第9章 新しいベッドを買ってもいい?(023)

「お体に気をつけて。お仕事の成功を願っています」
 顔を上げて精一杯、世良さんを見つめた。世良さんも私を真剣に見つめていて、その瞳の中に楽しかった日々が映し出される。六年以上の月日が思い出に塗り替えられていった。
「うれしいよ。そんなふうに言ってもらえて。それから、こうして会えて。春山社長が気を利かせてくれたんだね」
「やっぱり、電話をしていたんですね」
 それで世良さんにこの場所で待っているように言ったんだ。そこへ私が現れた。強引だけど、それくらい強く背中を押してもらわないと、こんなりすんなりと物事が進まなかったかもしれない。春山社長にも“ありがとう”を言わなくちゃ。
「渡したいものがあると言われたんだ。それがまさか亜矢ちゃんだったなんて。驚いたよ」
「まったく。変なこと言うんだから……」
「ということは、いいのかな?」
「何がですか?」
「遠慮なく、もらっちゃっても」
「もらう?」
「うん。亜矢ちゃんを」
「私?」
「さっき言ってくれたことが本当なら、そうしていいということだよね?」

 スーツじゃないラフな服装。品のいいゆったりとしたグレイベージュのポロシャツにストレッチのきいたブラックのパンツ。どんな服も似合うけど、今日は一段と素敵に見える。
 ボタンがふたつ外されていたポロシャツの首元からは鎖骨もチラリとのぞいていて、色っぽさは相変わらず健在。そんな世良さんに、信じられない言葉をもらった。幻聴……じゃないよね?

「あの、私でいいんですか? 他の女性がいいんじゃ……」
「他の女性? 僕は最初から亜矢ちゃんだけだよ。亜矢ちゃん以外に結婚を考えた女性はいない。前にも言ったよね?」
「はい。聞きました。でも……」
 あれ? あれ、あれ? じゃあ、赤い口紅の女性との結婚はどうなっちゃったの?
「もう一度、僕との結婚を考えてくれるってことだよね?」
「は、はい」
「じゃあ、帰ってからちゃんと話そう。僕は今すぐにも進めたいんだけど、これから飛行機に乗らなくちゃならないから、また今度」
「でも、世良さん、シンガポール支社に転勤になるんですよね?」
「転勤じゃないよ。単なる出張だよ。といっても二カ月間の長期だけど。春山社長から聞いていない?」
「……」
「亜矢ちゃん?」
「……」
 聞いてない! 初耳です! なによ、このオチは! 転勤じゃなくて出張って、どういうことよ!?
「ねえ? どうしたの? それとさ、シンガポール支社ってどういうこと?」
「どういうって……」
 私に聞かれても。それは世良さんの会社のことでしょう。
「シンガポール支社なんて、うちの会社にないんだけど」
 はぁー!? シンガポール支社がないですって!?
「やられた……」
「え?」
「あの、タヌキオヤジめっ!」
 転勤のことも、シンガポール支社のことも、全部、嘘だったなんて!
「亜矢ちゃん、心の声を口に出しちゃってるよ」
「だって、あの人、世良さんがシンガポール支社に転勤になって、場合によっては五年間、日本に戻れないかもしれないって言っていたんです」
「春山社長が?」
「そうです! それに世良さん、お見合い相手とうまくいったんですよね? 前にエントランスでお見かけした方と結婚を決めたんじゃないんですか?」
 思わず世良さんのポロシャツに皺が寄るほどに掴みかかる。
「亜矢ちゃん、興奮しないで。先に誤解を解いておくけど、僕はお見合いなんてしていないよ。結婚の話もないから」
「違うんですか?」
「どうして、そうなっちゃたんだろう? それ、誰情報? 春山社長とはそんな話をしたことないしなあ」
「あ……」
 世良さんが首をひねるのを見て、私はすべてのことを打ち明けた。これまで見たこと、思ったことを素直に。
 実家のお母さんとの電話のこと、ダイニングレストランでツーショットを目撃したこと、世良さんのアパートを訪ねた日のこと。

 そして世良さんから聞かされた“長い長いストーリー”──


 ***


「なるほど。そういうことだったのか」
 世良さんがやさしく笑う。
「ごめんなさい。私のせいで、こんなややっこしいことになってしまって」
 はいそうです。私が勝手に妄想を働かせていただけです。世良さんはなんにも悪くないんです。
「僕の方こそ、ごめんね」
「謝らないで下さい。むしろ馬鹿な私を笑い飛ばして下さい。じゃないと、申し訳なくて世良さんの顔を見られません」
「それは困るよ。しばらく会えなくなっちゃうんだよ。だから顔をあげて。もっとよく顔を見せてよ」
 消えてしまいたいくらいに恥ずかしくて俯く私に、今日も世良さんの癒しの声が下りてくる。そんな声に私は逆らえない。私はいつだって従ってしまうんだ。
「世良さん……」
「大丈夫だよ。何も気にしないで。こうしていられるんだ。僕はこれで満足だよ」
 ぎゅっと繋がれる手から伝わるぬくもりを、ゆっくりと感じた。抱き締め合いたい気持ちを互いに抑えながら、心を通い合わせた。
 ほっとする。こうしていると、人混みの中なのに、ここが私の居場所なのだと思えた。


