2.見えない亀裂(007)
弥生とのランチの翌日はバイトの日。奈々が夕方からバイトに行くと、その日は彩夏もシフトに入っていた。
彩夏さんだ!
シフトが減って最近あまり顔を合わせることがなかった。奈々は一緒のシフトでうれしいなと思いながら仕事に取りかかるが、お客様が引け、商品整理をしているときに、彩夏が気まずそうに話しかけてきた。
「あのさ……実は……」
「どうしたんですか?」
歯切れの悪い口調。いつもよりトーンが低い話し方をするのが気になった。
「本当は夜のバイトを減らして昼間の仕事を中心にしていきたいと思っていたんだけど、このままだと無理みたいじゃない?」
「どういうことですか?」
「ここを辞めようと思っているんだ」
突然の告白に目が点になる。
「嘘ですよね? だって、この仕事をはじめたばかりなのに」
「そうなんだけどね。でも、そうしないと塚本さんと工藤くんに悪いから。あとから入ったのは私だから、私が辞めればみんなうまくいくでしょう」
「そんな……彩夏さんが責任を感じることないのに……」
あまりのことに目を合わせられない。俯き加減で奈々はなんとか返事をしたが、彩夏は硬い表情のまま「もう決めたことだから」と言って仕事を再開した。
奈々は何もできない自分が情けなくて、立っていることしかできなかった。思うことは、彩夏は一見、派手で遊んでいそうな風貌だが、自分の置かれた立場を考えられる頭のいい人なのだということ。だから余計に残念に思えてならない。
そして、何もできずに一週間が過ぎ……
「彩夏さん……」
「奈々が泣くなんておかしいよ。私は大丈夫だから」
「でも……」
「明日、面接なの。次もアパレルのお店で働こうと思っているんだ。不採用になっても、ほかにもいろいろ探してみるつもり」
「採用になるといいですね。彩夏さんは、このお仕事に向いていると思います。だから、頑張って下さい」
「ありがとう。短い間だったけど楽しかったよ。おかげで、アパレルの仕事に興味が持てた。もっと真剣に頑張ってみる」
こうして彩夏がお店を辞めていった。笑顔でサヨナラを言って去って行ってしまった。
それでも前向きな彩夏を見て少しだけほっとしていたが、あまりの急展開で、塚本も工藤も複雑な心境だった。
揺らぐ信頼。そのせいで、その日から続く、笠間とスタッフの間の微妙な関係はずっと修復されることはなかった。
それでも、お店は何事もなかったかのように毎日営業している。
あれから優輝からも連絡がきた。大学の夏休みがはじまる7月の中旬に会う約束をすることができ、奈々は笠間に頼んで、その期間、休みをもらうことができた。
7月の中旬。生まれ故郷の駅に降り立つ。
5月の連休以来だから、どこも変わりがないはずなのに、久しぶりに見る駅の様子が少し別世界のような気がする。
それでもその違和感は改札を出るとともに薄れ、実家へと向かう途中のバスから見える地方都市の景色がやはり変わりないことに心が安らいだ。道沿いのビルもディーラーのショールームもレストランも街路樹も以前と同じだった。
実家に着いたのは夕方前。両親の出迎えのあと、奈々はすぐに幼馴染である島崎絵梨子(しまざきえりこ)に電話をした。
彼女は奈々の親友で、夏休みに帰省することは話していたが、それが今日ということは知らせていなかった。絵梨子とは、その日のうちにすぐ近くのコーヒーショップで会うことになった。
「急に連絡してごめんね」
「びっくりだよ。でも久しぶりに会えてうれしいよ」
「私も」
お互いにそう言いながら手を取り合った。
何も変わらないこの関係。家が近いこともあり、小学生の頃から絵梨子とは一緒に過ごした。家族ぐるみでのつき合いで、互いの家を行き来するのはもちろん、キャンプや海水浴もふたつの家族で一緒に出かけたものだった。
久しぶりに会う絵梨子は以前にも増して大人っぽく、長い髪はゆるく巻かれている。高校時代とは違い、丁寧なメイクも手伝って垢ぬけた印象だった。
「元気そうだね、奈々。ひとり暮らしはもう慣れた?」
「だいぶ慣れたよ」
「大学は?」
「友達もできたし、なんとかやってる。絵梨子は?」
「私も楽しくやってるよ。でも勉強はちょっと大変かな。わりと夕方まで授業があるから」
「そうなんだ。優輝も授業が大変なのかな? やっぱり夕方まであるの?」
「そうなんじゃないかな。でもそんなこと、本人に聞けばいいじゃない」
「優輝、あまり大学の話をしてくれないから。実際、いろいろどうなの?」
思い切って聞いてみた。
