ある日の午後、社内で設計課の人間とミーティングをしていたときのことだった。僕のスマホに着信があった。ミーティング中のときは、いつもは電話には出ないが、今日はそういうわけにいかなかった。 「ごめん、妻からなんだ」 「もしかして……」 西倉の言葉に、僕は「かもな」と言って電話に出た。 *** 亜矢から『陣痛がきたの』という連絡を受けて、急いで会社を早退した。だけど病院には直行せずに、先に保育園に息子を迎えに行った。 息子が産まれたときは、亜矢の両親が住む神戸の病院での出産だったために立ち会うことはできなかった。たが、二人目の出産は東京の病院なので、僕も立ち会う予定でいた。 それなのに…… 「遅いぞ、文哉!」 「そうよ。赤ちゃん、もう産まれちゃったわよ」 同居している僕の両親が病院の玄関先で待っていて、着く早々に言われてしまった。 「ええっ!? だって、電話をもらってから、まだ二時間くらいしかたっていないよ」 息子のときは、出産まで十時間近くかかった。そのため、二度目の出産ということを考慮して五時間くらいかなと、根拠のない予測をしていた僕が馬鹿だった。 「スーパー安産だったのよ。やっぱり、直前までお仕事をしていたからなのかしら?」 母さんが僕に尋ねる。 「そんなの、僕が知るわけないだろう」 亜矢は二人目の余裕なのか、つい一週間前まで働いていた。心配する僕に向かって『へーき、へーき』と笑っていた亜矢は強くなったなと思う。 お産が軽かったせいか、亜矢はすでに病室に戻っていると母さんに言われて、息子を連れて亜矢に会いに行くと、ちょうど授乳中だった。 「ごめんなさい。文哉さんが来る前に産まれちゃった」 出産直後で身体が辛いはずの亜矢がおどけて言う。 「まだ大丈夫かなと思って、のんびり病院に行く準備をしていたの。だけど病院に着いた途端にすぐ……。もちろん、大変だったけど、蒼士(そうし)のときよりはずっと楽なお産だった」 「無事に産まれてくれれば、それでいいんだよ。よく頑張ったね。ありがとう」 赤ん坊の顔を覗くと、亜矢に似た可愛い女の子。まるで天使だ。 「蒼士、妹が生まれたんだよ。今日からおまえはお兄ちゃんだ」 まだ三歳の蒼士だったが、妹ができることを楽しみにしていた。 「うん! ぼく、おにいちゃん!」 「そうだぞ。お兄ちゃんだ。女の子だから、やさしくしなきゃダメだぞ」 「ぼく、いっぱい、いい子、いい子してあげるんだ!」 「そうか。いい子、いい子、してくれるのか。偉いぞ、蒼士」 蒼士は赤ん坊を見て、きゃっきゃ、きゃっきゃと興奮している。その様子を、赤ん坊を抱いた亜矢が目を細めて微笑んでいた。 病室の窓を見ると西の空が茜色に染まっていた。もうすぐ完全に日が落ちる。 「きれいね」 いつの間にか亜矢も窓の方に目を向けていた。 「蒼士が生まれた次の日は、ブルーモーメントがきれいだったよな」 「ええ」 蒼士という名前は僕が名付けた。病室から見た空があまりにも美しくて、そのときの空の色にちなんで蒼士。『蒼』は、大海原という意味を持つ蒼海(そうかい)という言葉にもあるように青を表している。 「この子の名前はどうしようか。いくつか候補があったけど、決めた?」 「優花(ゆうか)がいいなあ。やさしくて女の子らしい子に育ってほしいから。どうかな?」 「優花……うん、すごくいいと思うよ」 僕はさっそく優花に語りかける。 「生まれてきてくれてありがとう。やっと会えたね、優花」 見ると優花はすやすやと眠っていた。さっきまでおっぱいを飲んでいたのに、いきなり、これだよ。最初が肝心なのになあ。 「この先、文哉さんはこの子に振り回されそうだね」 「今から先が思いやられるね。でも、優花のためなら構わないよ。どんなことがあっても、僕は優花の味方だ」 「さっそく親馬鹿なんだから」 「蒼士のときも、同じこと言われたよ」 とにかく可愛くて、首も座っていないのに靴を買ってきてしまったし、休みの日は一日中、カメラを手放せなかった。 「そうだったね。まあ、予想通りだったけど」 子供は、どうしてこんなに可愛いのだろう。最初は何もかも初めてで、ふたりとも不安でいっぱいだった。けれどある日、『悩んだときは子供の寝顔を見ればいいんだよ』と笑っていた亜矢を見て、僕も何かが吹っ切れたんだ。 蒼士を身ごもる前はあんなに泣き虫だったのにな。亜矢が変わりはじめたのはきっとあの日から── 結婚して初めて迎えた亜矢の誕生日。