6.震える瞳(033)

 
 食事を終えたふたりは、駅のホームに立っていた。
 電車を待ちながら、奈々にある疑問が浮かんだ。
「そういえば、桐生マネージャーはどこに住んでいるんですか?」
 つき合い出してからも奈々は桐生の家に行ったことがない。
「T町のT駅。この沿線だよ」
「そうなんですか」
 奈々の住む街はT駅よりひとつ先の駅で乗り換えが必要である。乗換えさえなければ少しは近くに感じるんだけどなと思いながら、同時にそんなことすら今まで知らなかったのかと、やる瀬ない気持ちになった。
「どうした?」
 桐生が心配そうに尋ねた。
 さっきまで上機嫌だった奈々が黙り込むので心配になる。
「私、何も知らないんだなと思って。桐生マネージャーがどこに住んでいるのかも今、初めて知りました。下の名前だってこの間、笠間店長から聞かされて知ったくらいです。ずっと、どうして私のことを分かってくれないんだろうと不満だったんですけど、分かっていないのは、私だったのかも……なんて思ったんです」
 奈々は、この間の喧嘩を思い出して、桐生に素直に気持ちを伝えた。
「俺たちはまだまだこれからだろう。ただ、会う時間も限られているから余計にそう思わせているのは悪いと思ってる。でも、逆に俺は新鮮だけど」
「新鮮?」
「これからがいろいろと楽しみだよ」
 意味ありげに口の端を上げる桐生。それを見た奈々はカアーッと頬が熱くなるのを感じた。桐生が何を言おうとしたのかが分かってしまい、直視できずに下を向いてしまった。
 そこへちょうど電車が到着。
「行くぞ」
 桐生は動けないほど照れている奈々の腕を掴み、電車に乗り込んだ。

 週末のせいか電車はだいぶ混雑している。桐生は掴んでいた奈々の腕を離し、代わりにその手を腰にまわした。その一連の動作は慣れたもので、言葉足らずな桐生だが身体の方のスキンシップには余裕があるのはさすが。
 だが、そのやさしく守ってくれるような桐生の仕草は、自分が無知なことで沈んでいた奈々の気持ちを浮上させ、彼女の瞳にうれし涙を滲ませた。
 幸せだなと頬を緩ませる奈々。電車が大きく揺れる度にうれしくなってニヤけてしまう。もちろん、その顔を桐生に気づかれないように下を向きながら。

 しかし、まもなくT駅というアナウンス。こうしていられるのもあと少し。このまま電車が止まらなければいいのにと、奈々は強く願った。
 でも、そんなことはあるはずもなく、電車はT駅に到着する。
 奈々はそっと桐生から身体を離した。
 ドアが開き、どっと人の波が動く。けれど、その波にのまれるように奈々の身体も押し出されていった。
「……え?」
 引っ張られる身体に疑問のマークが浮かぶ。というのは、向かう先はたった今開いたドアで、今まさにホームに足がつこうとしていたからだ。
「桐生マネージャー?」
 びっくりして奈々が顔を上げると、桐生はその肩をやさしく抱いて、無言のまま改札へ向かった。
 後方では電車が発車する音が聞こえる。奈々は、混乱の中で振り向いて、去っていく電車を目で追ったが、それもやがて小さく消えていった。
 その後、ふたりは改札を出てタクシー乗り場へ向かう。
「明日の朝早く、仕事に間に合うように家まで送る」
「あの?」
「今日は帰したくないんだ。お前のマンションでもよかったけど、それだと時間がもったいないから」
 今まで見たことも聞いたこともないような甘い瞳に甘い誘い。それを茫然と聞いている奈々だった。
「聞いてんのかよ?」
「あ、えっと……聞いてました」
「いいのか? このまま連れて行くけど」
 すでに電車を降ろされて、答えはイエス以外選択肢がないように仕向けられて、奈々は「はい」と頷くしかない。
 うれしさよりも驚きの方が大きい。だけど、あれこれ考える暇もないままに、タクシーに乗せられた。