優輝と絵梨子は、学部は違うが同じ大学に通っている。普段、大学の話をしない優輝を不安に思い、信頼できる絵梨子を通して自分の彼氏の近況を知りたかった。
「うーん。どうって言われても……。大学にはちゃんと通っているよ」
「ほかの女の子にちょっかいを出しているとか、言い寄られている女の子がいるなんてことはないよね?」
「……それはないよ。奈々一筋だよ。優輝くんは……」
「本当?」
「当たり前じゃない」
笑顔を見せながら答える絵梨子だけど、いつもと様子が違う彼女が少し気にかかった。心当たりがあっただけに、胸にずしりとおもりがぶらさがるよう。
だけど、今は絵梨子の言葉を信じようと言い聞かせてもいた。そんな現実を見たくないと意識が勝手に遮断しようとしている。奈々はそのことに気づきながらも、自分に嘘をつき、心に蓋をした。
それからも話に夢中になった。バイトのこと、ひとり暮らしのこと、学校のこと。特に奈々にとって東京の生活は刺激的で、ちょうど生活にも慣れはじめた時期だったため、余計話が弾んだ。
陽がだいぶ傾いていたことに気づいた奈々が「そろそろ出ようか」と言い出すまで、それは楽しい時間だった。しかし、席を立とうとした奈々を静止するかのように絵梨子が声を発したとき、途端に重苦しい雰囲気に一変した。
「優輝くん……」
「え? 優輝がどうかした?」
「あ、ううん」
目を泳がせている絵梨子は誰が見ても怪しい。何を言いたいのだろう。
「ただ、いつ会うのかなあって思っただけ」
けれど、しばらく沈黙していた絵梨子が仕切り直すようにやさしい顔になったので、奈々もなんとか笑顔を作った。
「明日、会う約束してるよ」
「そっか」
「それがどうかした?」
「ううん、どうもしない。遠距離になっちゃったけど優輝くんとうまくいっているみたいで、よかったなと思ったの」
絵梨子が満面の笑みで言う。それを見て、奈々は気のせいだったのだろうかと思い直すことにする。
気にしない。気にしちゃ駄目。私たちは、うまくいっているのだ。遠距離恋愛になっても、お互いに好きの気持ちは変わらずに、今もちゃんと思い合っている。
家に帰ると、いつもより豪華な夕飯が出迎えた。
「いつもと違うんじゃない?」
なんだかんだ言っても両親はひとりっ子の奈々には甘い。夫婦の子育ての考え方の元、母親は、昔から奈々のために専業主婦をしていたので、小さい頃から奈々は寂しいと感じることもなかった。
「だってパパとふたりきりだと作り甲斐がないんだもの。こんなときじゃないと腕を振るう機会がないのよ」
「それじゃパパがかわいそうだよ」
奈々はそう言うが、父親は機嫌を損ねることなく、いや、むしろ上機嫌で言った。
「パパはママの作ってくれる料理ならなんでも口に合うからね」
「あらやだ。パパったら。やさしいんだから」
いつも明るい両親は奈々の自慢の両親で、奈々に甘いと言っても、常識や礼儀作法だけは厳しかった。挨拶はもちろん、華道の心得がある奈々の祖母に習い、お花を生けることも覚えさせられた。
漠然としたビジョンしか持っていなかった奈々が進学のために上京を決めたときも、いろいろな経験が人を成長させると快く送り出してくれた両親。こうやって帰ってくる場所があることは幸せだと思う。
例えば、ふかふかの布団。何気ない気遣いを感じられるようになったのも、家を出たからこそ分かること。おかげで、その日の夜は、くすぶっていた不安も忘れ、ぐっすりと眠ることができた。
次の日は優輝との待ち合わせの日。家まで優輝が車で迎えに来てくれることになっていた。
朝早く目が覚めた奈々はいつもより念入りに化粧をし、髪もアップにして気合いを入れてみた。
「おかしくないかな?」
鏡の前で何度も自分をチェック。心の奥でくするぶものがあっても、いざ会うとなると、気持ちが弾んでウキウキとなった。
そのとき、家のチャイムが聞こえた。
「優輝だ!」
奈々はバッグを持って急いで階段を駆け下り、玄関を開けた。
「お、おはようっ」
「おはよう。準備はいい?」
ドアを開けると優輝が立っていて、慌てていた奈々をふっと笑う。
「すぐ出られるよ」
「じゃ、行こうか」
すると、そこへ奈々の母親がやって来て優輝に声をかける。
「今日は車なの?」
「はい。でも安全運転を心がけるんで大丈夫です」
「そうしてね。それから優輝くん、奈々のことよろしくね」
心配そうに見守る奈々の母親。
「ママ、心配しないでよ」
「心配にもなるわよ」
「安心して下さい。車は乗り慣れていますから」
