6.震える瞳(032)

 
 瞬く星の下

 だけど、あなただけ見えない

 あなたの気持ちが見えない

 その瞳に映るのは私だけであって欲しいよ


 ◇◆◇


 大学の構内の中庭で、奈々はベンチに座り、バイトの時間になるまでくつろいでいた。
 9月もそろそろ終わりに近づいた。構内を歩いている女の子たちのファッションは既に秋色。奈々の働くお店でも夏物は一掃されて秋冬ものに衣替え済だった。
 弥生と直人があのあと完全に別れたと直人本人から電話連絡を受けた奈々は、自分もはっきりと伝えなければと恋人の存在を告げた。
『どんな奴?』
「社会人」
『ふーん。つまり年上か。てか、そういうの、もっと早く言えよ』
「そうだよね。あの時、それどころじゃなくて。ごめんなさい」
『だから泣いていたんだな。だったら、そんな男なんて今すぐ別れろよ』
「嫌だよ。それは絶対にできない」
『じゃあ、無理やりにでも奪うよ』
「いい加減、冗談はやめて。それに散々、弥生のことを泣かせた人がよく言うよ」
『冗談で口説くかよ。俺、それほど暇じゃねえよ』
 とは言っても、直人はある一定のラインを踏み越えてまでそれをしない人だ。実際、しようと思えばできたはずなのに、奈々を力ずくでということはしなかった。
 おそらく、プライドが高い分、引き際は潔い。奈々に恋人がいると知り、しっかりと区切りをつけているだろう。どうせ心の奥底では、なら次に行こうかな、なんてことを思っているはずだ。
「次に選ぶ相手は傷けないでね」
『弥生のことは好きだったよ。だから、つき合った。でも、途中でなんか違うなって思うことだってあるだろう』
 最低なことを言ってはいるが、言っていることは間違いでもない。そう思ってしまうことは仕方のないこと。誰にでも有り得る話だ。
 しかし問題は友人である弥生との関係。彼女とは大学で顔を合わせることはあっても避けられている現状。
 弥生は自分と直人がつき合っていると思っているのだろうか。でも、違うと思い直す。だってあのとき、自分を無理やりに、その場から連れ去った人物を彼女も見ているから、きっと分かってくれたはず。だから以前のような友達に戻れる日が来ることを期待している。
 とにかく今は弥生の傷が癒えることを願おう。奈々は直人のことで傷ついた彼女を思い、待つことにした。時間がかかってもきっといつか……そう信じて。

 一方、桐生からも相変わらず連絡がない。あんな寂しい別れ方をしたまま時間だけが過ぎていった。
 あの日の別れ際。実は、桐生もふたりの間に漂う微妙な空気を感じていた。
 あの桐生が奈々の不安げな表情を見逃すはずもなく、痛いほど伝わってきた気持ちに彼もまた困惑している。また怒らせてしまったのだと桐生は桐生なりに自己嫌悪に陥る始末。
 そんなこととは露知らず。奈々はひとり思い悩み続けていた。
 面倒くさい女だと思われているのかな? もしかして、連絡がないのは愛想を尽かされたから? 私の存在価値は、彼にとってはそれほどでもないのだろうか。
 うまく甘えることがどうしてもできない。素直に気持ちをぶつけられない。体の結びつきを果たしても、どこかしっくりこない関係だった。


 ◇◆◇


 その日、バイトに赴いた奈々は、レジの接客を終えた笠間に挨拶をした。気まずいが、仕事だと割り切るほかない。
「おはようございます」
「おはよう」
 もちろん笠間も同様だ。そしていつも通りの口調で会話を続けた。
「佐藤さん。明日の土曜日、バイトが休みの上に急で悪いんだけど新店舗のオープンの手伝いに行ってくれないかしら?」
「明日ですか?」
「一日でいいんだけど。それとも何か予定でもあるの?」
「いいえ。行けます」
「よかった。助かるわ」
 つい先日、宣戦布告的な態度を見せつけられたばかりで今の状況。こんな冷静な会話のやり取りは表向きの体裁でしかない。今にも溜息がでそうなほどのうんざりとしたやり取りだった。
 それから笠間から店の場所と集合時間を教えてもらう。
 こういうのはよくあること。この店のオープンもよその店舗から応援に来てもらっていたように、ほかのお店で人手が足りないときは、奈々たちも例外なく応援にかり出される。今までも何度かほかの店に応援に行ったことがあった奈々だったので、急とはいえ、動じることはなかった。
 笠間は電話をかけて一名応援に行けることを伝えていた。電話の相手は桐生だ。その応援の指示をしたのは、エリアマネージャーである桐生なのである。
 応援に行く店はここよりもずっと規模の大きい駅ビルのテナント。場所も都心により近く、かなりの混雑が予想された。
 さらに問題なのは桐生とのこと。おそらく桐生もその店に来るだろう。顔を合わせるのは気まずいけれど、ここで断るわけにいかないのは明日のシフトが空いているのは奈々しかいなかったからだった。

