3.甘く酔わされて(010)

 
 ふわふわと漂い、落ち着いた先は運命の地点

 この起点からすべてがはじまる

 いろんな糸が絡み合い、その中で翻弄されるのだ

 覚醒していない意識の中でそれは自覚していたのかな?

 気づくと考えることは、あなただったのだから


 ◇◆◇


 次の日の午前中、新幹線でひとり暮らしのマンションに帰ってきた。
 明日からまたバイトがはじまる。それなのに、いまだに引きずったまま、奈々の中では何も解決していない。
 荷物を整理しながら明日からこんなことで大丈夫なのかなと考えていると携帯が鳴った。絵梨子からだった。
『おばさんに聞いたんだけど、もう東京に帰っちゃったの?』
「連絡しないでごめん。本当は電話しようと思ったんだけど、いろいろあって」
 気心知れた幼なじみの絵梨子にすら言えないほど心の整理ができていない。誰にも会いたくなくて黙って帰ってきてしまったのだ。
『何かあったの?』
 勘の鋭い絵梨子でなくても気づくのは当たり前。
「うん……優輝と昨日別れてきた」
『え?』
「優輝、浮気していたんだよね。高校が一緒だった広瀬さんと。絵梨子たちと同じ大学でしょう」
『奈々……ごめん』
「なんで絵梨子が謝るの?」
『実はね──』
 突然、絵梨子が改まり、ゆっくりと語り出した。
『私、優輝くんと広瀬さんがそういう関係だってことを知っていたんだ』
「どうして、分かったの?」
『大学の近くで、何度か優輝くんの車の助手席に広瀬さんが乗っているところを見かけたの』
 この間、初めて乗った優輝の車。あの助手席にいつも彼女が乗っていたのだ。
『それで優輝くんにそれとなく広瀬さんとの関係を聞いたの。はっきり認めなかったけど、普通の関係じゃないっていうのは感じた。ましてや優輝くんに遠距離中の彼女がいるなんて大学の人たちは知らないわけだから……だから……』
 絵梨子が言葉をつまらせた。その先のセリフは聞かなくとも分かる。つまり、あのふたりは周囲にうしろめたさを感じることなく堂々としていられたということだ。
 広瀬結花の彼女気取りの姿が脳裏に浮かぶ。奈々と張り合っていた彼女のこと、きっと相当の優越感だったに違いない。
「もういいよ、絵梨子。私に話したほうがいいのか迷っていたんでしょう? だからこの間も様子が変だったんだよね?」
 優輝に会う前の日の絵梨子の態度が変だと感じた理由がこのことだったのだ。
『でも、もっと早く言うべきだったのかもしれない』
「ううん。たぶん自分の目で確かめなかったら信じられなかったと思う。だから、このタイミングでよかったんだよ」
 絵梨子はずっと心配していてくれた。それだけは感謝している。
『奈々……』
「ありがとう、絵梨子」
『ねえ、大丈夫?』
「心配しなくても、私は大丈夫だから」
 遅かれ早かれ、きっとこうなっていたと思う。それに、こんな気持ちのまま遠距離恋愛なんてどうして続けられる?
 そう自分に言い聞かせ、今を耐えるしかない。
 仕方なかったんだ。これが私が選んだ人生だから。


 その日、奈々は気持ちを切り替えるように洗濯物を洗濯機に放り込んだ。窓を開け掃除機をかけ、フローリングも磨き、シーツも取替えた。
 少しでも気が紛れるならと部屋中の掃除をしていたため、気づくと辺りは薄暗くなっていた。
「もうこんな時間か」
 食欲がないけれどお昼ご飯も食べていないため、何か食べようと考える。なんでもいいから口に入れないと倒れてしまいそうだ。
 都会の暑さは相変わらず。夜になっても蒸し暑い。夏バテになるよりマシかなと奈々は戸棚にしまってあったカップラーメンで夕飯をすませた。
 その後、シャワーを浴びて早めにベッドに潜り込む。
 目を瞑ると蘇る昨日までの記憶。思い出すとまた涙が出てくる。このまま泣いたらきっと明日、目が腫れて大変なことになるのは目に見えていた。
 明日は午前中からバイトが入っている。そのため絶対に泣くものかと頑張ってみたけど、やっぱり涙は我慢しても溢れてくる。
 結局、涙は枯れることなく。息が苦しくなるほどに泣き続けた。


 けれど、大変なのは次の日の朝。
「はぁ……やっぱり……」
 予想通り、目が腫れ上がってアイメイクもできない状態。氷で冷やしてなんとかマスカラだけを塗っては見たけれど、腫れのひどさは変わらなかった。
 結局、パンパンの目のまま、バイト先に着いて開店準備をはじめた。
 開店は10時。今の時間は仕事をひとりでこなさなくてはならない。この日は11時には笠間、12時には工藤が来る予定だった。

