして。
「冷たい麦茶を頼むよ。会議室にいる」
「わかりました」
 冷凍庫にアイスクリームをしまっている私にそう言った春山社長は、自分のデスクに戻らずに会議室へと入って行った。
 妙に真剣な顔だったな。午後の仕事は会議室にこもってするのかな?

「失礼します」
 お盆に麦茶を乗せて、ドアを開けると強烈な冷気。
「冷やし過ぎです。節電意識が足りないですよ」
「たまには許せよ。今日の暑さは半端ないんだぞ」
「まあ、そうですけど」
「それよりさ……」
 ……それより?
 意味深に何かを言いかけた春山社長は麦茶のグラスを手に取ると、ビールを飲むみたいにグビグビと半分ほど一気飲みした。それから「生き返ったあ」と満足げな顔をする。
「私に何か話があるんですか?」
 言いかけて止められた言葉の先が気になってしょうがない。ため過ぎでしょう。
「世良くんだよ」
「え」
「今日の飛行機でシンガポールに行くらしい」
「う、そ……」
「やっぱり、知らなかったのか」
 知らない。聞いていない。わかってはいたけど、やっぱり黙って行ってしまうんだ。
 例え、一時帰国しても私に連絡をくれるはずがない。ねえ、それってつまり、一生会えないということ?
「夕方のシンガポール航空の便だそうだ」
「そんなこと言われても……」
「今から行けよ、成田に。おまえ、病気と火事のとき以外に有給を使ったことないだろ」
「でも、迷惑に決まってます」
 だって、あの女性が一緒かもしれない。あまりにも急なことだから、一緒に行くことはないにしても、ゆくゆくは彼女をシンガポールに呼び寄せるのかもしれない。だとしたら、見送りに来ているはずだ。
「プロポーズされたんだろ?」
「今は状況が変わったんです」
「おまえは、男がプロポーズをする意味をちゃんとわかってんのか?」
「何が言いたいんですか?」
「惚れた気持ちだけでプロポーズはできないんだ。覚悟がいるんだよ。女を自分の稼ぎで養って、将来、子供ができたときに備えて、その子の分の責任までを考えるんだ。女が考えている以上に深いんだよ」
 それが春山社長が萌さんにプロポーズしたときの覚悟。経験者だから説得力がある。

 もともとインテリアデザイナーを目指していた萌さんは、現場で春山社長と出会い、ライティングデザインの道へ進路変更した。
 インテリアデザイナーの中には、規模が小さい場合はライティングデザインをする人もいる。例えば商業店舗の場合、商品をより美しく見せるためにはインテリアだけでなく、照明の当て方や色も重要。ライティングなくして商品は飾れないのだ。
 密接な関わり合いがあるこのふたつの関係は、萌さんと春山社長の仲も刺激して、強く結びつけていった。萌さん自身も、空間デザインを突きつめていくうちにライティングの奥深さに魅力を感じるようになり、導かれるように春山デザインへ移ったのだ。
 経営者とその社員。萌さんとの結婚は他の社員の手前、簡単に決められるものでもなかっただろう。そして、同じ道を進む萌さんだからなおさら。才能をつぶさないように、いろいろと考えることがあったに違いない。

「プロポーズしたときの世良くんを思い出せよ。真剣で、ひたむき。世良くんはそうだったんじゃないか?」
「……はい」
「だったら、今度は亜矢の番だ。待っているだけじゃ変わらない。行動に移さないといけないときもあるんだ。それともこのままでいいのか?」
 春山社長の言葉が胸に突き刺さった。いつも受け身だった私。常に世良さんが私の手を引っ張ってくれて、私はそれに従うだけでよかった。
 でも、今は違う。世良さんは私を迎えに来てはくれない。私を置いて日本からいなくなってしまうんだ。
「私、いまだにみんなに心配されるくらい、ダメダメなのに……でもやっぱり、世良さんを諦められないです」
「じゃあ、行って来い」
 覚悟の意味は人それぞれ違うものだろうけど、世良さんがどんな覚悟でプロポーズの言葉を言ったのかを考えただけでも、胸が張り裂けそうになる。どんな気持ちで婚約指輪を選び、どんな気持ちでレストランを予約したのか。それだけでも、こんなにも胸が熱くなる。
 それなのに、あのときの私は軽々しく、プロポーズの相手を間違えていないかとか、結婚なんて考えられませんとか言っちゃって。あんな返事ってある?
「振られても、ちゃんと帰って来いよ。ここがあるんだ。俺も萌も、いる」
「……はい。ありがとうございます」
「泣くのはまだ早いだろう。それから、泣くのは俺か萌の前だけにしてくれよ。間違っても変な男に引っかかんなよ」
 そんなことを言われても止まらないです。こんなに……これほどまでに……
 たくさんの勇気が溢れてくる。許されないかもしれないけど、神様お願いします。最後にちゃんと気持ちだけでも伝えさせて下さい。
 私は世良さんに自分のそのままの気持ちを言ったことがないんです。だから知ってほしい。世良さんを傷つけたことも謝って、心からの“ありがとう”を伝えたい。


