2.見えない亀裂(009)

 
 ──毎日、声が聞きたかった
 楽しいときも寂しいときも、いつも思い出すのはあなたのこと。戻れるなら戻りたい。あの頃の何も知らなかった頃に。
 裏切りが、絶望を伴うほどの悲しいことならば、知らない方がよかったよ。
「だから、これは……違うんだ」
「じゃあ、さっきの広瀬さんからきたメールを見せてよ。やましいことがないならいいでしょう」
「それは……」
 俯いて言葉をなくす優輝。その態度がすべてを認めてしまったかのように思えた。
「いつから?」
 もう一度最初の質問を繰り返した。
 奈々の淡々とした態度を見て、優輝もぽつりぽつりとしゃべりはじめる。
「6月の終わりごろから。最初は話しかけられる程度だった。でも、そのうち親しくなって……。奈々とのことも知っているから、いろいろ相談にのってもらっているうちに……」
「ありがちなパターンだね。しかも、相談? 何それ? それがきっかけでエッチしちゃったっていうこと?」
 コクリと頷く優輝。それを見た瞬間、奈々を支えていたものが崩れ去っていく。
 どこかで身体の関係はないと言ってくれると期待していた。あっさりと認めないで欲しかった。正直過ぎるにもほどがある。
「少しは否定してよ」
「ごめん」
「そんなに私のこと、不満だった?」
「そういうわけじゃないよ」
「じゃあ、どうして広瀬さんに私のことを相談するの?」
「遠距離になって、この先、どうなるんだろうって普通思うだろ。誰だって」
「だからって、こんな形で裏切るなんて。どうやって修復すればいいの? 私たち今、離れ離れの生活なんだよ」
 上京した自分のせいなのだ。奈々はそう思おうとしても、これからのことを信じ切る自信がない。やり直す道を模索しながらも、結局、裏切られた現実がそれを邪魔して、何も見い出せなかった。

「奈々のことは今でも好きだよ。それは前から変わらない。だから、俺、奈々と別れるつもりはないから」
 優輝は必死に訴えた。失いたくないのが本音だと強く思う。自分が何をしようとして広瀬結花に近づいてしまったのかを考える必要もなく、別に彼女との関係に初めから未来はなかった。
「今、そんなことを言われても分かんないよ」
「ごめん。でも、やり直させてほしい。こんなことになって後悔している。あいつとは本気じゃなかったんだ。好きなのは奈々だけなんだよ」
「私だって好きだよ。でも、浮気した事実は消えない。それをずっと引きずっていかなきゃならないなんて……」
 我慢していた涙が溢れ出す。好きという気持ちでは庇いきれない。許せない気持ちが勝ってしまうのは人として間違っているのだろうか。
 だけど今は苦しすぎて、声も身体も震えが止まらないほど、コントロールがきかない。

 鼻をすすりながら泣いている奈々を見て、優輝がティッシュを持ってきてくれた。
「ごめんな」
 ティッシュを取って、奈々の涙を拭きながら呟く。
「触らないでっ!」
 汚らわしいと思ってしまう。そんな言葉をかけられても、この気持ちはどうにもならない。奈々は優輝を拒絶した。
「そんなこと言うなよ。もう二度と裏切るようなことはしない。あいつとも会わない」
「会わない? 同じ大学なんだから、会う機会だっていくらでもあるでしょう」
「そういう意味じゃないことくらい、奈々も分かっているだろう。そりゃあ大学では顔を合わせるかもしれない。でもそれだけだよ」
 それだけだよと言われても、それすら許せないのだから話し合いは平行線のまま。
「そんな単純な問題じゃないの」
 もう、あの頃のふたりではない。高校生の頃の無邪気な自分たちとはかけ離れてしまったのだ。
「奈々……俺……」
「……優輝?」
 思いつめたような優輝の表情に、奈々は本能で身の危険を感じた。今まで無理やりなんてことは一度もなかったし、初めてのときも奈々のペースに合わせてくれて無理強いすることはなかった。
 だから今までとは違う緊迫した雰囲気に身体を強張らせてしまう。
「優輝……やだ……」
 奈々がそう言ったのは優輝の唇がすぐ近くにあったから。くっつきそうな勢いで距離を縮めてくる。床に座ったまま動けずにいると、いきなり抱きつかれてカーペットの上に身体を押しつけられた。
「何するの!?」
「こうでもしないと奈々は俺のことを真剣に見ようとしてくれないだろう?」
「こんなことされても何も変わらない」
「変わるよ。きっと。今、ここで抱かれれば。やさしくする。だから抵抗するなよ」
 切ない声で言われ、じっと懇願するように見つめられ、髪を撫でられる。だけど奈々の鼓動はどんどん強く打ちつけていって、やがて涙とともに全身の震えが強くなった。
「どうして? ……どうして、浮気なんてしたの?」
 許せないという気持ちは自分ではどうしようもない。
 優輝の気持ちがまだ自分にあるとして、だけどきっと恨み続けるだろう。ことあるごとにそれを思い出し、心が醜くなって、ふたりの関係が荒んでいくに違いない。

