5.動き出す恋のベクトル(030)

 
「行くぞ」
 最初に口を開いたのは桐生だった。抑揚のない低い声がしたかと思うと奈々に近づき、彼女の手首を掴む。
「でも!」
「時間がもったいないだろ。早く歩け」
 桐生は唖然としている弥生と直人に構うことなく、奈々を引きずるように連れ去った。
 いったい何を考えているのだろう。奈々は、握られた手首の圧迫感に不安を覚えていた。

 マンションの部屋の前に着くと、奈々は黙ってバッグから鍵を取り出しドアにさした。カチャっという音が静寂の中に響く。それから、ドアを開けて後ろに立っている桐生をおどおどと見上げる奈々の背中を桐生は黙って押して、部屋へといざなったのだった。
 真っ暗な部屋なのに電気を点けることも忘れ、奈々はフローリングの床へ崩れるように座り込む。
 カチッというライターの音がした。見ると、隣に腰を下ろした桐生が煙草をくわえていて、じわっとその先端が赤く浮かび上がった。
「誰だよ?」
 ぽつりと桐生が言う。
「友達です」
「それは分かってるよ。あの男は“この間”の男とは違うよな?」
 疑いの目で見つめられる。奈々は動揺しながら“この間”のことを思い出していた。“この間”というのは奈々の誕生日のことを言っている。つまり達哉のことだ。
「さっきの人は友達の彼氏だった人なんです。いろいろあってふたりの仲がこじれて、結果、私が友達を傷つけてしまって。でも誤解しないで下さい。あの男の子とはなんでもないですから」
「なんでもないねえ……」
 だいたいの察しがついた桐生。しかし、思わず本音がぽろり。自分の女にちょっかいを出されたのだから、おもしろくない。
「本当なんです!」
 桐生の意地悪な発言に焦る奈々。
「でも、あの友達はそうは思っていないみたいだな」
 そう言うと桐生は再び煙草をくわえ、無表情で口から煙を吐き出した。その様子がなんだか自分に興味がないように感じた奈々は、見捨てられたくない一心で必死に弁解した。
「あの人とは本当になんでもないんです。今日だって友達のことで話があると言われて駅で待ち合わせしただけなんです」
「なら、これ以上、あのふたりに関わるな。あいつらの問題として放っておけよ」
「でも、私のせいなのに」
「ああいうのは当人同士で解決すべき問題なんだよ。巻き込まれたんだろう? 別にお前が悪いんじゃないんだ。責任を感じてもしょうがないだろう」
 桐生のやさしい説得に、奈々はようやく意味を理解した。
「もしかして、不機嫌な態度はわざと?」
「ばーか。最初から疑ってねえよ」
「……ひどい」
 小さく笑う桐生の顔を見て、ほっとして涙が滲んできた。てっきり、嫌われたと思っていた。信じてもらえなくて、冷たくあしらわれて、彼はこの部屋を出て行ってしまうんだと、奈々の頭の中ではそんなシナリオができ上がっていたのだ。
「泣くところじゃないだろう?」
「だってぇ……」
 信じてもらえたことがうれしくて、感動していた。笠間との仲を怪しんでばかりの自分が情けなく思えてしまう。
 しかし、笠間の直接の言葉は嘘とも言い切れず。いや、むしろ、あれが事実なのだろう。桐生の気持ちはそこにないとしても、ふたりは仕事の関係を超えて会っているということがどうしても引っ掛かる。
 心をつなぎとめておけるだろうか。今の自分に自信が持てない。桐生だけは、どんなことをしても誰にも渡したくないと思うのに、遠くに行ってしまうような不安がずっとつきまとっていた。

