1.敏腕マネージャー(003)

 
 それから二日間はオープン準備。
 その間、奈々と桐生との間には、ほとんど会話らしい会話はなく挨拶程度。奈々からは、馴れ馴れしく声をかけることもできず、そうかと言って話しかけられることもなく。桐生の近寄り難い雰囲気は健在だった。
 そんな中、いよいよオープンが明日に迫った。
 夜の9時。仕事を切り上げる時間になると桐生が従業員を集める。
「いよいよ明日はオープンです。オープンから数日の間はお客様がたくさんいらっしゃることが予想されますが、他店舗から応援も入りますので、頑張って乗り切って下さい。応援の者はサポートをよろしく。それから社員の者は売上目標を意識して必ず達成できるように努力すること」
 社員には売上目標が課せられる。店長が不在のままオープンするこの店は社員の森にその責任がのしかかっていた。
 しかし実は森はまだ入社一年目である。そのため森にとってこのプレッシャーはまだ実感がなく、自分に向けられている言葉だと分かってはいたが、どこか他人事のように聞き流すだけだった。
「森! お前に言っているんだぞ。分かっているのか?」
「は、はい!」
 桐生の厳しい叱咤に森は背筋をピンと伸ばす。プレッシャーというよりは桐生の低い迫力のある声に焦っただけと言った方がいいが。
「売上達成できなかったときは、森、お前が責任取れよ」
「責任、ですか?」
「方法は自分で考えろ。頭を丸坊主にしてもいいし、俺の酒につき合うのもありだな」
「そ、そんな……」
 桐生の冗談に森は本気で落胆する。周囲の人間はクスクスと笑い、奈々も必死に笑いを堪えていた。
 浅黒い肌で柔道選手のような体形の森は、どちらかというと童顔で人懐っこい感じの容姿。おっとりとしていている上にまじめな性格もあって、社員のわりにはがつがつしていない。
 でも、この店のスタッフはバランスがとれている。森のおっとりした部分は塚本の気配り上手なところと、工藤の要領の良さでフォローできる。たどたどしさはせいぜい一年目くらいなので、二年目以降は森の成長に期待するところ。
 それより店長はどんな人なのか、まだ分からない。いったいどんな女性なのだろう。奈々は不安が入り混じる期待を抱き、明日から頑張ろうと気合いを入れた。


 その日の仕事が終わり、奈々がマンションに帰ったのは夜の9時半過ぎだった。
 さすがに疲れたと思ったが、明日のバイトの出勤は大学の授業の関係で15時。大学の授業も二時間目からなので朝は少しゆっくりできそうだ。そう思いながら、奈々は携帯電話を手に取った。
 今の時間、大丈夫かな?
「もしもし、優輝(ゆうき)?」
『どうした?』
「さっきバイト終わって帰ってきたとこなんだ」
『そっか。お疲れ。で、どうだった?』
「忙しくて大変。でも今度の夏休みにそっちに帰るから頑張ってバイトしなくちゃ」
 奈々の彼氏、葛野優輝(くずのゆうき)は、奈々と同じ高校を卒業したあと、地元の国立大学に進学。上京して私立大学に進学した奈々とは離れ離れになった。
 優輝には夢があり、地元に残ることを決めた。教育学部の彼の将来の夢は中学教師。
 もちろん同じ大学に行けたらどんなにうれしいか。でも国立大学志望の優輝と同じ大学に進学することは奈々にとっては無理な話。それに以前から奈々は、高校を卒業したら地元を出ることを希望していた。何日も悩んだ結果だった。
 私は私の道を進む、奈々はそう決めたのだ。
 自分たちで選択した遠距離恋愛。でも離れることは辛かった。引越しの前の日は号泣し、馬鹿な選択をしたと後悔した。
 今では東京での生活に慣れたものの、会いたい気持ちは募るばかり。
 最後に会ったのは5月の連休。優輝が会いに来てくれた。優輝が帰る日にも号泣し、だいぶ彼を困らせてしまったけど、一緒に過ごした数日間は最高の時間だった。
「たくさん会いに行けるように、バイトを頑張るね」
『俺も。なるべく会いに行ってやるから。だから、無理すんなよ』
 やさしい声が耳元に届いた。優輝の励ましが、逆に苦しい。
「……うん」
 早く、会いたいよ……
 奈々は、携帯を握り締めながら、切なくなる思いが通り過ぎるのを待つしかなかった。


