第11章 結婚の現実(028)

 それから数日後のこと。世良さんに誘われて、あのダイニングレストランに来ていた。
「世良さんが設計したお店で食事をするのは初めてです。すごく素敵なお店ですね」
 明るい色の木のテーブルは分厚くてどっしりとした安定感がある。ブラックのひとり掛け用のソファは贅沢感があって、窓際の席のシャビーシックでクラシカルな半透明のガラス製ペンダントライトが大人っぽい演出をしていた。
 あわせて、フローリングの床とお店の中央にある木製のルーバー天井がやわらかさを加えていた。そのやわらかさは、お腹を空かせて通りを歩く人達が大きな窓からお店の中を覗いたときに、ふらっと入ってみようかなという気持ちにさせてくれるような気がする。
「食事はリーズナブルな値段なんだよ」
「女の子同士でも入りやすそうでいいですね」
 さすが世良さん。ファッションビルも多いこの街には、たくさんの女性が集まってくる。デートも多いだろうけど、OLさんや女の子の学生さんにも人気がでそう。
 そんなふうにお店の雰囲気を楽しんでいると、世良さんの同期だった平尾さんが前菜を持ってテーブルに来て下さった。
「平尾さん! 今日はお料理を楽しみにしてきました」
「まかせろよ。今日はささやかだけど俺からの結婚祝い。たくさん食べていきなよ」
「ありがとうございます。遠慮なく頂いていきます」
 お料理はイタリアンのディナーコース。私たちのために、お店にはない特別メニューを考えて下さったそうだ。
「式は挙げるんだろう? 日取りは決まった?」
「それは……」
 平尾さんに聞かれたけど、答えられない。両家への挨拶はすませたけど、世良さんのお仕事が忙しくて、具体的なことはまだ何も決めていなかった。
 そもそも、式を挙げる挙げないの話題になったことがないので、私が勝手に返事をするわけにもいかない。せっかくだし、ウエディングドレスは着たいなあと思ってはいるけど。

「もちろん。挙式も披露宴も両方やるよ」
 え? 世良さん?
 だけど世良さんは平尾さんにきっぱりと宣言。
「日取りはまだ決めていないけど。来年の春頃がいいかな、亜矢ちゃん?」
「は、はいっ!」
 ……うれしい。その姿も凛々しくて胸がキュンとなった。
「そういうことだから。披露宴は盛大にやるから平尾も来てくれよ」
 こうやって、みんなに認められていくんだなと、結婚がますます現実味を帯びてくる。
「花嫁より花婿の方が張り切ってるぞ。大久保さん、もっと頑張れよ」
「はい……」
 気合いを入れられて、恥ずかしい。世良さんは派手婚希望なの? 知らなかったよ。
「それにしても、まさか、大久保さんが世良を選ぶとはなあ」
「何がおかしいんだよ?」
 世良さんが不服そうに言う。
「いや、だって、同じ会社にいたときは、お互いに意識をしていなかったんだろう?」
 平尾さんに言われて、自分でもつくづくそう思った。まさか、世良さんと結婚をすることになるとは思ってもみなかった。考えれば考えるほど不思議で、こうやって一緒にいることを奇跡に感じる。
「人生、何があるかわからないものですね」
 世良さんにも同意を求めると、返事の代わりに私を見つめる瞳が細まって、目尻に薄らと笑い皺を作った。ほのぼのとしたふたりのアイコンタクトに、平尾さんが声を出して笑った。

 その後、メインとサラダ、デザートが運ばれてきて、最後にエスプレッソを頂いていたら、平尾さんがもう一度、テーブルに来てくれて奥様とお子さんを紹介してくれた。
 平尾さんの奥様の名前は景子さん。あの、赤い口紅の女性だ。
 こうして改めて見ると、まつ毛が長くて鼻も高くて、整った顔立ちをしている。彼女はしっとり系和風美人で、近くで見れば見るほど美形だ。この人が結婚していてよかったと心から思っていた。じゃないと不安。世良さんが惹かれてしまったら、と毎日考えて眠れなくなりそう。
「平尾の家内です。それから、息子の翔です。翔、ごあいさつしなさい」
「ひらおしょうです。よんさいです!」
 景子さんの脚にピッタリと張り付きながらも、しっかりと自己紹介ができた翔くん。可愛いなあ。男の子だから元気いっぱいで、今も手には恐竜のおもちゃを持っている。
「翔くん、初めまして。大久保亜矢です。翔くんは恐竜が好きなの?」
 目線を合わせるようにして言うと、翔くんがはにかみながら「うん」と頷いてくれた。
「これ、世良課長から翔の誕生日プレゼントで頂いたんです。それ以来、一番のお気に入りなんです」
 景子さんがそう言うと、向かいに座っていた世良さんの顔がパアッと明るくなった。
「翔くん、ほんとう?」
 世良さんが翔くんに尋ねると、翔くんがまたまた「うん」と頷く。世良さんが「そっか、そっか」とニコニコな満面の笑みになった。
「前にエントランスでお会いした日。あの日に頂いたんです」
「あ! そうだったんですか」
 あの日に……思い出すだけで恥ずかしい。景子さんには私がどんなふうに映っていたのだろう。どう思われていたのだろう。
「あの日、急に主人がお酒を飲もうと言い出して、それで私が買い出しに行ったんです。その帰りに亜矢さんにバッタリ……あのときは挨拶もできなくてごめんなさい」
 景子さんがそう言ったとき、平尾さんがびっくりして話に割り込んできた。
「なんだよ? 大久保さんに前に会ったことがあるのか?」
「ええ、そうなのよ。ほら、三人で世良課長の家に遊びに行った日よ」
「ああ! あの日、確かにインターホンが鳴ってた。……じゃあ、もしかして俺たちのせいで?」
「そうみたい。私たちのせいで追い返す形になってしまったみたいなの」

