3.甘く酔わされて(011)

 
 オープンから1時間がたとうとしていた。そろそろ笠間が出勤する頃である。
「おはよう。今日は佐藤さんが早番か」
 しかし、急に聞こえてきたのは笠間とはまるっきり違う威圧的な声。予想もしなかった低音ボイスに奈々はびっくりして肩を上げた。
「お……おはようございます」
 桐生が来たのだ。まさか今日、お店に姿を見せるなんてと背筋がピンとしてしまう。
「笠間店長が急に二日間、研修に入ることになって、その間のシフトを俺が入るから」
 それを聞き、緊張が走る。
「そうなんですか……分かりました。……よろしくお願いします」
 混雑していたオープンのときと違い、今は仕事ぶりを細かくチェックされてしまうと思うと、さっきの意気込みはすっかり消え失せてしまった。奈々は動揺を隠し切れず、俯きながら返事をした。
 だけどジーッと突き刺さる視線をピリピリと感じる。
「な、何か?」
 奈々が上目使いで見上げると、桐生はその顔をさらに覗き込んでくる。ただでさえ緊張しているのに、かなり接近されて焦る奈々だが、そんな彼女に気を留めることなく桐生は平然と言った。
「目がいつもと違うんじゃないか?」
「そ、そうですか!?」
 声が裏返りそうになるのをなんとかとどめて答える。しかし、桐生がそう言うのも無理もない。気づかない方がおかしいくらいに今日の奈々の目は腫れぼったい。
「工藤みたいだぞ」
「はっ?」
 工藤の瞳は、彼の性格とは反対で、一重瞼の小さな可愛らしい瞳をしている。
 だけど、褒められているわけではないような気がする。やっぱり腫れぼったいことを言っているのだ。
「これは……なんでもありません。単なる寝不足です。昨日、実家から帰ってきたばかりなんです」
 あまりにもまじまじと見つめるので、そう言って視線を逸らした。
「ああ、だからか」
 納得したのか桐生はそれ以上、その話題をすることはなかった。それから何事もなかったかのように仕事をはじめる。
 さすが目ざとい。しかも今日はずっと桐生と一緒。いまいち何を考えているのか分からない桐生に気を抜けないと、奈々は気合いを入れるのだった。

 桐生はレジにつないであるパソコンを操作して、なにやらデータを呼び出していた。
 レジで一日の売上などを集計したデータは毎日、手動でそのパソコンに送り、そこから本部へ送信している。奈々はそのためのパソコンの操作を決められたマニュアル通りに行うが、それ以外の操作を知らない。
 桐生は昨日までの累計の売上を確認しているのだろう。通常、日計のデータは毎晩印刷しファイルに保管しているから、アルバイトのスタッフでも資料を見ようと思えば見ることはできる。しかし奈々は今までそんな資料に興味をもったことがなかったし、前日の売上すら気にしたことがなかった。
 真剣な表情の桐生は少し遠い存在だなと感じる。相手はエリアマネージャーで、奈々はただのアルバイト。所詮、奈々よりもずっと上の上司。近づきにくいのは仕方がない。

 しばらくすると宅配で新しい商品が届いた。
 奈々は大きなダンボール箱に手をかけ、いつものように伝票を確認して検品をはじめた。
「終わったか?」
「はい。チェックOKです」
 届いた商品はなるべく早く店頭に並べないといけない。前に森が棚の下に袋詰めのままストックをしていたところを桐生に見つかり注意を受けていた。
「ありがとうございます」
 桐生が黙って品出しを手伝ってくれた。
 さすがに手際がいい。奈々がとてもついていけないスピードで次々に商品を袋から出して陳列していく。
「早いですね」
 少し悔しくて思わず口に出してしまった言葉にはっとしたけれど。
「ん? 何が?」
 思ったより間の抜けた返事が返ってきた。
「品出しの作業です」
「俺が佐藤さんよりもどんくさかったらマネージャーなんて務まらねえだろ」
 確かにごもっともな意見。
「どんくさいって……私、こう見えても仕事はテキパキこなしていますよ」
「まあ、森よりはできるかもな」
 社員の森が引き合いに出されてとんでもないことを言われている。森は、今日は休みだが、本人が聞いたら間違いなく情けない顔をして項垂れているだろう。
「そんなことないですよ。私から見たら森さんはとても頼りになる人です」
「森はいい仕事はするよ。だけどマイペースすぎるんだよな。将来、マネージャーになれるのか、今から心配だよ」
「その前に出世とか興味なさそうですけどね」
「だから参ってるんだよ」
 そうは言いながらも本気で言っているようには見えない。桐生なりに森の良さを分かっているように思えた。