 奈々の涙がおさまった頃。桐生がポケットから携帯灰皿を取り出し、吸っていた煙草を押しつけた。
「ごめんなさい。灰皿、持ってきます」
 どうして気づかなかったのだろうとキッチンに灰皿を取りに行こうと立ち上がった奈々。だが、左手を引っ張られ、その場に座らされた。
「必要ない」
 そんなことはどうでもいい。桐生だって蓋を開ければ普通の男。余裕の態度を見せていても内心はそれどころではないのが本当のところ。直人とは無関係だと主張する奈々の言葉を信じていても、嫉妬心というものが心の奥の方でくすぶってしまうのだ。
「でも……」
「いいから。もう黙れ」
 低い声で囁きながら、桐生が奈々に覆いかぶさった。
 座ったままベッドサイドに奈々の背中を押しつけ、後頭部をささえながら唇を奪う。言葉では解決できないもやもやを、こうすることでしか発散できなかった桐生は、自分の欲望のままに奈々を求めた。
「んっ……」
 しかし、桐生のキスは、激しさの中にも丁寧さとやさしさがあった。何度も離れては重なる唇。桐生の整った顔が奈々に近づき、キスの合間にお互いの瞳を見つめ合う。二重の奥の瞳が奈々に強く突き刺さり、長いまつ毛が男の人なのに色気があって綺麗だと思いながら、ますます深くなっていくキスに奈々は静かに目を伏せた。
 視界が遮られると、それ以外の感覚が研ぎ澄まされる。桐生の右手が服の上から身体を伝い、お腹のあたりから徐々に上の方に移動していくのを敏感に感じてしまう。そのうちに、その手が胸のあたりで何度も往復するように上下しはじめて、暗い静かな部屋の中には奈々の口から漏れる声が広がっていった。
「……んっ……ぁ、」
 いつの間にかトップスの裾から侵入してきたしなやかに動く指がブラジャーの上から胸の形をなぞる。くすぐったさに落ち着かなくなって軽く身をよじると、手の平に力が入り、胸全体を包み込んで、そっと揉み上げた。
 ふたりの感情が同じように昂っていく。もうキスだけではおさまらない。好きや愛しているの言葉を熱に変えて、触れている部分の肌を通して伝え合わせていく。
 やがて、だんだんと下りてきた手の平が、今度は奈々の太ももをまさぐりだした。その動きに合わせてスカートが捲れ上がり、スースーとして急に心もとなくなった足元に奈々は不安を覚えて、スカートに手を伸ばした。すると、さっきまで濃厚に絡み合っていた唇がふいに解放された。
「抵抗しても無駄だ」
「別にそういう意味じゃ……」
 奈々が小さく言い訳する。その様子を見た桐生は奈々を抱え上げ、ベッドの上に運び下ろすと、そっと囁いた。
「なら、いいんだな?」
 暗い部屋の中で見下ろす桐生。そんな彼を窓の外から差し込む光が淡く映し出している。
「あの?」
「何?」
「本当に?」
「嫌なら止めるけど? そうして欲しいなら、今のうちにそう言えよ」
「だって、急にこんなこと……」
 心の準備が全くない状態で、本当にこのままいいのかなと思ってしまう。
「俺にとっては急じゃないから。ぜんぜん」
 前に二度ほど予告のようなものは言われていた。もちろん今の奈々の身体はキスの煽りを受けて反応している。抱かれたいとも思っている。だけど、いざとなると躊躇してしまう。
「嫌なわけじゃないんです。ただ、不安で……」
「何が不安?」
 奈々が初めてじゃないことは桐生も分かっている。だから痛みに対する不安というより、お互いを見せ合うことに対してなのだろうと推測はついていた。
「俺にも見せろよ、その身体。前の男には見せられて俺は駄目なのかよ?」
「好きだから嫌われたくないんです。幻滅されるんじゃないかって怖くなる」
 奈々の瞳が潤んで揺れる。自信が持てない。身体もそうだし、注がれる愛情の深さも。桐生の過去の人と比べてしまう。
「好きだから抱きたい。俺はただそれだけ。お前だからなんだよ。ほかの女にはこんなこと、思わないから」
 しかし、桐生のぶっきらぼうな言葉の中にシンプルな気持ちを見出して、奈々は自分のこだわりがくだらないことなのだと思えたのだった。

