5.動き出す恋のベクトル(029)

 
 駅前のカフェで弥生と会う約束をした。
「ごめんね。待たせて」
 先に来ていた奈々の前に弥生が座る。
 奈々の目の前には、コーヒーフレッシュとガムシロップでカフェオレ色に染まったグラス。オーダーを取りに来たウェイトレスに、弥生も同じアイスコーヒーを注文した。
 注文したアイスコーヒーが運ばれてくると、彼女はそれに口をつけた。
 細身のジーンズにシフォンのブラウスをまとった彼女の胸元には、品のいいネックレス。そこから伸びた腕には同じブランドのブレスレット。アイスコーヒーのグラスを持つたびに、そのブレスレットがキラキラと光った。
 弥生は実年齢より大人びている。見た目はどっしりと構えている感じなのに、内面はそれとは正反対で繊細で臆病。これだけのギャップは彼女のチャームポイントのひとつだと思う。とても女の子らしい。奈々にとって、弥生はそれくらい魅力的に映る女性なのだ。
「それでね、急に呼び出したのは直人のことなの」
 やはりそうだった。しかし、それと同時に何を言われるのか怖くて堪らなくなる。
「直人は女癖が悪いの。この間、奈々を無理やり誘ってバーベキューに行ったのも直人を監視するためでもあったの」
「……そう、だったんだ」
「でも、私の予感は当たっていた。おとといの夜ね、別れようって言われた」
 奈々は息が止まるほど動揺する。
「う、そ……でしょ?」
 直人が弥生に対して何かしらのアクションを起こすことは予想していたが、まさかこんなにも早く、別れ話を切り出すとは思ってもみなかった。
「直人にその理由を問いただしたら、好きな人がいるって言うの。しかも、この間のバーベキューに来ていた人だって」
 奈々の胸に走る痛みが放射線状に広がっていき、裏切りという言葉が頭の中で増殖していく。かつて自分が味わった悲しさが呼び起こされた。
 奈々は、どう言い訳しても彼女を傷つけることは避けられないのだと知り、落ち込んだ。結局、友達を裏切っているのだろうか。
「奈々、何か知っている?」
 泣きそうな声に答えてあげられない。
「あのとき、直人と何か話していたよね? 携帯の……」
「え?」
「ふたりがこそこそと連絡先を交換していたのを見たんだから!」
「弥生……」
 弥生はすべてを知っている。だからここに呼び出したのだ。
「ねぇ? 奈々?」
 小さくなっていく弥生の声に、どうしても彼女を傷つけるわけにはいかないと思った奈々は口を開いた。
「確かに連絡先は交換したけど、一度も連絡は取り合っていないよ。直人くんからも連絡はないし、もちろん、これからも連絡を取り合うことはしない。それに私ね、今、つき合っている人がいるから」
 核心を隠して、それでもありのままのことだったので、すらすらと言えた。
 弥生は奈々に恋人ができたという発言によほど気が抜けたのか、瞳をパチパチとさせて、茫然としていた。
「彼がいるの? いつから?」
「最近なの。バイト先の人なんだ。今はその人のことで頭がいっぱいだもん」
 これでいい。直人が自分に告白してきたことをわざわざ言う必要はない。すべてをさらけ出すことが必ずしも正しいとは限らない。
 だけど、彼女を裏切っているの?
 奈々は再び自問自答する。でも、すぐにそんなことはないと必死で自分を正当化した。


