2.見えない亀裂(008)

 
「腹ごしらえに行くぞ」
 イルカショーを見学し、水族館をあとにすると、車の中で優輝が言った。
 そういえば、まともな食事をしていなかった。水族館に来る途中に休憩がてら軽く食べてはいたが、変な緊張と興奮ですっかり忘れていた。
 車を走らせパスタ専門店を見つける。
 中に入ると店内は奈々たちのような恋人同士と思われるお客さんばかり。専門店だけあって、豊富なメニューのお店。「いいお店だね」と、ご機嫌な奈々だった。
 しかし、「シェアしようね」と、ふたりでそれぞれ違うパスタを選び、運ばれてきた料理を仲良く分け合って食べていると……
「電話?」
 優輝の携帯が鳴った。
「あ、……うん」
 それだけだったら何も気に止めることもなかった。パンツのポケットから携帯を取り出した優輝は眉をひそめ、そうかと思ったらすぐに電源を落とし、それを再びポケットにしまうので、怪しさ満点だった。
「でなくていいの?」
「ああ。大学の友達だし、どうでもいい奴だから平気」
 そんなものなのかなと思いつつ、パスタを口に入れる。もちろん目の前でほかの電話に出られたら気分は良くないけど、逆にでない方が気になって仕方がない。
 大学の友達と言っても、みんな知らない人たち。高校時代とは違う優輝の人間関係に寂しさを覚えてしまう。
 そんな奈々の顔を見て優輝が笑った。
「なんて顔しているんだよ」
 目を細めながら右手を伸ばし、奈々の左頬に軽く触れた。奈々は子供のように頬を膨らまし、駄々をこねている素振りを見せた。
「だって、怪しいんだもん」
 そうは言っても、自分の左頬に添えられた大きな手が気持ちを落ち着かせてくれるから不思議だ。やわやわとほっぺたをいじられて、思わず顔がほころんでしまう。
「さっきの電話はただの友達だよ。デート中なんて言うと、からかわれるのがオチなんだ」
「嘘じゃない?」
「もちろんだよ。奈々だって食事を邪魔されたくないだろう?」
 結局、携帯の件はうやむやのままになってしまった。
 いったい誰だったのだろう。ただの友達からの電話に、あんな顔をするだろうか。
 奈々はさっきの優輝の変化を思い出し、再び言い知れぬ不安を感じていた。ふたりの関係に生じていた微妙なズレ。たった数ヶ月という期間。だけど、人の心が変わるのに、時間はそれほど重要ではない。


「このあとどうする?」
 食事を終えて車に戻ると、車を止めたまま優輝が尋ねた。
 時刻はまだ夜の7時。帰るにはまだ早い。そもそも優輝がこんな早い時間にそんなことを言う理由はただひとつ。
「もう少しだけなら大丈夫」
「少しだけ?」
「え?」
「今夜、泊まることはできない?」
「でも……」
「やっぱ無理か。なら、なるべく早く家まで送り届ける。その代わり俺の我儘をきいてほしい」
「優輝……」
 顎のラインに添えられた手の平の温かい感触に奈々は見上げた。
「な? いいだろう?」
 奈々が座る助手席に身を乗り出すようにして唇を二度三度と挟むように啄ばんだあと、優輝は瞳を向けながら言った。当然、艶っぽい眼差しを拒むことなんてできない。
「……うん」
 奈々がそう答えると優輝はギアをドライブに入れた。

 車はすぐラブホテルに入った。奈々にとって生まれて初めてのラブホテル。白い大理石の床とヨーロッパ調の雰囲気のロビーは思い描いていたラブホテルとは違っていた。
「すごい……シャンデリアだ」
「どの部屋にする?」
 ホテルの部屋のパネル写真を見ながら優輝が尋ねた。
「べ、別に、どこでもいいよ」
「じゃあ、ここでいいか?」
 白が基調の部屋を指さして優輝が言う。奈々はとにかく早く決めて欲しくて黙って頷いた。