 駅から数分。着いた先はもちろん桐生のマンション。比較的、交通量が多い通りに面している立地は、利便性、治安ともに良好。
 部屋に通されると1LDKの間取り。ワンルームの奈々の部屋に比べると、かなり広く感じた。初めての桐生の部屋に、奈々は急に落ち着かない気持ちになった。
 桐生は奈々をソファに座らせ、冷蔵庫から冷たいペットボトルのお茶を出してはみたものの、すっかり緊張し切っている彼女をどうリラックスさせようか、さっそく思案にあぐねていた。男の部屋は初めてというわけではないだろうにと思うのだが、予想通りかといえばその通りではあった。
「何かおかしいか?」
 キョロキョロとする奈々の様子が気になって尋ねる。
「いえ。綺麗だなと思って」
 桐生は整然とした環境が好きであり、自分の部屋も同様に整理整頓が行き届いている。忙しさもあって料理こそしないが、それ以外のことはまともにこなす。
「これでも几帳面な方なんだよ」
「え?」
「文句あるのかよ?」
 仕事中のときのような迫力に「ないです」と縮こまる奈々。
「なら、シャワー浴びてこい」
「はい?」
「だからシャワーだよ」
「シャワー……えっ……」
 奈々は意味を理解し、ぎょっとする。シャワーを浴びるということは、つまりその先にあるのはそういうこと。ふたりにとっても初めてのことではないし、こうなることを前提でマンションに来たのだが、ストレート過ぎて奈々はどもってしまった。
 しかし、次の瞬間、奈々の迷いも吹き飛んでしまうほどの桐生の発言が待っていた。
「俺は別にそのままでもいいけど?」
 そんなの無理! 一日中、埃まみれの店内にいたし、メイクも落としたいし、歯磨きもしたい! でも、歯ブラシセットは持ち歩いているけどクレンンジングはどうしようと考えていると……
「浴びるなら早くしてくれよ。どうせ、そうさせろって言うんだろう? だから親切心で言ってやったんだよ」
「……はい」
「だから、どっちだよ? こっちはな、我慢の限界なんだ」
「……あ、浴びさせて頂きます」
 しかし、先にバスルームを使うのも気が引けて、どうぞどうぞと先に桐生にシャワーを浴びてもらい、そのあとに奈々もシャワーを使わせてもらうことにした。でも、浴び終えて気づく。
「着替え……」
 当然、そんなものは持ち合わせておらず、奈々は脱衣所であれこれ考え込んでしまった。
 ──もうかれこれ10分以上。
 だが桐生のやる気満々な発言を思い出し、このままでいこうと覚悟して、ようやくバスタオルを巻いたままの姿でバスルームを出た。

 すると、リビングで見たのは予想外の冷え切った空気と桐生の姿だった。
「遅い。待ちくたびれた」
 あきれたように言われ、見るとテーブルにはプルタブの開いた缶ビールが一缶。
「時間がもったいないだろ。なんのためにうちに呼んだと思ってるんだよ」
 なんて、ひどい言い方なのだろう。部屋にもダークな空気が漂っている。ソファにだるそうに座り、機嫌を悪くした桐生を前に何も言えない奈々は、どうしていいのか分からずに立ち竦んでいた。
 すると、桐生が立ち上がり奈々の元へ。桐生を目の前にして、奈々は固まったまま、バスタオルの合わせ部分をぎゅっと握っていることしかできずにいたが……
 瞬間、ふわり身体を覆う温もり。
「馬鹿。冗談だよ」
「じょう……だん……?」
「そうだよ。待ちくたびれたのは本当だけどな」
「やだ……私、びっくりして……」
 桐生の洗いたてのティーシャツの香りに包まれて、奈々は安心して身を預けた。
「冗談、きつすぎたみたいだな。ごめんな。でも、一向に出てこないから、服でも着てるんじゃないかって思ったよ」
 落とされる声はやさしさの限りに尽くされて、心からほっとしたせいで涙が溢れる。目の前のティーシャツの生地が滴に濡れた。
「嫌われたかと思いました」
「よく考えろよ。そんなことで嫌うわけないだろ」
「だって……」
 迫真の演技で、とても冗談に見えなかった。だって、仕事のときはいつもあんなふうだから。
「ごめん。だから、泣くなって」
 うなじに手を添えられ、甘く微笑む桐生が、顔の高さを奈々のそれに合わせてきた。その先の答えはひとつだけ──
 唇を重ねられ、ゆっくりと瞳を閉じた。
 軽いキスかと思いきや、なかなか離れてくれなくて本格的なものへとなっていく。奥の方にまで舌が入り込み、今までの中で一番濃厚なキスだった。角度を変えて唾液で艶を増していく互いの唇。桐生の吐息から、ほんのりとお酒の香りがする。
 そしてはじまろうとしている長い夜。今日は一晩一緒にいられる、一緒に朝を迎えられる。そう思っていたのは奈々だけでなく、桐生もまた、これからはじまる欲望に満ちた夜に堕ちていく予感──
            




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