1.敏腕マネージャー(005)

 
 それからみんなで居酒屋の外に出る。
 森と工藤は一緒に飲み直す話をしていた。笠間と美樹は帰るらしく、当然お酒を禁じられている奈々も帰るしかない。
 そう思っていたら工藤から「これから飲み直すんだけど、どう?」と誘いを受けた。
 みんなともっと仲良くなれる機会だから行ってみようかな。
 奈々はそう思い、OKの返事をしようと思っていたら、そのタイミングに落ちてきた低い声がそれを阻んだ。
「佐藤さんはここで解散」
 その声に振り向くと無表情で立っている桐生。言葉数もあまりにも少なくて考えが読めないせいで、工藤が黙り込む。
「もうこんな時間だろ。早く帰れ」
 確かに今の時刻は24時近く。そろそろ終電もなくなる頃。
「でも少しくらいなら大丈夫ですけど……」
「未成年が二次会に参加してどうする?」
 奈々は、どうもしませんけどと言い返そうとして躊躇した。それは目の前の桐生があまりにも冷静にこちらを見ていたからで……
「そうですね。未成年を誘っちゃまずいですね」
 雰囲気を察した森がその場を取りつくろうように言うのだが、奈々は不満が残った。
 二次会くらいいいじゃないと思うのだが……
「じゃあね、奈々ちゃん」
「佐藤さん、二十歳になったら、行こうぜ」
 しかし、そう言い残した森と工藤についていくことはできず、繁華街に消えていくふたりを黙って見送るしかなかった。

 あとに残されたのは桐生と崇宏、そして笠間。美樹やほかの面々はいつの間にか夜の雑踏に見えなくなっていた。
「駅まで送るから今日は帰れ。崇宏、佐藤さんを駅まで送ってくるから、それからでもいいか?」
「もちろん。俺も一緒に駅まで行きます」
 ふたりはやっぱり二次会へ行くようだ。奈々は送ってもらうことに気が引けて慌てて断ろうとする。
「私ひとりで大丈夫ですよ。おふたりで飲みに行くんですよね。だったら、どうぞ行って下さい」
 せっかく飲み直すのを邪魔するのは悪いと思ってそう言ったのだが、桐生は構わず駅に向かって歩いて行く。
 私の声、聞こえなかったのかな?
 桐生の後ろ姿を見ながら不安がっていると崇宏がにっこりと笑う。
「ほら行くよ。早く行かないと桐生さんに怒られちゃうから」
「……はい」
「笠間店長も駅までですよね?」
 ずっと黙っていた笠間に、崇宏が振り向いて言った。
「いいえ。旦那が迎えに来るの」
「ああ、そっか。そうですよね。笠間店長は新婚さんでしたよね。邪魔しちゃいけませんね」
 崇宏の言葉に、笠間は疲れたように愛想笑いを浮かべた。
「それじゃあ、崇宏くん。佐藤さんのこと、よろしくね」
「はい。お任せ下さい。それじゃ、笠間店長もお気をつけて。俺たちはここで失礼します」
 崇宏は明るくそう言うと、ぼーっと突っ立っていた奈々の背中をぐんぐん押した。
 仕方なく従うことにした奈々は、笠間に挨拶をすると、崇宏に引っ張られるように桐生のあとを追った。

「佐藤さん、別に気にしなくていいよ。桐生さんは佐藤さんが心配なんだよ。ほかの男に声をかけられやしないかって」
「そんなわけないですよ。だいたい声なんてかけられたことありませんから」
「でも桐生さんは、そうは思ってないみたいだよ」
「え……?」
 聞かされたのはキャラからは想像つかないこと。驚きのあまり桐生の背中を見つめていると……
「おい、余計なこと吹き込むなよ」
 ぼそっと聞こえてきた声とこちらを振り向く強面(こわもて)の顔に、もう一度驚かされた。それに対し崇宏は「はいはい」と軽くあしらう。
「桐生さんて怖いねえ。ね? 佐藤さん?」
「……」
 さらに無茶ぶりをされて奈々は無言になる。本人を目の前にして肯定できるわけない。
「ははっ! 佐藤さんて素直」
「何も言っていませんから!」
 しゃあしゃあとした口調の崇宏に押され気味になりながら、慌てて否定するけど崇宏はすぐに話題を変えてきた。
「それにしても佐藤さんは彼氏とうまくいってるの?」
「はい。うまくいってますよ」
 また、その話題なのかとあきれながら、隠しても仕方がないので正直に言った。でも、そんな奈々につけこむように崇宏はさらに続ける。
「彼氏はどんな人?」
「どんなって……地元の大学に通ってます。高校の同級生だったんです」
 崇宏にこれ以上詮索されたくないと思い簡単に答えたが、そんな思いを知らずに、なおも崇宏はそのネタを続ける。
「でも相手の男は佐藤さんと同じ大学一年でしょう? 佐藤さんもそうなんだから少なくともあと四年間は地元に帰れないわけだし。そんな長い間、離れることに男が耐えられるかなあ?」
 一番、痛いところを突いてくる。それは奈々にも分かっていた。確かに四年という年月は大きい。なるべく考えないようにしていたことだが、それが重くのしかかっていた。
 すると前を歩いていた桐生が突然振り向いた。
「崇宏、お前には人の恋愛にいちいち口出す権利はないだろう。上京することは佐藤さんなりにいろいろ考えての選択だったんだから、余計なことを言うな」
 ジーンと奈々の胸に響いた。短い言葉だったが、それは奈々の気持ち、そのままだった。
 葛藤の末の決断。簡単な選択ではない。大人になると避けられない事情が増えていくものだし、ましてや大学のために上京してきたのだから仕方のないことだ。