お祝いにブルーモーメントが望めるレストランを予約して、僕が昔プレゼントしたネイビーのワンピースを着た亜矢を連れて行ったら、突然のどしゃぶり。 楽しみにしていた亜矢に申し訳なくて、どう励まそうかと思っていたら、そんな僕に突然、亜矢が満面の笑みで言った。『赤ちゃんができたの』と。亜矢の誕生日なのに、逆に僕がとびっきりのプレゼントをもらったんだよな。 「僕は父親としてあまり変われないのに、亜矢はたくましくなったよ」 「母親になるって、そういうことだよ」 これが二人目の貫録なのか。我が妻ながら、尊敬するよ。 それから、お腹が空いたという蒼士を両親に預け、僕だけが病院に残った。そのあたりは両親も気を使ってくれたのだと思う。 優花も今日だけは新生児室で預かってもらい、束の間の夫婦だけの時間を過ごさせてもらった。少しの間、横になっていた亜矢だが、身体を起こそうとしていたので支えてあげた。 「蒼士、大丈夫かなあ。お母さんたちには、あとでお礼を言っておいてね」 「ああ。でも亜矢はそんなことは気にしないで、今日はゆっくり休んで」 「ありがとう。いつも、みんなには感謝しているけど、こういうときに特に強く思う」 「みんなも亜矢に感謝しているよ。父さんも母さんも。僕だって、いつも思ってる。仕事をしながら、家事と子育てまでしているんだ。亜矢はすごいよ」 「それはお父さんやお母さん、それから文哉さんが協力してくれるからできるの。私ひとりでは子育てはできないよ。恵まれた環境だと思ってる」 亜矢は謙虚に言うけど、ぜんぜんそんなことないよ。僕はいつも、亜矢は強いなと感心している。泣き虫だった亜矢は、妻となり、母となり、ますますきれいになった。そんな亜矢をお嫁さんにできた僕は、世界一の幸せ者だと思っている。 *** プロポーズをした翌年。君との結婚式の日は、うららかな春の日だった。その日も君は美しく輝いていた。 純白のウエディングドレスを着てバージンロードを歩いてきた君に微笑みかけられて、僕がどんなに困ったか、君は知らないだろう? 抑え切らなくなった僕は長い長い誓いのキスをしてしまい、唇を離した瞬間に君に軽く睨まれてしまったくらいだ。 でも、仕方ないだろう。あまりにも君が可愛いいから。 可愛いといえば、セクシーランジェリー事件! スケスケの下着を僕が見つけてしまったときの君の慌てようも最高に可愛らしかった。一生懸命に言い訳をしていたけど、それって、本当だったのかな? 今でも僕は君を疑っているよ。君は僕のために、あんなスケスケの下着を選んでくれたんだよね? だとしたら、僕は最高にうれしいんだけどな。 それからね、僕は君に黙っていることがあるんだ。このことを言おうか言うまいか、今も迷っているんだけど…… 僕が君と再会できた理由──君は偶然だと思っているけど、実はそうじゃないんだよ。 君が退職する日。出先から戻った僕は、一階のロビーで花束を手に帰宅する君とすれ違った。君は『お疲れ様です』と笑顔で言ってくれた。 社内の噂を知っていたから、君がどんな思いで会社を辞めたのだろうと考え、最後の日のあの笑顔が目に焼き付いて離れなかった。『お疲れ様』と言って君を見送ったが、気の利いた言葉をかけてやれなかった自分が悔しかった。 君が会社を去ってから、すごく寂しかったんだよ。そして僕は気づいたんだ。僕は知らず知らずのうちに君の笑顔の虜になっていたことを。受付に座っている君の笑顔に、いつも癒されていたんだ。 そんなある日、高嶋建設でクリスマスイルミネーションの仕事を請け負った。真っ先に春山デザインが思いついた。君の転職先を西倉から聞いていたからね。 本当は電気工事会社に丸投げしてもよかったんだけど、どうしても君の転職先の春山デザインと仕事がしたかった。春山デザインのことを調査していくうちに、春山社長に惹かれたというのもあったんだ。 結果、僕の判断は正しかった。僕の会社にとってもプラスになったし、何より君を手に入れることができたんだ。そのことを、いまだに黙っていることは謝るよ。でも、そんな嘘もときにはいいよね。 『あれ?』 『お久しぶりです。世良課長が担当されることになったんですね』 『うん。うちは大掛かりなライティングの事例がほとんどないものだから。まずは僕が手探りでやることになったんだ。それより、大久保さん、ここで働いていたんだね』 『はい。