 部屋に入ると、いきなり目に飛び込む大きなベッド。そしてテレビ、冷蔵庫、電子レンジを眺めながら一見、普通のワンルームマンションのような部屋だと感じつつ、生活感がない分、そわそわと落ち着かない。
 そんな様子の奈々を、優輝はブラックの合成革のソファに座らせ抱きしめた。
「どうしたんだよ。そんなに恥ずかしい?」
「だって、こんなところ、初めてだもん。ロビーで誰かと会っちゃったらどうしようかと思ってた」
「可愛いな」
 チュッと。優輝は笑いながら奈々の前髪をさらりと上げて、おでこにキスを落とす。じんわりと伝わってきた唇の熱っぽさが、瞬時に奈々をその気にさせていった。
 身体にまわされた締めつけは心地よく、それだけで奈々は安心する。なんて単純なのだろうと思うくらいに。
 不安や疑心はきっと幻だったのだとようやく思えるようになった。物理的な距離は大切だと思った。
 ずっと会えなかった分、これから会えない分を補うように優輝にしがみつく。甘えて時々キスをして、確かめ合うように感情が深まっていく。
 奈々の初めては優輝。優輝以外の男の人を知らない。肌にかかる息づかい、触れる髪の毛、体中を這う指先をひとつひとつ感じながら、求め合い寄り添い合う幸せを教えてくれたのは優輝だったということを実感していた。
「シャワー浴びてくるよ。奈々はどうする?」
「どうするって?」
「一緒に浴びる?」
「一緒に?」
「今までそういうの、なかっただろう。俺、奈々とそういうこと、してみたい」
「は? な、何言ってるの! そんなの、無理に決まってるでしょう! 私は優輝のあとで、いい!」
「ははっ。やっぱりな。そう言うと思ったよ」
 声を震わせながら拒否する奈々に、優輝は笑いながらそう言い残し、バスルームへと向かった。
 一緒にお風呂なんて想像がつかない。考えただけで恥ずかしい。
 ラブホテルすら初めての奈々なのだからそう思うのも仕方がない。奈々はそのことは身体を重ね合うこととは別のような気がしていた。
 気のせいかな? 今までの優輝と違うような気がする。急にあんなことを言うなんて。
 余裕のない奈々に対して優輝の慣れた態度。男の人は一緒に入りたいものなのだとしたら、優輝は、拒む自分をつまらないと思うのかなと不安に思う。ここのところの積み重なっていた心細さが、再び襲ってきた。
 でも優輝に限ってそんなことないよね。
 気を取り直すように息を吐いて、奈々は優輝の脱ぎ捨てたジーンズをたたもうと手に取った。でも、持ち上げた瞬間にポケットから落ちてしまった携帯電話が床のカーペットに弾かれて転がった。
「やだあ! どうしよう! 壊れていないよね?」
 慌てて携帯電話を拾い上げると、ピカピカと光っている。それは着信を知らせる光。
 とっさにバスルームの方を見た。最低かなと思ったが、どうしても抑えられなかった。人の携帯を見ることが悪いことなんて分かっている。でも一番の不安がそこにあるような気がした。どこか拭いきれなかったふたりの間にあった違和感の原因がきっとここに……
「ごめん、優輝……」
 シャワーの音がまだ聞こえるのを確認し、携帯のボタンに手を触れた奈々は、緊張しながら画面を見た。