「そういうことなの。じゃあ、ママ、行ってくるね」
そして相変わらず心配顔の母親に見送られ、ふたりは家を出た。
「どこ行く?」
「決めてなかった」
「なら取りあえず、ぶらぶらドライブでもしようか?」
「うん!」
優輝の車に乗るのは初めてだった。初めての優輝の運転姿にさらに緊張する。
だけど、本人が言っていた通り、とても慣れた運転だった。いつの間に覚えたのだろう。自動車学校に通いはじめたのは高校卒業後だった。
「運転上手だね。よく車に乗っているってさっきも言っていたけど?」
「まあね。だって車がないと不便だろう。学校とか買い物とか」
「学校にも車で行っているの? 知らなかったよ」
優輝の言う通り、この地元では移動手段と言ったら車とバス。東京のように電車でどこにでも行けるような環境ではない。
進学をしないで就職をする人は、高校在学中から自動車学校に通うのが普通だ。会社に就職すると、どうしても車の運転が必要になってくる。
でも優輝が車を買ったことなんて、この間初めて知ったばかり。なんだか少し距離を感じていた。高校の頃はいつも一緒だった分、急に知らないことが増えたような気がする。
「水族館にでも行ってみる?」
しばらく車を走らせると優輝が提案してきた。
「水族館!? 行きたい!」
さっきまで下がり気味だった奈々のテンションは『水族館』という言葉に反応し一気に上昇。水族館は中学の修学旅行以来だった。
一度、好きな人と来てみたかった。水族館デート。そんな密かな憧れをこの数年間、ずっと抱いていた。
ナビをセットし高速に乗る。水族館へは車で二時間ほどの場所にある。
目的のICで降りると、すぐに海沿いの道に出た。それからほどなくして水族館に到着。館内に入ると夏休みということもあって親子連れやカップルですごい人だった。
「はぐれるなよ」
手を差しのべられて久しぶりに手をつないだ。
「なんだか不思議」
「どうしてだよ?」
「つき合いはじめの頃みたいな感覚」
「俺は逆だよ。こうしていると落ち着く」
そう言いながら指を絡ませ恋人つなぎに変える。重なり合う指と指。優輝の体温を感じる。
前から抱いていた不安を打ち消すように奈々が強く握ると、優輝も握り返してくれる。その手ごたえを確認しながら水族館を見てまわった。
「イルカショーがあるんだね」
「行ってみるか?」
「いいの?」
「なんでそんなこと聞くんだよ?」
「だって、時間がないから。なるべくいろいろなところをまわって、いろいろなものを見ないともったいないじゃない」
「どっちかって言うと、こうやって一緒にいるだけで十分だけどな、俺は」
おもむろに言われてドキリとする。
前はこんなことを言う人ではなかった。だけど、彼と同じ気持ちであることは、うれしい。
「優輝、変わったね。なんだかキザになった」
奈々は照れ隠しもあって、わざとからかった。
「うるせえよ」
優輝もふざけて奈々の前髪をぐしゃぐしゃにする。
「もう、やめてってば」
「奈々が悪いんだぞ」
そんなふうに、じゃれ合って、お互いに笑い合った。その様子はどこにでもいる恋人同士。奈々が乱れた前髪を気にしていると、優輝が手ぐしで直してくれた。
イルカショーの会場の入り口に着くと、案内板の前で時間を確認した。
しかし、開始までまだ時間がある。「どうする?」と奈々が言うと、急に優輝が顔を近づけてきた。
「あっ、ちょっと……」
「今なら誰も見ていないって」
優輝は耳元で囁いて奈々の後頭部を引き寄せると、あっという間に唇を奪う。
「ゆぅ……」
最初は抵抗していた奈々だが、そのうちにその気になって目を閉じて軽いキスをかわしていた。
人に見られるかもしれないのに優輝はいたってマイペース。この時間を思う存分楽しんで、やわらかい唇を堪能したあと、優輝がゆっくりと唇を離した。
目を合わせて現実に戻ると、奈々は急に慌て出す。
「やだ……子供が見ていたらどうしよう」
「今どきの子供だってキスくらいするよ」
髪に指を通されながら、やさしい瞳で見つめられる。
「つい、その気になっちゃったけど。だとしても、誰かに見られるのはイヤだよ」
「分かったよ。もうしない。その代わり、あとでな」
「昼間から、そういうこと、言わないでよ」
奈々は真っ赤になって、優輝の胸を叩いた。
だけど、うれしい。強引な優輝に戸惑いながらも、些細なことで生まれる幸せを感じていた。
離れていても互いに愛情は変わっていない、だからきっと私たちは通じ合っている。優輝のストレートな言葉は、自信を与えてくれた。