親戚の人の紹介で入社しました』 『そうだったんだ。また会えてうれしいよ』 今思うと、なんて白々しいんだろうと思う。ねえ、亜矢? あのときの僕のセリフは棒読みじゃなかったかい? 君と再会してから、僕はますます君を好きになっていった。すぐに結婚を意識して、告白のタイミングを狙っていた。結局は堪えられなくて、いきなりプロポーズしちゃったけど。 そして、いくつかの誤解をへて、ようやく気持ちが通じ合った。空港に来てくれた君の勇気がなかったら、今頃、どうなっていただろう。今でもぞっとするよ。 だけど君は、僕のプロポーズを受けてくれたあとも、過去の恋愛を引きずって、自分が愛されるべき人間なのかを心配していたね。 『文哉さん、本当に私でいいの?』 お互いの両親への挨拶をすませ、式場や日取りを決めながら、君は不安そうな顔をしていた。健気で謙虚な子だと思ったけど、そんなふうに思う君に、僕はほんの少しだけイライラしていた。 ──だってそうだろう? 『亜矢から去って行った、たった二人の人間によって、亜矢の価値が決まってしまうのかい?』 『そうは思いたくないけど……』 『多くの人間が恋人との別れを経験しているんだよ。亜矢だけじゃない。僕だってそうだ』 『文哉さん……』 『もちろん、初めて好きになった人と結ばれるのが理想なんだろうけど。でも、僕たちは過去にいくつかの別れを経験してきたからこそ、こうしていられるんだ』 『私……文哉さんを失いたくなくて……』 『亜矢の気持ちはわかってる。僕もだよ。僕も、同じ気持ち。自分が亜矢にとってふさわしいのかって考える。でも、それは亜矢が僕から離れてしまうことが怖いからだよ』 『私、ずっと、そばにいたいです。文哉さんのいない人生なんて考えられない……』 今も亜矢を愛している人間はたくさんいるよ。亜矢の両親、僕の両親、大久保さん、春山社長。他にも、会社の人達や友人達……。僕と蒼士だっているんだ。あっ、優花もだね。 だいたい、愛されることに資格なんていらない。臆病になる必要なんてない。君が周りのみんなに惜しみなく愛を注いでいるように、愛は見返りを求めない無償のものなのだから。 *** 「明日から、大変な毎日がはじまるね」 「育児は僕も協力するから」 「ありがとう。ぜひお願いね。でも蒼士が赤ちゃん返りをしないか心配」 「蒼士は甘えん坊だからなあ。お兄ちゃんの自覚はあるみたいだけど、亜矢と優花が退院したら、やきもちを妬くだろうな」 「文哉さんも、やきもち妬くものね」 「え? 僕?」 「蒼士が生まれたとき、私が慣れない育児で余裕がなかった時期にちょっとだけ、ムスッとされたことがあったよ」 「そうだっけ?」 「夜、ベッドでそういう雰囲気になったときに蒼士が泣き出しちゃって……」 「だってそういうの、何度もあっただろう。僕も一応、ギリギリまで我慢していたんだよ」 そう言いながら、情けない自分に苦笑い。やっぱり、男はダメだね。いつまでも子供だ。 「今度は気をつける」 「本当?」 「本当だよ。でも今日だけは許してよ」 「え?」 呆気に取られている亜矢に、僕はチュッとキスをした。 物足りないけど今日は我慢…… 「ごめん、もう一回いい?」 だけど、やっぱり我慢できなくて、おねだり。 「うん」 亜矢が許してくれたので、何度も唇を重ねた。『もう一回』なんて言いながら、何度もキスをした。「止まらなくなりそうだよ」と呟いたら、頭をペシッと叩かれたけど、それでも亜矢は拒むことなく受け入れてくれた。 「愛してる」 だから、お願いだよ、僕より先に死なないで。亜矢に先立たれた僕はまるで自信がないんだ。ごはんを食べることもできなくなって、弱り果ててしまうんじゃないかと思うんだ。 永遠じゃないから今が輝ける。それはわかっているんだけど、最期を思うとやっぱり悲しいね。その分、一緒に過ごす時間を大切にしよう。亜矢に僕より長生きをしてもらって、毎日、亜矢の笑顔を見ながら過ごすことができれば、きっと僕の人生は満足して終えることができると思う。 「私も、愛してる」 亜矢の薬指の指輪に触れながら、僕はあの日の夜の感動を思い出していた。結婚指輪の上に重ねづけられているダイヤモンドの婚約指輪。 婚約指輪がこの薬指におさまった日のことは、今でもよく覚えている。それは僕たちが初めて結ばれた日だから。 「僕と結婚してくれてありがとう」 君と出会えてよかった。 そして君に心からの感謝を。 −完結−