「世良課長、そろそろ行きますか? ──おっ! 亜矢ちゃんじゃん」
「西倉さん!」
 突如、現れたこの人。彼の顔を見て、世良さんがひとりではない意味を知った。
「春山社長のお使い? 世良課長に電話があったみたいだったけど」
「えっと……いえ、そういうわけじゃないんです」
 なんだか嘘がつけなくて、正直に言ってしまった。
「じゃあ、あの電話って……へえ、なるほど。そういうことか。いい人だなあ。春山社長って」
「ええ、まあ」
 西倉さんは世良さんと同じ部署で、私の同期の旦那さん。世良さんが持参していた手作り弁当の真相を知っている唯一の人でもある。
「仲直りしたんだ?」
 西倉さんは遠慮がないから、ちょっと困る。察してよと言いたいけど、口が達者な人だから。
「はい、まあ」
「これでも心配していたんだよ」
「すみません……でもどうしてわかったんですか?」
「最近、愛妻弁当を見なかったからだよ」
「それだけで?」
 なんて鋭いんだろう。西倉さんって、よく見ているな。
「飲み会で亜矢ちゃんのことを突っ込んだらニヤニヤしていたから結婚も近いのかなと思っていたのに。世良課長に最近、愛妻弁当がない理由を聞いても無言になるんだよ」
「飲み会?」
「一カ月くらい前かな。うちの部署の連中で納涼会をしたんだよ。あの日は朝までコースでさ。俺、夏帆莉(かほり)にめっちゃ怒られたんだよ」
 一カ月前というと……間違いない。ちなみに夏帆莉とは西倉さんの奥さん。
「それって新しくオープンしたダイニングレストランでの飲み会のことですよね?」
「そうだよ。うちの会社で設計施工したんだよ。ほら、亜矢ちゃんも知っていると思うけど、もともとうちの会社にいた土木部の平尾さんが脱サラしてはじめた店なんだよ」
「平尾さんのお店……」
 やっぱり、世良さんの言う通りだった。その日は、私が世良さんと赤い口紅の女性のツーショットを目撃した日で、翌日、世良さんが朝帰りした飲み会のことだった。
「その飲み会のときと最近のギャップがひどかったから、深刻なのかなあって。でもよかったな」

 西倉さんの話を聞いていると、自分が恐ろしくなってくる。もっとちゃんと世良さんの話を聞いていれば、こんなことにならなかったのだと猛省していた。
 土木部の平尾さんが世良さんと同期の人で、あの赤い口紅の女性は世良さんの部署で働いているパートさんで、なおかつ平尾さんの奥さんだということを知っていたら、こんな回り道はしなかったのだ。

 それは世良さんの“長い長いストーリー“の中の一部──

『平尾って知ってる?』
『はい、何度かお話したことがあります』
『あの店はそいつがオーナー兼シェフとしてオープンさせた店なんだよ。それでちょうど部署内で納涼会をやることになっていたから、納涼には時期的に少し早かったけど、オープン祝いも兼ねようと思って僕があの店を選んだんだ』
『じゃあ、あの女性は高嶋建設の従業員?』
『期間限定で、パートで働いてもらっているんだ』
『そっか。夏帆莉が育休だから……』
『優秀な人がなかなかいなくて困っていたんだ。でも、あの店の設計をしていたときに平尾の奥さんの話を思い出したんだ。以前に建設業の会社にいたって。それで僕からお願いしたんだよ』
『つまり、あの女性は平尾さんの奥さん……』

 ──西倉さんが合流する前。世良さんからそのことを聞き、そして今、西倉さんがそれを証明してくれた。

「二カ月間会えないのは寂しいだろうけど。それは世良課長も同じだから。頑張れよ」
「まさか西倉さんに励ましてもらえるとは思えませんでした。西倉さんも赤ちゃんが生まれたばかりなのに寂しくないですか?」
「俺は一週間だけだから」
「え? そうなんですか?」
「シンガポール出張は、だいぶ前から話にあったんだ。俺か世良課長のどちらかに行かせようって。でも俺の場合、子供が生まれたばかりだったから会社が考慮してくれたんだと思う。ありがたいと思ったよ」
「そうですよね。一週間でも長く感じるくらいなのに。夏帆莉も不安だと思います」
「そうそう。たかが一週間でも家のことが心配になるよ。でもまあ、こんなチャンスは滅多にないし、いい経験だと思っているよ。その代わり、亜矢ちゃんに悪いことしちゃったな」
「いいえ。そんなふうに思わないで下さい。私は大丈夫です」