 ***


 成田空港の第1ターミナル。当たり前だけど、それだけの情報で広い空港内の大勢の人たちの中からひとりの人間を捜すことは難しい。一階ロビーを歩きながら思ったよりも大変だと気づいた。
 こうなったら……出発まで余裕はあるけど電話するのが一番手っ取り早いよね。迷惑だったら私からの電話には出ないだろうし。
 そう思い、スマホを取り出す。すると、そのタイミングで電話の着信が入った。春山社長からだった。
『どうだ? 会えたか?』
「……まだです」
『南ウイングのミーティングポイントに行け』
「はい?」
『四階の出発ロビーだ』
「でも、どうして?」
『だいたい、そのあたりにいるもんだ』
「そうなんですか?」
『いちいち気にするな。あとは自分でなんとかしろ』
「あ、はい。ありがとうございます」
 なんかよくわからないけど、そういうものなのか。成田空港は、ハワイに住んでいた子供の頃にはよく利用していたけど、大人になってからはほんの数回ほど会社の団体旅行で来た程度。海外旅行に行ったことがあまりないので、素直に従うことにした。
 でも、世良さんのそばにあの女性がいたら、こっそりと電話をして世良さんだけを別な場所に呼び出そう。出発前に迷惑はかけられない。私の我儘、そして自己満足のために世良さんたちを振り回しちゃ悪いもんね。
 出発ロビーに向かうエスカレーターで、そんなことを考えていた。

 そしていよいよ出発ロビーへと足を踏み入れた。まずは柱の陰に隠れて様子をうかがおう。世良さん、いるかな?
 ──と思ったら、世良さんがキョロキョロとしていて、ものの三秒で見つかってしまった。な、なんで? こんなはずではなかったのに!

「……こ、こんにちは」
 いきなり目が合ってしまって隠れることもできなかった。しかも、最初にかける言葉を考えていなかったから、間抜けなあいさつになってしまって、すっかりしどろもどろ。
 今の時間だと『こんにちは』じゃなくて『こんばんは』だよと、どうでもいいことを自分で突っ込む始末。でも幸いなことにあの女性は見当たらない。ひとりなのかな?
「あの……ごめんなさい。今さら会いに来られても迷惑だとは思ったんですけど……」
 どうしてここにいるの? ……という、驚いたような目でこちらを見ている世良さんに土下座して謝りたいくらいだった。
 出発前の大事なとき。海外での初めての仕事で、いくら器用な世良さんでも不安やプレッシャーがあるに違いないのに。私がのこのこと現れたらストレスだよね。
「まさか来てくれるとは思わなかったよ。もしかして、ひとり?」
 世良さんが少し辺りをみまわしたことに違和感を覚えながらも私は「はい」と頷いた。
「世良さんは?」
「え? 僕?」
「はい。おひとりですか?」
「いや、ひとりじゃないんだけど……」
 世良さんが困っていた。もしかして、あの女性も一緒なの? どこにいるんだろう? トイレかな?
「ごめんなさい。迷惑をかけるつもりはなかったんです。ただ、気持ちを伝えられればそれでいいんです」
 気持ちだけというのは建前だけど、それがギリギリ、私に許されたことだと勝手に思っている。最後は笑顔で見送ることができれば、その後の私はきっとひとりで前に進める。
 部屋でひとりで泣いちゃうだろうけど、私には仕事があるし、萌さんや春山社長がいるから。東京にも私が帰る場所がちゃんとあるのだと知ったから、こうして会いに来ることができたし、この先も頑張る自信がある。
「亜矢ちゃん……?」
「返事はいりません。聞いてくれるだけでいいんです」
 とまどっている世良さんを無視してしゃべり続ける。
「勝手に部屋を出ていってごめんなさい。私の言葉でたくさん傷つけてごめんなさい」
「そのことはいいんだよ。僕にも悪いところがあったと思うから。いい年をして僕はあまり女性と深い付き合いをしたことがないんだ。いたらないところがあったと思う」
「いたらないのは私の方です。今さら自分の気持ちに気づきました。もっと早く気づいていれば何かが変わっていたのかな? ……なんて。後悔しても遅いんですけど」
「それって、どういう意味?」
「そのままの意味です。私、世良さんのことが好きです。誰にも渡したくありません。でも今は世良さんの幸せを願っています。本当は私が幸せにできたらいいなと思いましたけど……今さら図々しいことだとわかっていますから」
 あの女性となら世良さんは幸せな家庭を築けるはずだよね。世良さんが幸せになるなら、それでいい。それでいいんだ。
「感謝しています。私が変われたのは世良さんのおかげです。……ありがとうございました」

 心からの思いをあなたに。最後に伝えることができてよかった。世良さんに会えて本当によかった。今はとても清々しい気持ちです。
 だから“さよなら”は言いません。だって口に出すと寂しすぎるから。あの日、世良さんのアパートに会いに行ったとき、自分の言葉に絶望してしまったんです。
 次に会うときも笑顔で会いたい。そのためにも……


 
 
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