 だけど……
「え? パスワード?」
 携帯がロックされていた。
「優輝が使いそうなパスワードはなんだろう?」
 でも、そこで我に返った。パスワードが分かったとして、メールを開いてしまうと携帯を盗み見たことがバレてしまう。
 だけど、おさまらない胸のざわつきに、このままどうしようかと思っていると突然、携帯が光った。それはメール着信の知らせだった。ディスプレイに写し出された文字には『広瀬』。
「広瀬?」
 男か女か分からない曖昧な表示。それが奈々の想像をかきたてた。
 食事をしていたときの電話の相手は大学の友達だと言っていた。
 その友達が女の子ではないとは限らない。だけど、最近、電話やメールの返事をマメにしてくれないのは、ただ忙しいだけだと思いたい。
 信じたい。だけど、確かめたい──
 衝動的に奈々は電話にでていた。無言で携帯を耳に当てていると、電話の向こう側から『もしもし』と、うかがうような声。
 女の人だ。聞き覚えのあるような、そんな気もした。
「広瀬さん? 優輝は今、電話にでられないの。あとでかけ直させるけど?」
 奈々は淡々と言う。すると思ってもいなかった反応があった。
『奈々なの?』
 驚いたように自分の名前を呼ぶ声に奈々も混乱した。
 どうしてこの人が私の名前を知っているのかと、頭の中で『広瀬』にまつわる記憶が呼び起こされ、そしてある人物が思い浮かぶ。
「えっ……広瀬さんなの? あの広瀬さん?」
 広瀬とは高校の同級生で、彼女は優輝と同じ大学に通っている。ただ問題は、高校の頃から彼女が優輝に好意を持っていたということ。
 女の勘が働いた。まさかとは思ったが、優輝のパスタ店での怪しげな行動は、電話の相手が彼女だからだと直感した。
 咄嗟に電話を切ってしまった。これ以上、彼女の声を聞きたくなかったからだ。
 携帯を握り締めたまま、その場に座り込み放心状態になる。思考がうまく働いてくれなくて、でも身体の中からは何かがすごい勢いで溢れてくる。感じたことのないような焦りと失望で身体が動かない。
 何度か手の中で光る携帯。でもしばらくすると、その光もなくなった。

「奈々? どうした?」
 シャワーを終えた優輝の声が聞こえてきた。
「ゆ……うき……」
 力なく呼ぶ声。携帯を手に持ったまま、放心状態の奈々に気づいた優輝が血相を変えて、奈々から携帯を取り上げる。
「俺の携帯! どうして勝手に持ってるんだよっ!?」
 機嫌の悪い口調の優輝。取り返した携帯を守るように握りしめていた。
「メールがあったの……」
「メール? あ、……そうか」
 携帯はロックされている。そのため奈々がメールの内容を見ていないと気づいた優輝は焦りを隠し、落ち着いた様子で答えた。
 奈々はそれが悔しかった。今日一日見てきた彼の笑顔が偽りだとしたら、どうしたらいいのだろう。
 真実を知りたかった。でも、知らずにいた方が幸せだったのかもしれない。
「広瀬さんとはいつから?」
「はっ? 何、言ってんだよ?」
「メールの相手、彼女でしょう? 彼女から、今、電話があったよ」
 優輝は携帯をいじりながら奈々が何をしたのか理解したようだった。厳しい顔をして目線を浮遊させている。きっと言い訳を考えているのだ。
「ふたりきりで会っているの?」
「違うから! 結花(ゆか)が何を言ったのか知らないけど、そんなのでたらめだから」
「結花? いつの間に名前で呼び合っているの?」
 溜息もでない。
 高校生の頃、同じクラスだった広瀬結花(ひろせゆか)。彼女が優輝のことを好きだということはクラスでも有名だった。そのため、奈々は高校時代から彼女の存在を疎ましいと思っていた。
 卒業後、アプローチしてきたのは恐らく彼女の方からだろう。彼女がそんなことをするのは高校時代の彼女を知っている奈々だからよく分かる。奈々という恋人がいるのにバレンタインデーにはチョコレートを手渡し、そのことが原因で優輝と大喧嘩したくらいだ。
 そんな彼女と連絡を取り合っている優輝。それが単なる友人関係とは到底思えなかった。血相を変えた優輝の顔がその証拠だった。
            




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