 実は桐生にも遠距離恋愛の経験があった。
 わずかな期間ではあったが、そんな恋愛をしていたのを思い出した。もう何年も前になるが、それでも今の会社に入ってからのことだ。
 それについて、本気の恋だったかと自問自答すると、そうだと断言できるものではなかったかもしれないと、歩きながら桐生は昔を思い出していた。

「桐生さんの言っていることは分かりますけど、桐生さんも男の立場として、そう思いませんか?」
「お前が言いたいのは遠距離恋愛とは違う意味の方だろ」
「まあ、性欲ってことですけどね」
 そう言うと崇宏は、桐生の耳元で、小声で言った。
「あ、でも桐生さんにとっては、この状況は好都合かもしれませんね」
 おそらく奈々には聞こえていないだろうとは思うが。
「崇宏!」
 また余計なことを、と桐生は崇宏を鋭い眼で睨みつけた。
 でも、そんな威嚇も崇宏にとっては怖いものでもなんでもなく、あっけらかんとして口角を上げて笑っていた。
 その生意気な顔を見ながら、あんな男に話すんじゃなかったと桐生は後悔の中にいるが、黙っていても勘のいい男だから時間の問題だったなとも思う。
 そばに彼女を置いておきたい……
 その感情が決して一時的な気の迷いではなく、本気の恋愛感情だというこに、いい加減自分でも気づいていた。そして、彼女をアルバイトとして採用したことも自分の個人的な感情は一切なかったと言い切れる自信もなかった。

「佐藤さん、崇宏の言うことは聞く耳を持つ必要はないからな」
 と桐生に言われても、男性の本音を聞いてしまった奈々は気になって仕方がない。
「は、はあ……」
 男の性欲という崇宏の鋭い指摘が頭から離れなかった。

 そんなことをぼんやりと考えていると、あっという間に駅に着き、三人は改札の前で立ち止まった。桐生たちとはここでお別れ。奈々はふたりに向かって頭を下げた。
「わざわざ送って頂いてありがとうございました」
 年上の、しかもいい男ふたりに護衛のようにつかれて、バイトの身分の奈々にはすごく贅沢な状況に思えた。
「いいよ。むしろ無理やり、送ったんだし。それに本当は家まで送らなきゃいけないくらいだよ」
 崇宏が機嫌よく答えた。
「そんな、とんでもないです。さすがにそれはお断りしますから」
「佐藤さんてなかなか奥ゆかしくていいね」
 相変わらず、崇宏の心がこもっていないようなセリフにうんざりとする奈々。なんとか笑ってかわして見せるのだが、どうしても引きつってしまう。
「そういうところも可愛いね。ねえ、遠距離の彼氏と別れたら俺とつき合わない?」
「からかわないで下さい」
「からかってなんかいないよ。その気にならないなら、友達からでもいいし」
「私、別れる予定もありませんから」
「うん。だから別れたらの話だよ」
 人が溢れかえる駅の構内で、奈々は困り果てていた。
 救いを求める先は桐生しかおらず、彼を見る。だが、あきれているのは桐生も同じだったようで、冷たい視線を崇宏に送ったままだ。

「例え別れることがあっても、友達からもありえませんから」
 奈々は仕方なくはっきりと言うが、崇宏はさらに食いついてきた。
「俺じゃダメなの? なら、どんな人がタイプなんだよ?」
「どんなって……落ち着いていて包容力があって、しっかり自分を持っている人です」
 奈々は優輝のことを思い出しながら言ったのだが……
「それって、まんま俺と桐生さんじゃん」
「え──」
 思わぬ返しに、言葉が続かない。だが、ここまでくるとさすがの桐生も黙って見ていることができずに、ようやく口を開く。
「崇宏。佐藤さんが見事に引いてるの、分かんねえのかよ?」
「嘘? 佐藤さん、引いちゃったの?」
 奈々は黙って頷く。
「だいたい、崇宏には美容師の女がいるだろ」
 まさかの彼女持ちに奈々は目を見開く。
「やっぱり、からかっていたんですね」
「さっきも言ったけど、こいつの言うことは九割は無視していいからな」
「ほぼ、ですね」
「そう。佐藤さんは大丈夫だと思って口を出さなかったけど、たまに間に受ける女がいるんだよ」
 “サイテーな男だ”という目をしていたのだろう。奈々のそんな反応に崇宏はようやく諦めがついたようだ。
「ごめんね。でも可愛いなと思ったのは本当だから」
「崇宏! いい加減にしろって言っているだろう」
 桐生が崇宏をたしなめる。
「桐生さんて彼女のことになるとすぐムキになりますよね」
「大事なスタッフをお前みたいな奴から守るのも俺の仕事なんだよ」
「そんな仕事をしているところ、今まで見たことないんですけど?」
「お前がしつこいからだよ」
 奈々はふたりのやり取りを唖然と眺めながら、帰るタイミングが計れないでいた。しかも、ムキになるとか、守るとか。自分のことをあれこれ言われて、ドギマギとしてしまう。
「とにかく崇宏は、黙ってろ」
「分かりましたよ。もうちょっかいかけませんから」

