7.あなたの隣に(043)

 
 ここは都心だというの緑が色濃く残る。その理由は広い敷地の至るところに植えられた針葉樹の高い樹木が生い茂っているからで、その成長ぶりの立派さからも歴史の長さをうかがえる。
 少し痛んだ石畳が続く正門から見える校舎は立派な外観だが、どことなく古い造りだ。確か創立百年は軽く超えていたような気がするなと、奈々はその場で立ち止まって目の前のキャンパスを見渡していた。そこは足を一歩踏み入れた途端、迷子になりそうなほど入り組んだ奥行きのあるキャンパスだった。
「どっちに歩けばいいんだろう?」
 このキャンパスは奈々の通う大学ではない。そのため、ただでさえ方向音痴気味なのに、この広さに加えて複雑に校舎が立ち並んでいては、目的の場所にスムーズに辿り着ける自信はない。約束の時間に間に合いそうにないことに気づいた奈々は、仕方なく電話で助けを求めた。
「今、着いたんだけど……」
『どこにいるの?』
「正門付近。だけど食堂棟の方角がよく分からないの」
『そこで待ってて。迎えに行くから』
「……うん。ごめんね」
 電話で呼び出した相手は達哉。達哉に会うのに彼の方から会いに来てもらうのが申し訳なくて、自ら彼の大学に赴いた。カフェやレストランでふたりきりで会うのにも抵抗があり、どうしても昼間の時間に会いたかった奈々は大学へ行こうと思い立ったのだ。
「お待たせ。奈々ちゃん」
「ごめんね。キャンパスの中、複雑そうだったから」
「気にしないでよ。このキャンパスはあとから続々と校舎や研究棟が建てられたから、かなり入り組んでいて、初めての人は迷子になりやすいんだ」
 そんなこととはつゆ知らず。おそらく帰りも達哉に正門まで送ってもらうことになるのだと、今から想像がつく。

 達哉の専攻は農学部のバイオサイエンス学科。生命のメカニズムを追及する分野で、細菌から人間にいたるありとあらゆる生命を研究する学科なのだそうだ。
 奈々は達哉の大学の話を初めて聞いたとき、ただ漠然と農業に興味があるのだと思っていた程度だったが、詳しく話を聞いてみると、もっと科学的なことを学ぶための学科のようだった。
 専門的なことはさっぱり分からない奈々だったが、まじめで努力家の達哉には向いている分野だなと思っていた。

「奈々ちゃん、お昼は食べた?」
「ううん。まだ」
「ならハンバーガーのテイクアウトにしない? カフェテリアでもいいんだけど、人が多くて落ち着いて話せないから」
「近くにお店があるの?」
「キャンパス内にあるんだ」
「すごい。さすが有名大学だね」
「でも今は結構どこにでもあるみたいだけど」
 最近は、コンビニはもちろん、サンドイッチ店やピザ屋や牛丼店まであるそうだ。どれも有名なお店のチェーン店。
「へえ。うちの大学にはないよ。その前にうちの大学は田舎にあるからそういうお店は進出してこないんだろうな」
「でもファーストフードなんていつでも食べられるから、敢えて行こうという気にはならないよ。俺の場合だけど」
 奈々はそんなものかなと思いながら、ハンバーガーのセットをテイクアウトしてもらい、キャンパス内のベンチでお昼を頂くことにした。
 食べながら大学の話で盛り上がる。
「大学院?」
「まだ基礎的な勉強しかしていないけど、この大学を卒業した先輩の中には大学院に進む人もいて、いろいろな研究をしているんだよ。そういう話を聞いて、俺も専門的なことを研究してみたいなと思っているんだ」
「もうそんな先のことまで考えているんだ」
「奈々ちゃんは?」
「卒業したら普通に就職すると思うけど、どういう職種がいいかまではぜんぜん考えていないよ。経営学部だからマーケティング論とか簿記とか勉強しているけど、だからと言って、そういう専門分野に進みたいと思っているわけでもないしね」
 だけど、今から志を持って勉強をしている達哉がうらやましいと思う。勉強をするために上京して来たというのに、そこまでの熱心さは、今の奈々にはなかったからだ。
「私も達哉くんを見習おう」
「ぜんせん気合いが感じられないんだけど」
 すかさず達哉に突っ込まれると、奈々は簿記の資格取得が当面の目標とおどけて見せた。