 次の日、奈々は新しくオープンする店の応援に向かった。
 聞くところによると、今日がこの駅ビル全体のリニューアルオープンの日。このリニューアルを機に『vivid prism』が新たに進出したということだった。

 お店に顔を出すと、応援スタッフの中に崇宏を見つけた。そして、その横には桐生。無視するのも変だと思い、奈々は自分から近づき、ふたりに挨拶をした。
 桐生はいつも通りのポーカーフェイス。目が合っても笑みひとつない。「おはよう」と、無難に返してきた。
 愛想の欠片もないんだから。奈々は桐生のそんな態度に不満を抱いていると、雰囲気を察したのか、崇宏が笑顔満開で話しかけてきた。
「奈々ちゃん、久しぶりだね」
「そうですね。お久しぶりです」
 なぜか、ご機嫌な崇宏。いつの間にか呼び名が『奈々ちゃん』になっていた。
「奈々ちゃんが一緒なら、今日は楽しく仕事ができそうだ」
「随分と言い慣れてますね」
「そんなことないよ。俺って誤解されやすいだけど、そういうんじゃないからね。これでも根はまじめなんだよ」
 と、言いながらも、相変わらず軽そうな崇宏。けれど、そういう性格がうらやましいなと奈々は心底思っていた。

 それからすぐに朝礼となり、その店の店長から仕事の分担の説明を受けた。分担と言ってもレジ業務以外のすべての業務が本日の内容。つまり、お金の扱いは応援の人間は携われない。それが、この会社の決まりだった。
 そして10時。オープンと同時にたくさんのお客様が来店した。
 桐生とは挨拶以外、会話はなかった奈々だが、存在感は充分感じていて、ずっと意識し続けていた。でも時間の経過の意識だけはすっかり薄れ、あまりの忙しさにお昼を過ぎていることすら忘れるほどだった。
 さすがにオープン初日の猛烈さはいつも圧倒されてしまう。ふーっと一息つくと崇宏から声がかかった。
「奈々ちゃん。お昼休憩だって。一緒にランチしようよ」
 まさかのランチのお誘い。崇宏はふたりきりでのつもりらしい。
「あ、はい……」
 返事をしながら桐生を見たが、こちらには気づいてないようだ。
 桐生マネージャーはどうするのだろう。当然、そのことが気になるが、とても自分からは誘えない。奈々は崇宏とふたりでお昼ごはんを食べに行くことにした。
「どこに行こうか? 駅ビルのお店と言いたいところだけど……」
「さすがに今日は混雑していて無理ですよね」
「社食にする? どっちにしても混雑しているだろうけど、座れないことはないと思うよ」
「社食……」
 奈々は、桐生も利用する可能性がある社食に抵抗を覚えていた。だけど崇宏は気にすることなく続ける。
「大丈夫だよ。桐生さんは、混雑した場所にはあまり近寄らないから」
「え?」
「たぶん外で食べて来るよ。回転率のいい店を見つけるのがうまいんだよ」
「はぁ……」
「そのことが気になっていたんだろう?」
「えっと……」
 それはどういう意味だろう。まるで、桐生とのことを知っているような感じだ。
「怖い顔の人が一緒だと食べにくいよね。それに桐生さんは俺が女の子と仲良くしていると、いっつも睨みつけるんだよ。ひどいだろう? そういうつもりなんてないのにさ。そんな目で見られながらだと、俺も食事がまずくなって困るからね」
 なんだ、そういう意味か。それを聞いて、奈々は笑ってしまった。
「社食でお願いします」
 崇宏が「うん」と頷いて、奈々はどこか吹っ切れた気分で歩き出した。