 こうして意外に和やかな雰囲気で仕事をこなしていると工藤が出勤してきた。
「あれ? 笠間店長は?」
 出勤早々、桐生に聞こえないように奈々に耳打ちしてきた。
「二日間、研修なんだって。それで、その間の笠間店長の分のシフトは桐生マネージャーが入るらしいよ」
「げっ! じゃあ今日、ずっと桐生マネージャーがいんの?」
 いつもは少し様子を見に来て頃合をみて適当に帰っていく桐生だったが、今日と明日はそうではない。それがよほど苦痛らしく、工藤はがっかりした面持ちで仕事をはじめた。
 そんなとき、桐生が奈々に言った。
「佐藤さん、昼飯食いに行くぞ」
「一緒にですか?」
「悪いか?」
「いいえ……」
「この時間なら、そんなにお客様の数も増えないと思うから大丈夫だろう」
 当然断ることもできない。奈々はどういうつもりなのだろうと思いながら食堂に向かった。


 食堂で定番のAランチを頼み席につく。桐生とふたりで休憩をとることは初めてで、こんなふうに面と向かうのは、面接以来だ。
 それにしてもいったい何を話せばいいのだろう?
「食わないのか?」
 Aランチのポテトサラダを突つきながら箸を止めていた奈々に桐生が言う。
 桐生は、どこか心ここにあらずのような、食べることへの執着がない奈々の様子が気にかかった。
「あまり食欲がないんです」
「何かあったのか? 目の腫れは、だいぶよくはなったみたいだけどな」
 桐生は軽く目を細めて奈々を睨む振りをする。
 思った通り。奈々の様子がおかしいのは間違いない。今日会ったときから、いつもより元気がない様子が気になって、桐生は奈々を昼食に誘ったのだ。
「いいえ、さっきも言いましたけど、これはただの寝不足です。食欲がないのは、ちょっと夏バテなだけですから」
 桐生の手前、仕方なく奈々はAランチを口に入れる。できればひとりで休憩をとりたかったというのが奈々の本音だ。
 それに対して目の前では食欲旺盛にランチを頬張る桐生。目の前なだけに嫌でも目に入る。
「あのー、よかったらどうぞ」
 奈々が自分の口をつけていないおかずを差し出した。とても完食する自信もないままにAランチを頼んだことを後悔もしていた。
「駄目だ。ちゃんと全部自分で食べろよ。飯を食わないで店で倒れられたら俺が困るだろう」
 そう言って断固拒否の態度。それだけにとどまらず桐生は、自分の分を食べ終わると、じっと奈々が食べるのを見張りはじめる。
「あのー?」
「なんだ?」
「少し視線を逸らして頂けませんか?」
「どうして?」
 桐生は彼女の申し訳なさそうな瞳に首をわずかに傾げた。
「そんなに見られていると緊張して余計に食べられません。お箸の持ち方や食べる順番を全部チェックされているみたいです」
 ある意味これはパワハラじゃないかと思う。奈々にとって桐生の鋭い視線は、仕事の査定をされているかのように思えてならない。
「いいから。俺のことは気にするな」
 桐生も、自分でもどうかしていると思っていた。昼休みといえども勤務中。それなのに、こうやってわざわざ彼女を昼食に誘うような真似。らしくない自分にあきれながらも、男としての本能がそうさせるのだから仕方がない。
「はぁ……」
 しかし、桐生の男としての想いを知る由もない奈々は、小さく溜息をつくのだった。
 奈々が優輝と別れたことを知らない桐生。彼女には想う相手がいるのだからと焦る気持ちは今のところない。
 しかし、強引に奪おうとすればできなくもないのに行動に移せないのはなぜだろうか。桐生はふと思うのだが、今の彼女には自分の気持ちがきっと重すぎるからだと結論が出た段階で自分のはまりように驚いてしまった。