 あの日の話は空港で世良さんから聞いていたので、私にとっては過ぎたことなのだけど……
 きっと、景子さんは必死に誤解を解こうとしているのだ。世良さんとふたりきりではなかったと、私に伝えようとしている。
 世良さんは、私たちの事情を平尾さん夫妻には何も話していないけど、景子さんは勘付いていたに違いない。私が彼女に向けた敵意に満ちた目を知っているから。
「いいえ! 邪魔なんてとんでもないです」
「でも悪かったなあ。あの日、世良の家にお礼に行ったんだよ。オープン祝いだと言って、会社の飲み会でうちの店を使ってくれた上に、個人的にもお祝いをもらっていたから」
 平尾さんが申し訳なさそうに顔を歪める。
「世良も悪かったな」
「別にそれくらいのこと。気にすることでもないよ」
 世良さんが、なんでもないようにさりげなくフォローしてくれた。
「本当に気にしていませんから。私もいきなりお部屋に遊びに行ってしまったのが悪いんです」
「でも、よかったわ……」
 景子さんと目が合って、小さく頷くような仕草をされた。やっぱり、全部、お見通しだったみたい。世良さんと私の間にごたごたがあったことを。
「……ご結婚が決まったそうで。おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「亜矢さんだったら間違いなく、いい奥さんになりますね」
「そんなこと……ないです」
「ありますよ。だって、こんなに可愛いんですもの。ふふっ。世良課長、きっとメロメロなんでしょうね」
「い、いえ……」
 心からの祝福に照れてしまった。上品な景子さんにドキドキする。平尾さん、よくこんな美人を射止めたなあ。
「世良は誰よりもふらふらして結婚に興味ない顔をしていたくせに。結局、最後には可愛い子を嫁にもらうんだよなあ。なんか不公平だよな」
 平尾さんが、口をとがらせた。
 世良さんは、私と景子さんを前に返事に困っているようだった。当の景子さんは、気まずそうな世良さんを見て、笑いを堪えているように見える。
「平尾さん、それは逆です。女子社員憧れの的の世良さんが私を選んでくれたことの方が奇跡なんですよ」
「またまたあ。大久保さん、謙遜しなくていいんだよ」
「謙遜なんてしていませんから。本当にそう思っているんです」
「なんだよ。結局、のろけかよ」
 平尾さんが頭を掻きながらぼやくと、とうとう景子さんが噴き出した。
「悪かったわね。可愛くない妻で」
 一気に笑いに包まれるテーブル。そこへ、世良さんの真面目な声が続いた。
「平尾だって自分の人生を着々と歩んでいるじゃないか。奥さんと子供と念願の店。男が憧れる生き方だよ」
 世良さんの言葉に私も大きく頷いた。
 今のところ、お客様の入りは順調のようだ。この状態を一年、二年と着実に持続させることの方が難しいことだけど、サラリーマンだから安泰というわけでもないから。
 少なくともやりたいことを実現させて輝いているのだから、現実は厳しいとしても、うらやましく思える。

 食事を終えてお店を出ると、洗練された街並みが迎えてくれた。
 私はこの石畳の歩道を歩くのが好き。コツンコツンとヒールを鳴らし、淡く照らされた街路樹を眺めながらゆっくりと歩く。
 隣には愛する人。その人と手を繋ぎ、他愛もない話をしながら歩いているだけで、私の心は無敵になる。怖いものなんてない。この人を守るためなら、私の命なんて惜しくない。本気でそう思っている。
 その想いをいつも胸に抱き、今日という日が無事に過ぎることに感謝をし、今日と同じように笑顔溢れる明日が来ることを願う──これが私なりの愛するということ。


 そして、今日も静かに夜が過ぎていく。宇宙からの光の粒子が部屋中に広がる今宵は、月がきれいな夜だった。
 満月の夜の砂漠では、新聞の見出しほどの大きさの文字なら読めるほど、明るいという。満月が三日後の今日も、この部屋の照明は消しているのに、ぼんやりと明るかった。