 そしてようやく……
「変なのがついてきて悪かったな」
「いいえ。でも仲がいいんですね」
「あいつと? まさか」
「でも、よく、おふたりで飲みに行かれる話を聞きました」
「仕方なくだよ。崇宏は酒が強いから」
「そういうことですか」
 だけど仲はいいんだろう。桐生にあれだけの口をきける人間を初めて見た。
 しかも崇宏はフリーターでバイトの身分。でも逆に、そういう間柄だから気軽さが生まれるのかもしれない。

「気をつけて帰れよ」
「はい」
 見送られる視線は甘くやさしい眼差し。
 アルコールが入っている分、今の桐生は口数が多く、それまで感じていた威圧感はなくなっていた。近寄りがたさが少し薄れ、その分落ち着いた大人の魅力というものが際立ってくる。
 年上の働く男性というと父親くらいしか知らない奈々にとって、桐生のような立場の人間は初めて接する部類。
 奈々は小さな興味がわき起こるのを胸の奥で感じていた。
「じゃあ、また明日ね、奈々ちゃん」
 急に崇宏が下の名前を呼んだことでぴくりと動いた──のは桐生の眉。
「……はい。お疲れ様でした。では、失礼します」
 奈々は名前で呼ばれたことを気にしないように桐生にも挨拶をした。
 ひらひらと手を振る崇宏を見ながら仕方なく自分も手を振り返す。
「ふう……」
 それから溜息をひとつ吐いて、改札を通り抜けた。なんだかんだ言っても楽しかったが、最後にどっと疲れが押し寄せてきたのだった。

 奈々は帰りの電車の中で笠間や崇宏に言われたことを思い出していた。
 優輝とは遠距離恋愛になることを覚悟しての受験だった。離れることにも大きな不安を抱えていた。その不安は今も同じ。この先どうなるかも分からない。
 もし、優輝が他の誰かに心を奪われてしまうことになったらと考えると、今のこの遠く離れた距離に自信をなくしてしまう。

 やがて電車が最寄り駅に着く。
 遅い時間だったけど家に帰る途中、優輝に電話をしようと思った。ごめんねという感情が溢れてきた。とにかく声が聞きたかった。
 でもそれと同時に崇宏の言葉が頭を過る。
『そんな長い間離れることに男が耐えられるかなあ?』
 優輝はどう思っているのだろう。
「私との将来を考えることはあるのかな?」

 電話はすぐにつながった。最近、優輝は忙しいらしく、たまにつながらないこともあったのでほっとした。
『俺はバイト終わったとこ。どうした? こんな時間に電話してくるなんて珍しいな』
「今日、バイトの顔合わせの飲み会があったんだ」
『そっか。そういえばバイトはどう?』
「もうだいぶ慣れたよ。スタッフの人ともだいぶ打ち解けられたし」
『……えっと、それ男も?』
 心配そうに尋ねる。
「ふふっ。男の子もいる」
『マジで!? それ、やだなー。あんまり他の男と飲みに行くなよ』
「心配?」
『心配に決まってんだろ。奈々が口説かれやしないかとか、考えるよ』
「大丈夫だよ。そんなこと、どうせされないもん」
『どっちにしても誰にも渡さないけどな』

 優輝は奈々の不安をよそに、こうして奈々を喜ばせ、安心させてくれる言葉をくれる。
 芽生えてしまった不安はずっと見ないふりをしてきたこと。ちゃんと考えていたし分かっていたことなのに。いざ他人に指摘されると、蓄えてきた意志がしぼんでしまいそうになる。
 でも、ダメだ、ダメ。弱気になっても仕方がないんだ。
 だけど優輝も不安なのかな? 私は他の男の人になんて興味ないのに。
 私の言葉と思いはちゃんと優輝に届いている? 不安なら何度でも言うよ。好きの気持ちを。

「私も。優輝のこと、誰にも渡したくないよ。それくらい好きなんだから」
 奈々は自分の迷いを吹っ切るように、ありったけの気持ちを込めて言った。
            




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