7.あなたの隣に(042)

 
 さえずる鳥の声と一緒に秋風が髪を揺らす穏やかな午後。天高くさざ波のような雲がたなびき、川の水面に映り込む。冬に向かいつつある空気は少しだけ乾いていた。
 奈々に芽生えた小さな自信は、やがて大きく実を結び、バイトに向かう足取りも軽くなっていた。昨日の今日で笠間と顔を合わすことは、それまでの奈々なら苦痛の極みで、ここまでポジティブになることはなかった。
 恋の副作用は時に重症をもたらすが、好転したときのエネルギーは女性を生き生きと輝かせる。そうなりたい、そうなるように頑張ろうと、奈々は未来への扉を開けた。

「おはようございます」
「おはよう、佐藤さん」
 第一関門突破。働く社会では挨拶は必須だ。それを済ませると昨夜、ここで起きた出来事をぐっと飲み込んで目的のものを探す。
 ……が、しかし見当たらない。ロッカーの中に置き忘れたと思っていた携帯電話がどこにもなかった。
 別な場所で落としたのだろうか? だとしても心当たりが思い浮かばない。念のためにもう一度、ロッカーの中を探した。
「これ、佐藤さんのかしら?」
 ロッカーを覗いたままの状態で、うしろから笠間に問いかけられた。
 振り向くと、その手には紛れもなく探していたもの。
「そうです。今、探していたところだったんです」
「夕べ、ピカピカ光っていたから何かしらと思ったら携帯電話だったの。それでどうしようかと思ったんだけど、そのまま置いて帰ったの。でも今朝、私が来たときにも残ったままだったから勝手に預かっていたのよ」
「ありがとうございます。昨日、忘れてしまったんです」
「それで昨日の夜にお店に……」
「……ええ」
 やはり、否が応でも、そちらの話題に流れてしまう。できれば蒸し返したくないことではあるが、避け続けることもできない。
 唯一の救いは笠間が挑戦的な態度でないことだ。張り合う気持ちを前面に押し出して接して来られたら、平常心ではいられない。泣くか、わめくか。自分でもどうなるのか分からないが、少なくとも笠間を上司として見ることはできない。
「佐藤さん、今日の夜、仕事が終わったあと、時間あるかしら」
 仕事をはじめようとした矢先のことだった。業務時間外の誘い──真正面から切り込まれる。
「大丈夫です」
 奈々も毅然と答える。負けられないという女の意地もあった。正直、いきなりのことで驚いたが、近いうちにきちんと話をしなければならないと思っていたのが今日になっただけのこと。
 もう逃げない。昨夜の桐生と過ごした時間を思い出し、自分を奮い立たせた。
「駅前のMoonlightというカフェは知ってる?」
「はい。知っています」
 CAFE de Moonlight《カフェ・ド・ムーンライト》──駅ビルに併設されているスタイリッシュなカフェ。最近オープンしたばかりで、前から行ってみたいと思っていたカフェだ。
「佐藤さん、今日は遅番でしょう。そこへ先に行って待っているわ」
「分かりました」
 こうして迎えることになった話し合いの場。それまでの数時間の間、決して広くないお店の中でそのことを意識しないようにすること自体、到底無理な話で、さすがの笠間も今日は心なしか表情は固かった。
 その違和感はほかのスタッフにも伝わるらしく、なかでも工藤がしきりに笠間を気にし出す様子に、奈々はなるべく工藤との距離を保ち、話しかけられないように努めた。

 やがてお店の閉店時間。遅番だった奈々は店を閉めると、バスで駅前に向かった。
 終点の駅前で降りると、待ち合わせの場所である『CAFE de Moonlight』に到着。木枠のドアに手をかける前に躊躇いがちになり足を止めるが、大きく息を吸い込んで勢いにまかせてドアを開けた。

 店内に入ると奈々に気づいた笠間が軽く右手を上げた。窓際に並ぶテーブル席で、白い光沢のあるブラウス姿の清楚な笠間の姿はよく栄えていた。
「ちょうどこの窓から佐藤さんが歩いて来るのが見えたの」
「窓が大きいから開放感もありますね」
「ええ。息抜きするにはいいお店よ。それよりお疲れ様。レジ締めは大丈夫だった?」
「はい。無事に終わりました」
「よかったわ。ごめんなさいね。急に呼び出してしまって。お腹、空いている?」
「いいえ。休憩時間に少し食べたので」
「なら飲み物だけでも頼んで。何がいい?」
「私も同じもので」
 笠間はウェイトレスを呼ぶと、ホットのブレンドコーヒーをオーダーした。

 店内を見渡すと、ぽつりぽつりとお客さんがいた。ひとりで読書をしている人。友達と談笑している人たち。恋人同士と思われる微笑ましいカップル。夜も遅めの時間のせいか、それほどの混雑ではない。そのため、とても落ち着いて話ができそうな場所だった。
 しかし襲ってくる緊張を隠せない。緊張のし過ぎで、奈々ひとりだけが、この空間でクモの巣に捕えられた蝶のように息を飲んでいた。
 大きな窓からは、夜の景色が見える。会社帰りのスーツ姿のサラリーマンやOLが数人、足早に通り過ぎている。それでも日常の慌ただしい光景は、少しだけ気を紛らわせることができた。

