2.見えない亀裂(006)

 
 形あるものはいずれ消滅する

 人の心もそういうものなのかな?

 地球上の自然が風化していくように、人間の感情にも何かが作用してもろくなっていく……

 だとしたら、誓いを立てることは無意味なの?

 ニセモノのただの自己満足の行為?


 ◇


 オープン当初のあの盛り上がりから一変。日に日に売上も少なくなり、手伝いに入ってくれていた他店舗の人たちの応援も必要なくなった。
 奈々は大学の夏休みを控え、もうすぐテスト期間にさしかかろうとしていた。
 アルバイトは週末中心の出勤。家庭のある塚本が土日に休めるようにシフトが組まれていた。あとは平日の週に数回、夕方から夜まで短時間で入るようなシフトだった。
 そんなとき、塚本と工藤、そして店長の笠間との間にちょっとした溝が生まれる出来事がおこる。

 確かにお店は忙しかった。
 しかし、オープンよりも確実に売上げは落ちている。それにも関わらず客数はそれなりに多かったためか、忙しいと判断した笠間が新たにアルバイトを募集してフリーターの女の子を雇ってしまったのだ。
 雇われた女の子は派手目な子で、奈々よりもひとつ上。夜は水商売のお店でも働いていて、奈々のひとつ上とは思えないほど大人っぽい。
 そんな彼女は奈々にとってはお姉さん的存在。名前は野村彩夏(のむらさやか)。奈々はそんな彼女が大好きだった。
「彩夏さん、夜も働いているなんてすごいですね」
「普通だよ。私のまわりの子たちはみんなそうだよ」
「へえ。そうなんですか」
「奈々ってお嬢様なの?」
 奈々があまりにも不思議そうに言うので、彩夏が本気で尋ねた。
「違いますよ。お嬢様だったらバイトなんてしていませんから」
「それもそうか。なら、もしお金に困っているなら、そっち系のバイト、紹介しようか?」
 彩夏が冗談まじりに言う。
「もう! そういうバイト、私には無理に決まっているじゃないですか」
「そんなことないよ。純朴そうな子の方が男受けがよかったりするんだよね、これが」
「でも、やりません! それより水商売の仕事をしている人はもっとすれた感じだと思っていました。だけど、彩夏さんはやさしいし頼もしいし、全然そうじゃないんですね」
「すれているって……いつの時代よ。今はね、そういう職業の子は東京に溢れかえっているよ」

 彩夏はとても気さく。年下の奈々にも気軽にいろいろな話をしてくれる親しみやすい人だった。
 彩夏の掛け持ちのバイトはカラオケパブ。キャバクラでも働いたこともあるそうだが気質に合わず、今の店を選んだそうだ。
「どんなところなんですか? カラオケパブって?」
「普通のスナックと一緒。別にキャバ嬢みたいな接待をするところじゃないよ」
「なるほど。なんか勉強になります」
 奈々が慕ってくるように彩夏も奈々を妹のように思っていた。可愛いなと、自分とは真逆の性格の奈々がうらやましくもあり、でも好感も持っていた。

 しかし、平穏な日々は長くは続かなかった。
 それからほどなくして、ますますお店の売上が落ちはじめ、笠間はスタッフのシフトの調整を行う。その結果、パートの塚本やフリーターの工藤のシフトが大幅に減ることになった。それは、彩夏が雇われた分の削減だった。
 もちろん、奈々も例外ではない。さっそく、笠間に呼び出されたのだった。
「月にどれくらいの金額を稼ぎたい?」
「どれくらいと言われても……学生なのでそんなには……」
 バイトの時間を減らして欲しいという打診だと分かっていた。塚本たちのことがあるので、奈々はとても強気になれない。
「できれば塚本さんや工藤くんのシフト時間を、前ほどとはいかないけど、できるだけ維持させてあげたいの」
「私は土日だけでもいいですよ。あとは笠間店長にお任せします」
 そう言って了承するしかなかった。笠間の目的がそれなのだし、どちらにしても大学のテストもはじまる頃だったので、ちょうどよかった。
 それに、最初こそ平日にバイトを入れようとは思っていたけれど、大学の授業もあったので、土日を中心に入れればいいかなと思いはじめた時期と重なったこともあり、思ったほど影響を感じなかった。

 だけど、やはり塚本には不満が残ったらしい。
「笠間店長はいったい何を考えているのかしら。私が新しいバイトを雇うことに反対したのに勝手に雇っちゃうんだもの。私はいいわよ、パートだから。でも、かわいそうなのは工藤くんよ。あの子、フリーターとしてこの仕事で生計を立てているわけだから、バイト料が減ってしまうと困るでしょう」
「でも、だいぶお店も忙しかったですし、笠間店長も焦っていたんじゃないですか?」
「そうなのよ。でもね、店長ならもっと先を読まないと駄目なのよ。オープン時は忙しくてもいずれ客数は減るの。そんなことも考えないで“忙しいから”といって次々に新しい子を雇っていたら利益がでないわ」
 塚本の言っていることは正しい。確かに笠間の考えは甘い。それは奈々も思っていた。
 笠間が店長としてお店を任せられたのはこのお店が初めてだったらしく、26歳の笠間は同じ会社の同世代の人と比べると少し遅い出世。この会社はもっと若いうちから店長になる人が多かった。
 笠間が店長になるのが遅かった理由は、奈々はもちろん知るところではないが、少なくとも笠間は少し頼りないところはある。実際の性格は別として、控えめな見た目が余計そう見えるのかもしれないけれど。