 休憩時間を終えて、ふたりは仕事に戻ったが、相変わらず口数が少ない桐生。桐生のそんな態度に威圧感が覚えて奈々だったが、仕事の指示をたくさんくれるところは店長の笠間とはやり方が違い、張り合いを感じる。
 どちらかというと笠間は自分で考え込んで自分で動くタイプ。時々、社員の森に指示を出すことはあっても、アルバイトの奈々や工藤たちにはあまり声をかけない。
「佐藤さん、この棚のやつは奥に引っ込めていいから、代わりに、奥にある色別のトップスを通路側の前面のテーブルに持ってきて。四色ある色が隠れないように色ごとに並べて目立つように。メインで売り込んでいくから」
「はい」
「それが終わったらマネキン二体の服を全部取りかえるように。服はそのトップスを一着使用して、ボトムスは任せるよ。もう一体のマネキンには、今日、入荷したワンピースを着せて」
「分かりました」
 桐生がお客様の動きを見ながら奈々に指示を出した。
 とにかく商品を引き立てる。限られたスペースでも、商品の種類を多く見せるために映える色をお店の目立つ場所に持ってくる。それは何よりお客様のため。そして、見やすく歩きやすいレイアウト。店の中を自由に歩き回って、何度でも手に取ってもらうのが店の醍醐味。
 指示を出したあとも桐生は店中を動き回って商品の陳列を変えたり、レイアウトを変えたりしている。しかし、お客様が商品をもってレジに近づくと、すぐレジに入るのだから洞察力は優れている。
 やることは完璧だと、奈々は尊敬の眼差しで桐生を見ていた。こういうお店をいくつも手掛けているのだから、すごいことだと思う。お店の傾向を読み取って、それに合わせて指示を出すのだろうけど、こういうことは経験を重ねるとピンとくるものなのだろうか。
 桐生マネージャーか。だけど、よく考えたら彼のことを何も知らない。何歳なのか、どこに住んでいるのか、独身なのか。醸し出す存在感は相変わらず強めだけれど、不意に現れては低音ボイスで意表をつくあたりは何を考えているのかよくわからない部類だ。
 まったく持って謎な人。けれど、今日、思いもかけず一緒にランチをともにし、緊張はしたが、話してみると気さくだし、普通の人っぽい。
 それに今日は桐生から仕事を教われてよかったと思っている。いろいろ指示をくれるからボーっとする暇もないし勉強にもなった。ずっと忙しく働くことができたから、優輝のことを考える暇はおかげでほとんどなかった。