 窓の外に目を向けている奈々に、笠間はおかしそうに言った。
「すごく、緊張しているみたいね」
「はい。どんな話なのか、分かるようで分かりませんから、ドキドキしています」
 笠間がクスっと笑う。
 奈々の緊張ぶりから、今日呼び出した理由をきっと勘違いしているのだろうなと感じた笠間は、少しでも早く空気を変えようと思った。
「心配しないで。今日は佐藤さんに謝りたいと思って呼び出したの」
「えぇ!?」
「やだ、そんなに驚かないでよ」
 笠間が穏やかに言った。
 しかし、それまでは眠れないほど考え抜いた数日間だった。そして、すべてを桐生にぶつけ、決着がついてしまったのだと知った昨日の夜──やり尽くしたというより、自分のしてきたことが馬鹿馬鹿しく思えたのだった。
「佐藤さんたちを邪魔するみたいなことをしてごめんなさい。ようやく自分で認める気になったの。あの人はもう私のことなんて、これっぽっちも興味がないんだってことを」
「じゃあ、もう、桐生マネージャーのことを?」
「ええ。だって、あの人が血相変えて佐藤さんを追いかける姿を見たら、がっかりを通り越してあきれちゃったわ。もちろん自分にね」
「血相を変えてですか? あの桐生マネージャーが?」
「私が呼び止めても『あいつを放っておけない』って、私を放り出して行ってしまったんだもの。ひどいわよね」
 うれしくて恥ずかしくて奈々の顔が赤らむ。
 笠間から聞くまで知り得なかった事実に、それからの話をつなぎ合わせた。桐生が何度も電話をかけながら捜し続けてくれたということは、昨日の携帯の着信履歴と留守電のメッセージからもすでに伝わってはいたのだが、具体的な事実を聞き、奈々はこっそりと浮かれてしまうのだった。
「桐生マネージャーのことは、本当に振っ切れたんですか?」
「旦那ともう一度やり直してみるわ。もともと好きで結婚したわけだし。本当はお互い子供も欲しいと思っていたから。だから仕事を辞めるように言われていたし、そのつもりで退職すると決めたわ」
「でも、たった一晩で諦めがつくものですか?」
 昨日は取り乱していたという笠間。そんなに急に人の気持ちは切り替わるのだろうか。
「昨日のことは最後の悪あがきよ」
「最後の悪あがき?」
「本当はもう何をしても無駄だということを、とっくにどこかで気づいていたみたい。だからあんな真似したのね」
「でも、あの場面を見たとき、桐生マネージャーは責任感の強い人だから笠間店長を選ぶかもしれないと本気で考えました。弱っている笠間店長を、彼はいつも放っておけなかった……笠間店長もそれを狙っていたんですよね?」
「そうね。その通りよ。でも、彼はそこまで馬鹿じゃなかったわ。同情で女を選ばない人だった」

 そのとき「お待たせ致しました」と先ほどのウェイトレスがブレンドコーヒーをテーブルに置いた。その様子をふたり黙って見守る。
 話は見事に中断された。だが、コーヒーの香りが漂うと、緊迫していた空気がほんの少し解けてくれた。

「ここのコーヒー、すごくおいしいのよね。飲んだことある?」
 笠間がカップに口をつけて言った。
「いいえ。ここへは初めて来たので、まだ一度も」
「そう。なら冷めないうちに飲んでみて」
 そう言われて奈々はブラックのまま口にした。口の中に広がる苦みは嫌な味ではなく酸味が少なめで好みの味に近い。
「本当ですね。私、普段はブラックで飲まないんですけど、ここのコーヒーはおいしいです」
「お砂糖を入れてもおいしいわよ。このお砂糖は、コーヒーの中でゆっくり溶けるから味の変化を楽しめるの」
「そうなんですか。なら、お砂糖も入れてみます」
 笠間が勧めたのは、オレンジがかったレトロな感じの銅製のシュガーポット。蓋を開けると、そこにはブラウンシュガー。奈々はシュガーポットと同じ色をした備え付けのスプーンでひとさじ分をカップに投入し、銀色のスプーンでゆっくりとかき混ぜた。
「甘めのフレーバーも、ほっとする感じでおいしいです。それに落ち着いたいい感じのカフェですよね。よく来るんですか?」
「早番の仕事帰りのときや考えごとがあるときに。ごくごくたまにだけど」
 細い指で再びカップを持ち、コーヒーを飲む笠間を奈々はじっと見ていた。
 この場所で独りで何を考えていたのだろうと、笠間の伏せた瞳を眺めながら思う。家庭のこと、仕事のこと、桐生のこと。少なくとも自分とは違う次元の悩みを抱えていたのだ。少し頬がこけた顔がそれを物語っていた。
「私ね、少し前に桐生マネージャーのマンションに行こうと駅で待ち伏せしたことがあったの」
 思い出すと苦しくなる。
 笠間の耳元でパールのピアスが揺れていた。それには見覚えがある。笠間はそのピアスを気に入っているのか、よく身につけていたので目についていた。桐生と並んで仕事の打ち合わせをしていたときも、そのパールがとても似合っているなと印象深く思っていた。
 そして、その日の夜も……
 奈々はピアスをしていない。今時、ピアス穴すら開けていなかったので密かに憧れていた。アクセサリーもそんなに持っているわけでもなく、そんな違いも自分を子供っぽいなと思う理由だった。