 10時の開店となると、ちらほらとお客様が入ってきた。
 このお店はテナントのひとつ。全国展開しているだけあって、それなりに名の知れた人気店である。
 そのために、他のテナントより客数が多い。ファストファッションとして、おもに若者向けの洋服を扱っているため、お客様のほとんどが若い女の子だった。
 でも、都心からだいぶ離れた立地のせいか、午前中は比較的ひとりで対応できるほどの集客率のため、開店時のシフトはひとりの場合が圧倒的。
 この日は中学生くらいの女の子とその母親が買い物に来ていた。
「いらっしゃいませ!」
 このお店はお客様に余計な言葉をかけない。つまり“何をお探しですか”“それ可愛いですよね”と言って様子をうかがうことはしない。
 でも今日はお客様の方から声がかかった。「すみません」と言われ、試着かなと思い振り向いた。尋ねてきたのは母親の方。
「二、三日前に、このお店に置いてあったブラウスを探しているんですけど」
「ブラウス、ですか?」
 ブラウスといっても種類がたくさんあるので奈々は困惑する。
「どういった形のものでしょうか?」
「なんでも、小花柄の白っぽいブラウスで、襟(えり)の部分はレース生地だったらしいんです」
 そんなものがあったかなと奈々は考えたが、しばらくバイトを休んでいたため、ここ最近の商品の入荷状況は把握できていない。商品が入荷してもすぐに売り切れてしまうこともあるし、ほかの店舗にまわすときもある。
「少々お待ち下さい」
 しかし、お店を探しても見当たらないし、仕入れ伝票を見ても、トップスとボトムの見分けはついても商品の見た目までは分からなかった。
 でも、お店にないのなら、売り切れてしまったのだろう。こんなときに限ってひとりだなんて、ついていない。
 そこで奈々は唯一頼ることのできる他店舗の社員の美樹に電話を入れ、電話口でお客様の言っていた特徴を伝えたが……
『んー……うちの店には入荷していない商品かもしれないな』
 同じ品物がほかの店舗でも入荷しているとは限らないらしく、基本的に再入荷もしないそうだ。
「在庫がある店舗もあるのかもしれないけど、手間がかかり過ぎるよ」
「そうですよね。分かりました。美樹さん、ありがとうございました」
 美樹の言う通りかもしれない。探すにしても時間がかかってしまう。取りあえず、在庫がないことを伝えるしかなかった。
「お客様、申し訳ありません。ここに出ている商品がすべてなので、売り切れてしまったようです。店長がもうじき参りますので、店長に確認して、もし分かったら同じ商品を取り寄せることも可能かもしれませんが」
 せっかく、わざわざ足を運んで下さったんだ。できる限りのことをしたい。
「いいえ、いいんですよ。ないものはしょうがないもの。ブラウスは違うデザインのものもありますし、別なものを探してみるわ。お手数かけてごめんなさいね」
 女の子も母親の言葉にはにかみながら頷いていた。可愛らしいなと思いながら、その女の子の笑顔を見ていたら、ふと思い出すことがあった。

「もしよろしければなんですが、こちらはいかがですか?」
 奈々は以前からお店の棚にたたんで陳列してあったブラウスを広げて見せた。
 コットン素材の半そでブラウス。ヨークと裾にスカラップを使っている前開きのデザインはナチュラルホワイトで涼しげ。
 前から可愛いと思っていたブラウス。でもハンガーに吊るすスペースがなくて、ずっとたたんだままだった。
「どうでしょう? 白でシンプルですけどボタンがあるのでデザイン性もありますし、着やすいかと思います」
 女の子は最初、きょとんとしていたけど、次第に興味深げにブラウスを見つめ、手に取った。
「肌寒い日には重ね着しても可愛いですよ。パステルカラーのカーディガンを羽織れば、さし色にもなります。これ一枚あれば重宝しますよ」
 女の子が鏡の前でブラウスを自分の身体にあてているところへ、奈々がイエローニットのカーディガンを重ねると、まんざらでもなさそうな顔になった。
 それから、女の子はしばらく悩んでいたようだったが、服を当てたまま急に母親の方に振り向いた。
「うん。これがいいな。お母さん、どう?」
「いいんじゃない? 可愛いわよ」
 女の子の母親にも気に入ってもらえたようだ。
「すみません、じゃあ……」
「はい、ありがとうございます」

 こうして、無事に対応することができ、奈々はほっとしながらレジで会計を済ませると、丁寧に商品を袋に入れて女の子に手渡した。
「自分で探していたものよりお姉さんの選んでくれたものの方が気に入りました。ありがとうございます」
 女の子は可愛らしく微笑んだ。
「ありがとうございます。またお越し下さいね」
「そのときは、また相談に乗ってもらえますか?」
「もちろん。比較的、土日にお店にいるので、いつでも声をかけて下さい」
 その親子連れは仲良く店をあとにした。奈々はその後ろ姿を感慨深く見つめていた。
 お客様のために何かできることがうれしかった。自分の選んだ洋服を「ありがとう」と言って気に入ってもらえることにやりがいも感じる。
 お金を稼ぐことは想像以上に苦労が伴う。失敗すると落ち込むし、辛いことがあっても顔に出すことは許されない。それでも、ふと舞い落ちる幸福感が意欲をわき立たせ、頑張ろうと思わせてくれるのは、この仕事が大好きだから。
 ずっと抜け出せなかったどん底から、少しだけ浮上できたような気がした。なんとか頑張れそう。奈々にとってそう思える出来事だった。
            




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