 お店がだんだん忙しくなってきた午後2時半頃、その後も淡々と奈々は仕事を続けていた。
 けれど、さすがに少し疲れが溜まっていた。昨日からいろいろありすぎたし、今日も仕事がハードだから余計態度に出たのかもしれない。少し油断した瞬間を工藤に気づかれてしまった。桐生がちょうど15分の休憩中だった。
「佐藤さん、今日、元気がないみたいだけど?」
「そんなことないよ」
「ならいいけど。バイトの休み中、実家に帰っていたんだろう? 彼氏と喧嘩でもしたのかなって思ったからさ」
 するどいなと奈々はびくっとなる。おまけに遠慮もないのが工藤らしい。でも、優輝と別れたことを隠すわけではないが、仕事中にその話をしたくはなかった。
「昨日、実家から帰ってきたばかりだから、ちょっと疲れがでたみたい」
「でも久しぶりに会えたんでしょう? 彼氏と」
 その話、まだ続くのかな?
 奈々は話を逸らしたくて別な話題をさがした。
「会えたよ。水族館に行ってきた。なのに休み明けにいきなり桐生マネージャーと一緒なんだもん。びっくりだよ」
 自分でもうまく話題を逸らせたと思った。そして工藤はその流れに見事にのせられる。
「まったくだよ。俺、あの人、苦手。佐藤さんもそう思うだろう?」
「まあね。近寄り難い感じがするよね。なんでだろう? 年上だからかな? ところで桐生マネージャーは何歳なの?」
「確か28歳だったかな?」
「そうなんだ。そんなに上だったんだ」
「俺も最初そう思った」
 28歳という年齢は、じゃっかん19歳の奈々から見たらかなり大人に映った。社会人と学生の違いも大きい。また、エリアマネージャーという肩書のせいもあった。
「で……独身なの?」
 すると工藤がニヤリとする。
「なに? 佐藤さん、桐生マネージャーのことが気になるの?」
「違うよ!」
 奈々は思いっきり否定した。
 別に桐生に興味があるわけではなく、ただ単に知りたかっただけとつけ加える。
「でも、そういえば佐藤さんがこの店に採用されたのは、桐生マネージャーのタイプだったからっていう話だよ」
「そんなこと、あるわけないよ」
「崇宏さんから聞いたんだけど、桐生マネージャーと一緒に飲んでいるときに本人が言っていたらしいよ」
 嘘に決まっている。桐生は私情を挟むタイプとは思えない。それに崇宏が言っていたということは、それこそ冗談かもしれない。きっとそうに違いないと奈々は思った。
 そうこうしていると、桐生が休憩から戻って来てしまった。
「ほら、工藤くん」
「う、うんっ」
 ふたりは大慌てで仕事に戻ったのだった。
 しかし、あんなことを聞いてしまっては意識しない方が無理な話。奈々は動揺を悟られないように、仕事に集中しようと努力していた。

「佐藤さん」
 突然、桐生の低い声が聞こえた。
「は、はい!」
 びっくりした声を上げる奈々。
「もうあがりの時間だろう? あがっていいよ」
 桐生の言葉に我に返ったようになる。
 もうそんな時間か。いつの間にかバイトの終了時間になっていたらしい。やっと今日一日が終わるとほっとした。
「そうだ、佐藤さん?」
 しかし、挨拶をすませた帰り際、急に桐生に呼びとめられて不安になった。長身の桐生の黒い瞳が奈々を見下ろしている。
「明日──」
 そのとき不安そうな上目づかいの奈々を見て、変なプレッシャーを与えてしまったと思った桐生は、身体の力を抜いて続けた。
「遅番だよな?」
「はい、ラストまでです。それが何か?」
「いや、なんでもない。いいよ、帰っても。お疲れ様」
「……はい。お先に失礼します」
 なんのことはない。たったそれだけの会話だった。
 奈々は、拍子抜けだなと思ったが、彼がいつも通りのクールな感じだったので、純粋に単なる確認なのだと思うことにしたが……
 いや、もしかすると、勤務態度を見て言いたいことがあったのかもしれない。
 ──明日はもっと気を引き締めろよ
 だとしたら、明日も一緒のシフトというのは憂鬱だ。どうしてこうも態度に出てしまうのだろう。
 午後は自分なりに頑張ったつもりだが、覇気がないことは工藤にも指摘されていた。奈々は自己嫌悪に陥りながら、お店をあとにした。

 帰り道はどっと疲れが押し寄せ、空腹感のないお腹をさすりながら、夕飯はどうしようかと思いながら家に辿り着いた。
 まだ外は明るい。夕飯の支度は後まわしにして、部屋干していた昨日の洗濯物をたたんでクローゼットにしまう。けれど、それからは気力が抜け落ちて、奈々はベッドの上でぼーっとしていた。
 すると、何気に目をやった先にあったのは小さなアルバム。それはひとり暮らしをするときに実家から持ち出してきたものだった。高校生の頃の思い出がつまったアルバムには、優輝との写真が何枚もおさまっていた。
 やめておけばいいのに、それを手に取り開いてしまう。
「この頃は無邪気だったよなあ」
 募る寂しさは出口がなくて、溜まっていくばかり。優輝と離れていた寂しさも、支えのひとつだったのだと思い知らされた。受け止めて、共有できる相手がいたからこそ、寂しさも希望に変えられたのだ。
 写真を眺めながら濡れてくる目元。明日は遅番で午後からの出勤。朝はゆっくりできそうだなと、奈々は流れ落ちた涙を拭った。
            




inserted by FC2 system