「大好きだったのに。毎日思い出すくらい、恋しかったのに」
「奈々……」
「……お願い。離してよ」
 優輝は奈々の揺れる瞳を見て、今、しようとしていることは無駄だと悟る。仕方なく奈々から身体を離すとそばに座り、下を向いたままじっと何かを考えていた。
 その横で奈々はずっと泣き続けている。しゃくりあげる声が部屋の中に広がって、その声もだんだんと弱々しくなっていった。

 やがて夜が深まって……

「送るよ」

 静かに立ち上がる優輝を見上げ、奈々も従った。


 ◇◆◇


 疲れ果てた奈々は、自室のベッドになだれこむように転がった。ほんの数時間前まで幸せに浸っていたのが嘘のよう。
 それから眠れないまま朝を迎え、誰も起きていない時間にシャワーを浴び着替えた。
 これからどうしたらいいのだろう。
 頭の中がぐちゃぐちゃだった。
 まさか、こんな展開になるなんて。水族館ではあんなに楽しかったし、幸せな気持ちでいっぱいだったのに。

 いまだに自分の中で結論がでないままでいた。優輝との三年間を考えると別れを口にすることもできず帰ってきてしまった。
 明日には東京に帰る予定。だから結論を出す時間は今日一日だと決めていた。

 部屋に閉じこもったまま時間だけが過ぎていった──

 朝食を抜いていたため、さすがにお腹も減る。時刻はお昼の12時近くになっていた。
 奈々が1階へ降りると、母親がキッチンに立っていた。
「お腹空いているでしょう。食べなさい」
 そう言って食事を準備してくれた。
 朝から部屋に引きこもる、昨日とは違う奈々の様子に気づいているが、母親は何も聞いてこない。
 奈々は「いただきます」とお箸を手に取る。温かいご飯とお味噌汁、大好きなオムレツ。口の中に入れる度に、それがなんだか心にも染みていった。

 少し元気がでた奈々は2階の自分の部屋に戻り、改めて自分の部屋を見渡す。ここは、つい最近まで毎日過ごしていた場所。優輝も遊びにきたこの部屋は、実家を離れる前とさほど変わらないままだった。
 ゲームセンターで取ったキャラクターのぬいぐるみ、お気に入りのピンクの絨毯。壁に掛けた時計。そして机の引き出しにしまったアルバムは、東京に全部持って行くことを諦めて、少しだけ実家に残していた。
 そのアルバムを手に取りながら優輝とのことを思い出していた。
 優輝がほかの女の子に告白されたことにやきもちを妬いて八つ当たりして困らせたこと。ほったらかしにされてクラスの男の子たちと遊びに行ったことに駄々をこねたこと。テストの点数が悪くて落ち込んでいたら優輝が勉強を教えてくれたこと。風邪を引いて寝込んだとき、そばにいて看病してくれたこと。
 全部いい思い出として残っている。
「それなのに優輝はどうして私との思い出を忘れて、ほかの女の子のことを選んじゃったの?」
 遠距離という特殊な環境を考慮しても“裏切られた”という思いは払拭できない。このまま一緒にいても会いたいときに会えない分、不信感は募るはず。
 昨日、優輝に思い切り気持ちをぶつけても、それは消えなかった。最後は泣くことしかできなかった。きっと、いくら優輝の言い訳を聞いても、すべては許せなかったと思う。
 好きだけど全部は受け止められない。もう少し自分が大人だったら、もしかすると今とは違う考えを持てたのかもしれないけど……

 その日、夕暮れの空に蝉時雨の声がむなしく響き渡っていた。落陽の光の煌めきは刹那的な美しさを感じる。
 奈々は優輝を近所の公園に呼び出していた。
「どうしてもやり直せない?」
「私ね、明日には東京に戻らなくちゃいけない。ここでやり直したとしても、こんな気持ちのまま優輝を信頼し続けることは、たぶん無理だと思う」
「俺の気持ちはどうなるんだよ?」
「分からない。私はそこまで大人じゃないから。だから無理なの。ごめんなさい」
「……」
 優輝は言葉を失う。納得いかない気持ちのまま、分かったとはどうしても言えなかったのだ。
 しかし、揺るぎないまっすぐな奈々の瞳を見たら、追いかけることはできないと思った。ふたりにとって三年間という月日はとても長いものだったのに、その終わりはあまりにも呆気ない。
 だけど子供ながらにも精一杯の恋だった。後悔のない人生であるといい。別れを選んだことがふたりにとって正しい選択となるように。お互いに前を向いていかなければならない。
「奈々……」
「ん?」
「元気で」
「うん」
 夏はまだはじまったばかりの今日、傷ついたふたりの道がここではっきりと別れた。
 しかし奈々にとっては大人への道のはじまり。ゆっくりと変化を遂げていくきっかけでもあった。
            




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