 食事が終わると、奈々はいよいよ本題に入る心構えをする。
 今日、奈々が達哉に会いに来たのはもちろんあの話……なのだが、心に決めて会いに来たつもりでも、面と向かうと臆病心が顔を覗かせてしまう。
 それでも第一声を口にした。
「達哉くん、あのね──」
「あー、なんとなく言いたいことは分かるよ」
 しかし、言おうとしていた途中でセリフを被せられた。
「でも、ちゃんと言わせて。今日はそのことだけじゃなくて、お礼も言いたかったの」
「そんな答えなのにお礼を言われてもなあ」
 そこまで言われて奈々はどう返していいのか分からずにオレンジジュースのカップを握りしめる。今日言おうとしていたことを口にすることは自己満足に過ぎないのだろうか、言わない方が正しいのだろうかと、あれこれ悩んでいた。
 しかし、達哉は隣で俯き加減で深刻そうにしている奈々に気づき、慌てて訂正する。
「あ、いや、ごめん。意地悪を言うつもりはなかったんだよ。奈々ちゃんがわざわざこうして来てくれるということには誠意を感じているよ。奈々ちゃんらしいというか、そういうのって普通、電話でもいいことだろう?」
「そんなのダメだよ」
「そういう律儀なとこも好きなんだけどね」
 達哉はおもしろがるように言う。それもこれも、この場の雰囲気を暗くしたくないと思ってのことだったのだが、どうもそれが裏目に出てしまったようだ。
「あ、の……」
「やだなあ。まじめにとるなよ。好きな気持ちは変わらないけど、それを無理に押し付けようだなんて思っていないから」
「ごめんなさい。私……」
「分かってるよ。この間の社会人だろう。あの人、いい奴そうだったよな。クールな男を気取っていても、実際に取り乱してた姿を見ちゃったから、なんか親近感わくよ」
「あの人以外、考えられないの。でもあのとき、達哉くんがそばに居てくれて本当に感謝している。じゃなかったら、また逃げ出していたと思うの。だから、ありがとう」
「でもまた泣かされたら速攻、俺に連絡もらえれば、いつでも駆けつけるよ」
「ありがとう。でもそれは無いと思うよ」
「ひどいな。そんなはっきり言わなくたっていいだろう」
 今度はやんわりと。奈々の負担にならないよう気を配りながら言うと、ようやく奈々に笑顔が零れる。
「だって、もうあんな迷惑、達哉くんにはかけられないもの」
 こんなにもいい人。奈々は達哉のことを友人として大切に思う。
 彼は明るくて朗らか。女の子にモテるのに、それをちっとも鼻にかけない上に誰とでも打ち解けられる素質は天性なのだろう。初対面のときから達哉はこんな感じだったなと、初めて彼の車に乗った日のことを思い出していた。
 達哉にも早く可愛い彼女ができるといいなと彼の屈託のない笑顔を見ながら思っていた。
 小春日和の昼下がりの空の下。ひとつの恋が散ってしまったのだが、広大なキャンパスの片隅で仲良く戯れる様子はスケッチブックにおさめたくなるような爽やかな光景だった。


 ◇◆◇


 そして数日後。10月最後の日。笠間は会社を退職した。
 お店を辞める当日に、改めて奈々にこっそりと“子作り宣言”をしていった。
 今の笠間ならきっとうまくやっていけるだろう。一度、ぎくしゃくした夫婦関係も修復のスピードはあの分だと遅くないはず。夫婦をつなぐ天使が現れてくれれば、尚のことスピードアップするのかもしれないが、こればかりは自然の摂理。
 だが愛する人に愛される、お互いの気持ちの重さがつり合ったとき、溢れてくる幸せの音色は限りなく透き通り、心が穏やかになるように思う。
 奈々は心の中で笠間の幸せを願い、スタッフだけで行った送別会の夜、笑顔の彼女を見送った。
            




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