 ふと顔を上げた笠間と目が合う。その深い虹彩の色にドキリとしていると、にこりと笑みを浮かべられ、なあにと尋ねるように首をわずかに傾げた。この場にそぐわない可愛らしい仕草に見とれてしまう。
 だけど、すぐに自分を取り戻し、首を横に振った。
 すると笠間はその意味を理解し、話を続けた。
「それでね、無理やり押しかける形になって部屋に上がらせてもらったのはいいんだけど。そのときも、彼は私に指一本触れてこなかったの。その時点で諦めるべきだったのよね」
「笠間店長はそれで納得できたんですか? そこまで好きだったのに、旦那さんともう一度やり直すことを決めて、本当に幸せになれるんですか?」
「それは佐藤さんに心配されることじゃないわ。むしろ私が旦那とやり直した方が、あなたにとっても好都合でしょう?」
「でも、自分の気持ちに嘘をついて過ごすことは、お互いに辛いことじゃないかと思うんです」
「そうね。今までがそうだったから、それはよく分かっているつもり。でもこれからはそうじゃない。旦那ともきちんと話し合ったわ。それで、彼がどれだけ私に譲歩して我慢していたかもよく分かったの。なのに私は何をふらふらしていたんだろうって自分の身勝手さを思い知ったの。なんのために結婚したのかを、ようやく思い出したわ」
 それを聞いて安心する奈々。自分の夫へ目を向けることができたのなら間違いないのだろう。
 夫婦としての再出発を期待したい。それが笠間にとって一番ベストなことだと奈々も思った。
「素敵な旦那様なんですね。なんとなくですが愛されているのが伝わってきました。必死につなぎとめようとした結果が、仕事を辞めて欲しいということだったのなら、それも許せますよね」
「愛されているのは佐藤さんも同じよ。彼に言われたわ。佐藤さんを不安にさせたくないから、私とこれ以上、私的に関わることはしたくないそうよ。あの人のそんな姿を見たのが初めてだったから、うらやましかったし、何より悔しかった。私は当時もそこまで思われていなかったのにってね」
 笑顔を崩すことなく話し続ける笠間。それはすがすがしい表情で、彼女の凛とした姿からも決心がついているのだと分かった。結婚した当初のことを思い出すことができたことは笠間にとって重要なことだったのだろう。
 桐生と別れて、そこで知り合った別な男性との恋愛は、彼女にとって新しい恋愛なのは間違いなかった。桐生を忘れるための恋愛でなく、ひとりの男性を純粋に好きになった恋愛だったからこそ、導かれた結論だったのだ。
「幸せになって下さい。私にはまだ結婚のことはよく分からないんですが、人生を一緒に歩む誓いを立てることのできる人と出会えたことは、奇跡だと思うんです。だから、その気持ちを大切にして欲しいです」
「ありがとう。こんなふうに話ができてよかったわ」
「私もです。生意気なことを言ってしまってすみません」
「いいのよ。年齢とか職場の上下関係は、今は関係ないわ。女同士、本音を言い合いたかったの」
 奈々と笠間の間に明るい兆しがようやく訪れた。迷い込んだ迷路は抜け出てみると案外単純なもので、ただちょっと小難しいトラップが仕掛けられていただけだった。
 きっと今までのことは、ほんの少しの迷いと錯覚とあとは……妬み? 隣の芝生は青く見えてしまうもの。また、時に過去の恋愛が美化されることもあるのだから、元彼や元彼女という存在は厄介だ。

 コーヒーを飲み終わったふたりは仲良くカフェを出た。少し冷たさを感じる風が夜の街を覆っていた。
 もう少しすると冬の第一陣の使者がやってくる。空もどことなく澄んでいるように思う。
 ひとり、マンションに向かう奈々の心は温かさで満ちていた。ずっと打ち解けることのできなかった笠間との関係に変化が生じた。
 笠間の向かう先は、奈々たちとは別々な方角。彼女は新しい世界へようやく歩き出せた。
 それは奈々も同じだった。桐生と笠間の過去はもちろん気になるところだが、前だけを向いて行こうと、この清々しい空気を思い切り吸い込んだ。
            




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