 ◇◆◇


 やがて大学のテスト期間となり、奈々はしばらくバイトを休ませてもらった。でも、奈々が休むことで、ほかのスタッフのシフトが埋まる。皮肉なことに、逆に気兼ねなく休めるのだった。
 大学での初めてのテスト。学校と家との往復の日々。勉強漬けの毎日は受験勉強以来。しかし必死にならないと、上京した意味、遠距離恋愛になった意味がなくなってしまう。

 そんな張り詰めた日々も最終日となり、最後のテストを終えた奈々は、久しぶりに大学の友人である前田弥生(まえだやよい)に誘われていた。
「ちょっと高いけど絶品なんだよ」と弥生が絶賛するのは駅の近くにあるフレンチレストラン。ワインが似合うそのお店は、ランチメニューが平日限定で格安だということで連れて来られた。
 日替わりプレートランチは二千円でおつりがくるほどのお手ごろ感。この日のメニューはイベリコ豚のハンバーグとほうれん草のスープ、シーザーサラダの生ハム乗せだった。
「すごーい。贅沢な気分」
「そうでしょう。それにディナーとなると入りにくいけど、ランチだったら女同士で気軽に食べに来ることもできるしね」
「お店の雰囲気もいいよね。落ち着いた雰囲気だからリラックスできる」
 弥生と親しくなったきっかけは奈々と同様に地方出身という点。生活のこと、お金のことなどの同じ悩みを抱えていて、そんな共通点からか、相談し合ううちに次第に仲良くなったのだ。
 でも、お互いに東京での生活も慣れはじめた時期。次第に話題は恋愛に移りつつあった。
「奈々は夏休みは実家に帰るんでしょう?」
「うん、もちろん」
「うれしそうだね。当たり前か。優輝くんに久しぶりに会えるんだもんね」
「まあね」
 どうしても顔に出てしまう。ここのところ、考えることはそればかり。でも、一度のろけてしまうと止まらなくなりそうだったので、なんとか冷静に答えた。
「弥生も帰るんでしょう?」
「そのつもり。でもバイトもあるしそれ次第かな。奈々はバイトの休みは決まったの?」
「まだなんだ。早く日程を決めて、店長に連休を申請しておかないと」
「なら、ゆっくり会えるね。いいなあ。どこに遊びに行くの?」
「さあ。田舎だし、東京みたいなデートスポットなんてあんまりないよ」
 久々のランチはこんなふうに奈々の恋バナで花が咲く。いつもよりかしこまった食事とはいえ、ふたりともまだ十代の学生に過ぎない。


「おいしかったあ。たまにはこういうお店もいいね。また来たいなあ」
 食事を終え、店の外で奈々は満足気。テストも終わって、あとは楽しい夏休みが待っている。そう思うと自然とテンションも上がる。
「次は別なところにしようよ。奈々のために、いいお店を探しておくね。いくつかいいところがあったんだ」
「デザートが充実しているといいな」
「りょーかい。まかせてよ」
 弥生が得意気に言った。おしゃれな弥生は、お店のチョイスもセンス抜群。奈々よりも断然、詳しい。

 その後、これからバイトだという弥生とその場で別れた。
 ひとりで駅に向かう奈々は絶品だったランチの味の余韻に浸ることなく、さっそく夏休みの計画を立てようと、あれこれプランを頭の中に浮かべていた。
 でもその前に休みの確保をしなきゃ。
 優輝もバイトをしている。彼の休みはいつなのかも確認する必要がある。
 奈々は、とりあえず優輝にメールをすることにした。
 だけどメールを送って三十分。
「バイトが忙しいのかな?」
 返事がこない。不安になって何度か電話をかけたのに留守電になるだけ。何度も機械的なアナウンスを聞いていると、苛立ちがだんだんと悲しみに変わっていく。

 結局、夜中になっても返事はこなかった。
 そういえば最近、優輝からの連絡が減ったような気がする。電話もメールも奈々からすることが多かった。連絡が取れないことも最近になってぐっと増えた。
 前はこんなことはなかったのに、どうしたんだろう。
 返事は必ずくれる人だった。これまでのことを改めて考えていると、いいようのない不安が募っていく。すぐに会えない距離がもどかしい。こんなとき、遠距離恋愛を選んだことを後悔する。
 だけど言えない。彼に愚痴を言える立場ではないと、奈々は唇を噛み締めた。
            




inserted by FC2 system