 ◇◆◇


 社食は確かに混雑していたが、それほど待たずに食事にありつけた。
「なんですか?」
 奈々がミートソースパスタを食べていると、崇宏が意味深に笑みを浮かべていることに気づいた。
 この笑顔、苦手だ。一気に緊張が走る。奈々は喉に詰まらせないように、水を飲みながらゆっくりとパスタを飲み込んだ。
「桐生さんと喧嘩でもした?」
「はっ?」
「ふたりがつき合っているのは知っているよ。桐生さんから聞いているからね」
「やっぱり知ってたんですか!?」
 驚きのあまりフォークを持った手が止まる。
 そんな話ができるほどふたりが仲がいいとは思っていなかった。桐生にしても自分の恋愛をいちいち他人に言わないようなタイプだと思っていた。
 でもそのことを知り、逆に桐生の信頼の深さを感じて、崇宏への抵抗も不思議なくらいに自然と薄れていくのだった。
「喧嘩というか、私が勝手に怒って不貞腐れているだけです。桐生マネージャーの仕事を理解してあげられなくて」
 すると崇宏は思いのほかやさしく微笑む。もっと軽い反応かと思っていたら、その答えは意外にまじめなものだった。
「桐生さんも不器用だからね。28歳のおっさんからみたら19歳の女の子をどう扱えばいいのか戸惑うことが多いんじゃないのかな」
「逆にいつも余裕たっぷりに見えるんですけど」
 しかし、崇宏は笑って否定する。
「いやいや、ああ見えて実はかなり参っているね」
「そうでしょうか」
「今日だって、俺とひとことも口をきいてくれないんだよ。よっぽど切羽詰まっているんじゃない? それに、さっきだって俺が奈々ちゃんを誘って店を出てくるとき、かなり俺たちのことを気にしていたんだよ。気づかなかった?」
「いいえ、逆に気づいてないような感じでしたよ」
 自分が鈍感すぎるのかなとも思ったが、崇宏の言っていることにも実感がわかなかった。
 だけど、そう思ってもいいのかな? 少しだけ歩み寄りができるきっかけを見つけられたような気もしたが……。だけど、どこか勇気がでない自分もいるのも事実。
 恋とは、どうしてこんなにも難しいのだろう。両想いなのに、こんなにも気持ちが通い合わないなんて……


 食事を終えて、お店に戻ると仕事を再開。
 午後もずっと忙しさは変わらず、その間も桐生とは接点はなかったが、それでもさっきの崇宏の言葉で奈々の心は幾分軽くなっていた。
 あとでちゃんと話そう。前向きにいかなくては。崇宏の言葉を信じて自分に素直になろうと考え直した。

 やがてお店の閉店時間になり、終礼を終え解散となった。
 桐生や崇宏はもう帰ってしまったあとだった。だが、奈々はいまだに帰られず店に残っている。それは、閉店後、奈々は店長に呼ばれ、明日の応援を頼まれていたからだった。
 桐生に了解をとってあると言っていたが、念のため笠間にも確認をとってみると案の定、桐生から連絡がいっていたようで、明日の奈々のシフトが抜ける分は森と工藤がサポートに入り対応できるとの返事。
「助かるわ。やっぱり女の子がいてくれた方がお客様の受けもいいのよね」
「でも、私なんかでいいんですか?」
「いいのよ。ぜんぜんいいのよ。だって佐藤さん、可愛いんだもの!」
 ちょっと高めのテンションはアパレルという職業柄なのだろうか。笠間はそれとは正反対だが以前の店長だった寺島や他店舗の店長もみんなこんな感じだ。
「……ありがとうございます。では明日10時に伺いますね」
「よろしくねえ」
「こちらこそよろしくお願いします。では、お疲れ様でした」
 ようやく一日が終わる。テンション高めな店長に挨拶をして店をあとにした。
 慣れない店はいつもと違う疲れが出るような気がする。仕事が終わった奈々は肩の荷が下り、ようやくリラックスできた。よし、明日も頑張らないと。あと一日の辛抱と思いながら、奈々は従業員専用の出口から外に出た。

 ネオンが煌々と光る街並みは、朝とはまるで違う顔。人の波に圧倒されそうだった。
 しかし、その街並みの中に見慣れた景色。そこには、いつかのように煙草をくわえた桐生が立っていた。
「お疲れ」
 とても普通に話しかけられた。
 ドキンと。胸がきゅんと鳴るような音が自分でも聞こえたような気がした。
 卑怯だ。どうしてあなたはいつも私の心をかき乱すの? そんなふうに見つめられたら、好きと叫んでその胸に飛び込みたくなるんだよ。
 滲む涙を必死に抑えて、一歩一歩近づく。大好きなその人の元へ。

 桐生は携帯灰皿を取り出すと、吸いかけの煙草を押しつけた。
「悪いな、明日も応援になって。店長がどうしてもって言うから
「いいえ、大丈夫です。仕事は楽しいですから」
 桐生に対する奈々の表情にようやくやわらかさが取り戻され、同じく桐生の心も穏やかになる。
「飯でも食いに行くか?」
「はい」
 奈々は笑顔で答えた。
 そんな奈々を微笑ましく思う桐生。直属ではないが自分の部下である彼女がバイトの身でありながら他店舗の、しかも初対面の店長に直々に指名されたことがうれしく、そして少なからず頼もしくも思えてしまうのだ。
「どこ行く?」
「空いているお店なら、どこでもいいです」
「なんだ、それ?」
「めちゃめちゃ、お腹が空いているんです」
「分かったよ。空いていれば、なんでもいいんだな?」
「はい」
 ようやく、ふたりの呼吸がそろった瞬間。今日一日、ずっと会話もなければ視線を合わすこともなかった。そんな不自然な緊張感がようやく溶けてなくなった。
            




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