 西倉さんはバイタリティがあって、きつい仕事でも前向きにこなしているイメージ。一見、クールだけど熱い情熱とやさしさを持っている。
 私の周りの人はどうしてこんなに素敵な人ばかりなのだろう。私は恵まれた環境の中にいる。そのことに改めて気づいた。


 ***


『いい子で待っていてね』
 半分からかうように私の頭を撫でたあと、世良さんはシンガポールへ旅立って行った。
「行っちゃった……」
 二カ月後の再会の日を今から心待ちにして、彼が乗った飛行機を展望デッキから見送ったあと、なんとか気持ちを切り替えて事務所に戻ることにした。
 きっと残業のために事務所に残っている人がまだいるはず。急ぎの仕事は片付けてはきたけど、今頃、デスクの上には書類がたまっているだろうな。

 事務所に着くと、案の定、明かりが点いていたので「お疲れ様です」と事務所のドアを開けた。
「あれ? 早退したんじゃなかったの?」
 私と同い年の一条くんがパソコンの画面から視線を外して、こちらを見た。
「用事が済んだから」
「たまにはゆっくり休めばいいのに。大久保さん、働き過ぎだよ」
「それは一条くんだって同じでしょう」
「俺は仕事が好きだから」
「私もだよ」
 一条くんは、あのアウトレットモールのイルミネーションの担当者。その手腕を買われて、東北地方に建設されるコンベンションセンターのコンペのメンバーのひとりにも抜擢された。
「それより春山社長は帰ったの?」
 空席のデスクはきれいに整理整頓されている。珍しい。春山社長のデスクの上はいつもハチャメチャなのに。
「社長なら午後から仙台に行ったよ。今日の夕飯は牛タンだって、随分とはしゃいでた」
「仙台出張は明日からじゃなかった? 一条くんも同行するんだよね?」
 コンベンションセンターの建設予定地と仙台の視察のために、ふたりは明日から三日間の出張予定だった。
 ライティングデザインをする際、その土地の景観や歴史をじかに感じることも大切。それらをデザインに活かすために現地視察は必ず行なっていた。
「『先に行ってる』って言って、ひとりで行っちゃったんだよ。ついでに夏休みも兼ねているそうだよ」
「夏休み!?」
 また勝手に……夏休みをとるなら事前に言ってよ。
 ホワイトボードを見ると出張予定にまぎれて、ちゃっかり休暇予定も書いてあった。
「宮城、岩手、福島の順番でまわるぞって言っててさ、すっげー楽しそうだった」
「あっ、そう……」
 逃げやがった。あの、タヌキオヤジ……
 私に恥をかかせて、こうなることがわかっていたから、一日早めて仙台に行ったんだ。
 そして、このことはきっと萌さんも絡んでいる。私が世良さんからプロポーズされたことは両親と萌さん以外の人には話していないことだから。
「まあ、おかげでうまくいったけど」
「ん? どういう意味?」
「ううん。こっちのこと」

 不思議な元夫婦。できれば復縁してほしいけど、あのふたりの仲はあれがベストなのだろう。恋愛や仕事のパートナーの垣根を越えて何かを超越したふたりの関係は他人にはわかり得ない。
 そもそも愛の形はさまざま。子供を作らない夫婦の形もひとつだし、籍を入れない事実婚という形も私たちは尊重しないといけない。だから、あのふたりには余計なお世話は必要ないのだ。

 メールチェックと書類の整理だけをして、その日はすぐに仕事を終えた。
「じゃあ、先に帰るね」
「お疲れー。帰り、気をつけろよ」
「うん、ありがとう」
 事務所を出ると曇りの夜空が広がっていた。昼間はあんなに晴れていたのにな。夏のお天気は気まぐれだ。
「残念。今夜は月も雲に隠れてよく見えないや」
 数十年前までは東京でも肉眼で天の川が見えたそうだ。今は大気汚染や光害のために見えないけど、あの空には今日も星が輝いている。
 シンガポールまでは遠いけど、同じ空の下だと思えば少しだけ寂しさは薄れてくれた。だけど、その寂しさは孤独とは違う。今までの寂しさとは違うその寂しさは、ふたりの愛を上手に育んでくれるかな?

『帰国したら僕の部屋で一緒に暮らそうよ』
『はい』
『新しいベッドを買ってもいい?』
『ええ』
 空港での言葉を思い出しながら、私は毎日、あなたのことを想うでしょう。お仕事は大変じゃないかな。ごはんは何を食べたのかな。ちゃんと寝ているかな。たまには私のことを思い出してくれているかな。
 そして最後に空に祈りを捧げる。お仕事が成功しますように。無事に帰国できますように、と。
『行ってくるね』
『行ってらっしゃい』
 星の見えない空の代わりに、私の心の中のあなたの笑顔は、今日も輝いていました。
 ハートがあたたかくなるような笑顔に包まれて、私は明日も頑張れそうです。


 
 
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