 ◇◆◇


 オープンの日がやってきた。今日は金曜日。
 しかし、15時に出勤した奈々は着いて早々、びっくりさせられた。お店に入ると洋服がぐちゃぐちゃに入り乱れ、まるで泥棒に入られたあとのよう。お店は平日にも関わらず、たくさんの人でごったがえしていた。
「おはよう、工藤さん。かなりすごい状況だね」
「おはよう。この通りだよ。取りあえず商品整理に取りかかるようにだって。桐生マネージャーの指示だよ」
 今日のスタッフは総勢八名。ふたりのスタッフがレジにつき、残りのスタッフは品出しと商品整理の担当だった。
 それにしても、これだけ滅茶苦茶だと、どこから手をつけたらいいのか。そう思いながらも、さっそく商品整理にとりかかる。
 アパレルのお店でアルバイトとしてのメインの仕事は洋服をたたむこと。単純作業だけど大切な仕事。何時間もひたすら洋服をたたみ続ける過酷な労働なのだ。
「佐藤さん! こっちお願い」
 ふいに名前を呼ばれて振り向くと、桐生がレジに入るところだった。それはサポートに入るようにという合図。
「はい!」
 奈々はまだレジ操作を任されていない。オープンセールの忙しい期間のレジは慣れている社員が入るようになっていた。その代わりに隣で商品を袋に入れてお客様に渡すサポートはアルバイトの人間も入ることはできる。
「一万円をお預かりいたしましたので二十円のお返しとなります。お確かめ下さい」
 桐生の対応は普段の雰囲気とは打って変わり、ゆるやかなテンポの言葉づかいと仕草。何より低音ボイスが色っぽい。そして無駄のない動きと会話を聞きながら、仕事のレベルの高さに圧倒されていた。たったそれだけのことでも、伝わってくるものはあるのだ。
「お待たせいたしました。こちら商品になります。ありがとうございました」
 ドキドキする。でも、それと同時に尊敬もできる人だ。クールな顔の下の意外な一面を知り、奈々は隣でサポートをして身が引き締まる思いだった。

 それからは仕事に追われ、お客様に追われ。慌ただしく過ぎていき、驚きの連続のオープン初日はとんでもない状態のまま閉店時間をむかえた。
 お店の中はぐちゃぐちゃ。陳列棚はもちろん、ワゴンの中の商品も悲惨な有様。
 そんな中、社員の森がレジ締めを行い、売上金額の確認をしている。今日の売上目標は50万と言っていた。郊外型の店舗の上、ひとつひとつの単価が安いこのお店にとっての目標金額は他店舗に比べるとかなり低い数字らしい。
 長いレシートを手にとった森がニヤリと白い歯を見せた。
「今日の売上は60万3840円です」
 客のいない売り場にちょっとした歓声があがった。目標はクリアできたようだった。桐生も腕組しながら満足気。
「よし! ただし今日は初日だからな。明日以降が勝負だ。それから、今日はすべての商品整理が終わるまで帰れないぞ!」
「はぁ〜」
 桐生のその言葉を聞き、みんな一斉に溜息をつく。
 しかし落胆しながらも、なんとか協力してその日の仕事を終えることができた。
 疲労感は残るものの、それは気持ちのいい疲れ。みんなでひとつの目標に向かう達成感は学生でありアルバイトの奈々にも十分な刺激。社会の中に混ざり、少し大人の世界を垣間見た気分にもなった。


「佐藤さんもお疲れ様」
 帰り支度をしていたら桐生が近寄って声をかけてきたので奈々はびっくりして見上げた。
「お、お疲れ様でしたっ」
 いつもより甘い雰囲気を漂わせているような、角が取れて丸くなったような桐生の雰囲気に戸惑いながらも、やはり緊張の方が勝ってしまい、声が上擦ってしまった。
「疲れただろう?」
「はい、少し」
「立ち仕事も久しぶりだろう。今日はゆっくり休めよ」
「ありがとうございます。明日もよろしくお願いします」
 ちょこんと頭を下げる奈々。それを見た桐生は表情が緩んでしまうのを我慢した。やっぱり目が離せないなと、彼女の純粋そうな大きなこげ茶色の瞳と、揺れる柔らかそうな髪を見つめながら再確認していた。
 こんなふうに個人的感情を仕事に持ち込むなんて思いもしなかった。そもそもオープン準備のときから彼女の仕事を手伝うようなことをしてしまうほど目をかけてしまう時点で、自分の抑制が効いていない。
 しかし、ゆっくりと動き出す自分の感情を感じつつ、一時的な気の迷いなのだと言い聞かせてもいた。
 愛情なんていずれ消滅していくもの。
 女性と長続きしたことのない桐生にとっては、それも仕方のない感情だったのかもしれない。
            




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