 彼の手の平が、私の素肌を犯していく。最初の頃はどこか緊張していて、しっくりこなかった部分も、今ではすっかり馴染んでいる。体の相性というけれど、何度も肌を重ね合わせていくうちに、だんだんと合っていくような気がする。
「ここ、いいみたいだね」
 最近は何も言わなくてもピタリと当てられてしまう。腰をゆっくりと動かしながら、彼の表情も変わっていく。理性が徐々に薄れて、欲情に満ちた顔になる。胸のやわらかさを楽しんでいた手が移動して腰を掴むと、荒々しい動きになった。
「どうしたの? 今日はやけにこの中、熱いんだけど」
「……わかんない。激しいから? ……ん、でも、やっぱりわからない」
「激しいのが好きなの?」
「だから……そういうこと、聞くのはマナー違反……」
 さっきまで余裕のなさそうな顔をしていたのに、今は私の反応を楽しんでいる。愛し合っている最中の彼のイジワルに少しだけ慣れてきたけど、やっぱり最後には恥ずかしくなってうまく返せない。
 こういうおしゃべりは、きっと早く終わらせないようにということなのだろう。そう考えると、彼のイジワルは彼の余裕のなさの表れなのかな、とも思う。
「好きだよ、何度言っても足りないくらい」
 真剣な顔が見下ろしている。
「私も。愛してる……」
 普段は軽々しく言えないセリフもベッドの上だと素直に口に出せる。どうしても伝えたくなって“好き”や“愛してる”を何度も声に出した。
 やがて、薄く開いた唇のまま重なり合うと、呼吸も時間も忘れて求め合った。
 奥の熱い塊を感じながらのキスは、この身をとかしてしまいそうなほどに情熱的。思わず枕の上に腕を投げ出したら、彼の手が拘束するように私の手首を掴んできた。突かれるがまま、逃げる場所がなくて奥で受け止めるしかない。
「あっ……」
「いきそうなの?」
 慈しむように語りかけられて「違う」と返して目の前の顔に手を伸ばす。額に滲んだ汗を指で拭って、もう一度と、キスをせがんだ。
 胸の中の想いを伝えるために唇でも繋がっていたい。繋がれる部分は全部繋がっていたい。欲張りだけど思ってしまうの。こんなふうに思うのはあなただけ。
「亜矢……」
 離れた唇が私の名を呼んで、限界を告げる。私がそれに頷くと、彼の動きに合わせて私の汗ばんだ身体が激しく上下に揺れた。
 深く、奥深く。わずかに残っていた理性を捨てて、ふたりで頂点を目指していく。乱れる髪、滲む汗、荒い呼吸、切なげな表情。すべてが愛おしい。
「あっ、すごく……いい……」
 的確な角度とスピードがますます私を淫らにさせる。出たり入ったり、中をすり上げていく快感が声にならない声になり、月明かりの部屋に響いた。
 そのとき、彼の熱い情熱を身体の奥で確かに感じた。私の上に倒れ込む彼の重みが快感の余韻に導いていく。満ち溢れる幸せの中で、今日もまた彼への愛が深まっていった。


 ***


 アナログの時計の秒針が止まることなく動き続けている。刻々と時を刻み、ふたりでいられる時間が少しずつ失われていく。
 幸せのはずなのに、こうして最後には泣きたくなるような気持ちになるのは私だけなのかな?

「二世帯住宅のことなんですけど……」
 仰向けになっている世良さんの胸元に手を乗せて、その鼓動を手の平で感じていた。こうしていると安心できる。ふたりで共有している時間をはっきりと実感できる。
「ご両親はなんて?」
「反対は、されませんでした」
「複雑な気持ちになるのは当然だよ。別に無理しなくてもいいよ。亜矢ちゃんだってひとり娘なんだから」
「いいえ。私は同居してもいいと思っているんです」
「でも……」
「妥協とかそんなんじゃないんです。現実的な問題を考えたら、世良さんのご両親に頼ることも出てくると思うんです。……家族ですから。お互いに助け合っていければいいなと思ったんです」
「ありがとう。亜矢ちゃんのご両親には僕からもお礼を言わせて」
「はい」
 世良さんのお母さんの気持ちも無駄にしたくない。それに、世良さんを育てて下さったご両親だから。大切にしたいし、教わることもたくさんあると思う。
「世良さんが設計したお家に住めるなんて、なんて贅沢なんだろうと思います。期待していますね」
「設計の希望があれば、なんでも言って。どんなことでも叶えてあげるよ」
「どんなことでも? そんなこと言っちゃってもいいんですか?」
「たぶん、僕ならできるよ。亜矢ちゃんの我儘くらい、どうってことないよ」
 少しずつ結婚が形になっていく。そうやって私たちは家族になる。もちろん、いつまでも男と女であり続けたいと思ってはいるけど、こればかりは結婚してみないとわからない。
 だけどあなたとなら、後悔のない人生を歩んでいける。そのことを確信できるのは、海よりも深いあなたの強いやさしさを知っているから。
 大切に守られながら、私もあなたを守りたい。灯が消える最期の日まで──


 
 
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