 息を飲んで頷いた奈々の首筋に桐生の舌がねっとりと這う。巧みな動きを繰り返し、すぐに狙いをさだめたように髪をかきわけて、耳に近い部分を吸い上げた。
「あっ……あぁ……」
 その強烈な動きと鼓膜に響いてくる卑猥な音に反応して、奈々は思わず悶えた声をもらした。
 桐生はその声を聞きながら、再びトップスの中に手を侵入させて、あっという間にやわらかなふくらみを捕えると、ブラジャーのカップの隙間からマシュマロのような肌を犯していった。首筋に走るねっとりとした質感と胸元を侵略してくる強引な動きに攻められて、奈々の細い腰が浮き上がった。 
「いい反応だな。そんなにいいのかよ?」
「くすぐったいような、変な感覚がするの」
「今の顔、すげーいいよ。もっと見せろよ」
「……やだ。イジワル」
 桐生は恥ずかしそうな奈々に満足して小さく微笑むと、奈々のトップスを脱がしにかかった。服をベッドの下に投げ捨てると、すぐに待ち焦がれたように胸のふくらみに唇を寄せ、形を変えるほどに強く吸いついた。
 途中、もどかしくなってブラジャーを一気に引き剥がすと中心部分は当然のことながら固く主張していて、舌で弾くように愛撫した。白いやわらかな肌、陶酔した潤う瞳、半開きしたピンク色のぷっくりとした唇、漂ってくる甘い香り。どれをとっても桐生の欲望を刺激し、昂らせる要素を十分に持っている。
 桐生は夢中になって奈々を抱き、奈々も指を絡められながらの長いキスを受けて、愛されていると実感し、これ以上のない至福の中にいた。太腿のつけ根に伝う指が下着越しに触れる。奈々は、瞳をぎゅっと固く閉じて恥ずかしさの中を葛藤するが、すぐにそれはぞくぞくとした官能的な感情に変わる。
 丁寧に触れられて焦らされて、でもちゃんと快感をくれる。気持ちいいところを探り当てられて弄ばれた。

「……んっ」
「もっと脚の力、抜けよ」
 桐生はそう言うと指先にぐっと力を入れて脚を開かせた。
「んっ、やっ」
「ちゃんと濡らさないとあとで痛いだろ」
 それを聞いて少しだけ抵抗を弱めた奈々。桐生はその隙にスカートと下着を脱がせ、直接、指でやさしく愛撫した。慣れた手つきでそれは施され、奈々は戸惑いつつも悶えてしまう。
「はぁ、はぁ……んっ」
 それは、あまり経験したことがない感触。指を入れられ、ぐるんとかき回されて、とろりと蜜がこぼれる。たちまち昇りつめていく。さらに、心臓の鼓動は落ち着きがなくなるばかり。激しさを増していった。
 あ、もう……
 求めるのはただひとつ。
 その想いが自然と奈々を大胆にする。手を伸ばして自分の太腿にさっきから当たっていた桐生自身に触れてしまっていた。
「なに? 我慢できないのかよ?」
 桐生はわざと意地悪く言う。
「お願い……」
 恥ずかしさよりも勝る欲望に自分で驚きながらも、口にせずにいられない。
「……待てないの」
 奈々は自分から求める言葉を言うのは初めてだった。それを聞いた桐生も一瞬息が止まるが、すぐに平常心を取り戻す。
「たまに大胆になるよな。男としてはうれしいんだろうけど、個人的には怖いな」
「怖い?」
「そう」
「どういう意味ですか?」
 奈々は意味が理解できずに、桐生に尋ねる。
「素質があるってこと」
「なんの素質ですか?」
「女である素質だよ」
「え。女って……?」
 奈々はますます分からなくなるばかり。ぽかんとして見上げていた。
「途中なんだから、いちいち聞くなよ。分からないなら、分からないままでいいんだよ」
 このままだと延々とその話になりそうだと思い、桐生は強引に行為を再開した。
            




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