 ◇◆◇


 最悪の週末となりそうな予感──

 奈々が久しぶりにアルバイト先に行くと笠間の姿が目に入った。白く細く、可憐な花のような人。奈々の目に映る彼女はそんなイメージだ。
 しかし、桐生とはどんな関係なのだろうかと今はただそれだけ。仕事を通して笠間を見ることはできない。
「佐藤さん、ちょっといい?」
 休憩時間になり、奈々はなぜか笠間に呼ばれ一緒に休憩室へ向かった。笠間と一緒に休憩をとることは初めてだった。
 ドリンクを前に笠間は煙草を取り出す。
「吸ってもいいかしら?」
 そう言うわりには奈々が返事をする前にライターで火をつけ、吸いはじめる。イメージと違う。笠間が煙草を吸うことを奈々は意外だなと思った。
「遠距離の彼氏とはどうなっているの?」
 ずけずけとプライバシーに踏み込む質問だと思ったが、奈々は淡々と答えた。
「もう、別れました。笠間店長が言った通りでした。お互いの生活があって、離れていると次第に自分を優先してしまう……要するにすれ違いですね」
「そうなの。彼と別れてしまったのね」
 奈々の潔さに笠間は、ふふっと笑みを浮かべた。それから煙草を灰皿に押し付け、空気を変えると、ストレートな質問を投げかけてきた。
「そういうことなら、ずばり聞くわ。桐生マネージャーとはどこまでの関係?」
「そのことが、笠間店長にどんな関係があるんですか?」
 挑戦的な態度に奈々も負けじと反発する。
「知りたいと思ったから聞いたのよ」
「私がここで働く上で問題があるんですか?」
「ないわ。別に恋愛禁止という規定はないもの」
「なら……」
「それはつまり、認めるということ?」
「別にそういう意味では……」
 本当のことを言ってもいいのか分からず言葉を濁した。
「あの人の態度が最近変わったなあと思ったのよ。あなたのせいなのかな?」
「変わったと言われても……」
 奈々にはそうは思えない。
「正確にはあなたを見る目が、ほかの子を見る目と違うってこと」
「気のせいですよ」
「そうかしら? 顔合わせの飲み会の帰りにあなたを駅まで送っていくこと自体、ありえないと思ったわ。彼はそんなことをするタイプじゃなかったもの」
 そう言い終えた笠間は新しい煙草を手に取った。ライターで火をつけると、今度はさっきとは打って変わって神妙な顔つきで話を続ける。
「昔のことだけど。学と私はつき合っていたの」
「学? 桐生マネージャーのことですか?」
「彼の名前を知らなかったの?」
「……はい。初めて聞きました」
 笠間はそのことを知って、勝ち誇った顔をした。それを見た奈々は、笠間が自分を呼び出した理由、そして桐生の下の名前を呼び捨てにした思惑を感じ取った。
「おふたりが以前、つき合っていたことなら知っています。でも、だからなんなんですか? 笠間店長はご結婚されていて、桐生マネージャーとは関係ないじゃないですか」
 煙草を持つ左手薬指には真新しいマリッジリング。笠間は手にしていた煙草をしまい、自分のマリッジリングを右手で撫でながら答えた。
「旦那とは、実はうまくいってないの。結婚が決まった直後からなんとなくぎくしゃくしはじめたわ。たぶん、旦那が私の気持ちに気づいたからだと思う」
「今も桐生マネージャーを好きだということですか?」
 奈々は苛立ちながら尋ねた。
 結婚して間もない人間の言うセリフではない。今さら彼を好きだなんて。旦那さんの立場はどうなるのだろうか。
「好きかどうかは想像にまかせるわ。一応、まだ結婚している立場だしね。ただ彼にはプライベートを含めていろいろ相談に乗ってもらっているの。もちろん仕事がメインよ。売上を伸ばせないことは店長としてだけでなく、お店の存続にも関係してくることだから」
「それでこの間、一緒にいたんですか?」
「もしかして見られていた?」
「はい。工藤くんがついこの間、見かけたそうです。私も別な日に見かけました」
「そう。工藤くんが。でも構わないわ。いずれ私も旦那とは別れたいと思っているから」
「結婚したばかりなのに、もう離婚するんですか?」
「大人になると、いろいろと複雑な事情があるのよ」
 笠間は疲れたように言った。
「今日、佐藤さんを休憩に誘ったのは、それを言うためよ」
 堂々とした宣戦布告。挑戦的な態度に奈々は、テーブルの下で固く拳を握っていた。
「そういうことだから。それじゃ、お先に」
 そう言い残して休憩室をあとにする笠間に奈々は何も言えなかった。既婚者でありながら、桐生を奪う気満々なあの態度。見せつけられた自信に奈々は委縮していた。
 ぜんぜん敵う気がしない。そこまでの強さもなければ、魅力もない。両想いなのに、いまだに恋に奥手で、戸惑っている。
 煙草の匂いに混じって鼻孔をかすめた甘い匂いは、どこのブランドの香水だろう。エナメル革のシガレットケースをバッグにしまい、スマートな動作で去っていく笠間が、優雅な大人の女に映った。
 煙草を吸えない自分が子供に思えた。ほとんど言いたいことが言えなかった奈々はすっかり笠間に押され気味。はっきり“私は彼女です”と言いたいところだが……
「はぁ……」
 ここのところ、いろいろあり過ぎて、どっと疲れが押し寄せる。
 会いたいよ。会って、安心したい。今はそれだけでいい。奈々は我儘に思われるかもと心配になりながらも勇気を出して桐生にメールを打った。
 もちろん、すぐに返事は返ってこないのは分かっている。返事はあとで確認しようと携帯をバックにしまうと、奈々も休憩室をあとにした。


 しかし、バイト帰りに携帯をチェックしたが桐生からのメールの返信はない。新着メールに何度問い合わせても受信はなかった。
「どうして?」
 いつもいつも連絡がとれないのだろう。
 滅多に会えない。デートにも誘ってもらえない。社会人の男の人はこんなにも余裕がないのだろうか。会いたいと素直に伝えられたらいいのに。だけど、言葉にしたら困らせてしまいそうで、どうしても言えない。
 募る苛立ちをどうすることもできないまま、奈々は携帯を乱暴にバッグに放り込んだ。しかし、すぐに、さっき放り投げた携帯の着信音が聞こえてくる。
「かかってきた!」
 奈々はさっきまでの不満を忘れ、慌ててそれを取り出すと、ディスプレイを見ずに電話に出た。だけど、期待とは真逆の電話の声にどっと疲れが押し寄せた。
「直人くん……」
『近くまで来ているんだ。今から部屋に行くよ』
 奈々の脳裏には咄嗟にこの間のことが思い出された。あれは、あとさき考えず、男の人を家にあげた自分にも責任がある。
「ダメ! 悪いけど部屋には入れられない。話なら電話でもいいでしょう?」
『大事な話なんだ。弥生のことなんだよ』
「弥生の?」
 弥生のことを言われると無視できない。それに、直人の真剣な声を聞き、まじめな話し合いができるのではないかと期待できた。
「分かった。その代わり部屋以外で。取りあえず、駅の改札で待ち合わせでもいい?」
『仕方ないなあ。それで妥協するよ』
 駅前のファーストフード店にでも入って話せばいいと思い、奈々は直人に会うことにした。

 帰宅途中だった奈々は、家に帰らず、そのまま駅に向かう。すると、先に来ていた直人が奈々を見つけ、こちらに近づいて来た。
「どこかお店に入ろうか」
 納得していない顔をしている直人に向かって奈々が言う。
「そうだな。店は任せるよ」
「少し歩くけどいい?」
「ああ」
 ここは駅の西口。目ぼしいお店は東口にある。東口へ移動するため、ふたりは連絡通路へと歩き出すのだが──
 そのとき、なんとなく違和感を覚え、奈々は足を止める。
 下りの電車が轟音とともに走り抜ける、その音とともに聞こえてきた声を奈々は聞き逃さなかった。間違いない。それは『直人』と聞こえた。
 奈々は恐る恐る声の方を見た。
「や、よい……」
 そこには茫然と立ち尽くす弥生の姿。驚く奈々の声に、直人も彼女の存在に気づく。油断していたことを悔やむ直人だが、今さら遅いと思い直し、冷静に弥生と向き合った。
「まさか、あとをつけるとはな」
「やっぱり奈々なんだね。私と別れたい理由」
 弥生が下瞼に今にも溢れそうな涙をためていた。
「違うの、弥生!」
 罪悪感が一気に奈々を襲う。一番避けたかった状況だった。それなのに一番最悪な形で傷つけてしまった。
「何が違うの? 今、私が見ているのが事実でしょう?」
「でも誤解だから。私と直人くんは──」
 しかし奈々はそう言いかけて言葉を止めた。
「え? なんで!?」
 奈々が驚くのも無理はない。すぐ視線の先に思いもよらぬ人物がいたのだ。こんな偶然があるなんて。
 桐生マネージャー!
 桐生は改札を出てきたばかりのようだが、奈々を見ても特に驚く様子もなく、余裕綽々という姿で立っていた。逆に大混乱中なのは奈々で、言葉を言えなくなった彼女の異変に、弥生と直人もすぐに気づく。
 駅前を行き交う人の波の中、彼ら四人だけが動きを止めたまま。まるで、そこだけ時間が止まったようだった。
            




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