3.甘く酔わされて(012)

 
 夏の陽射しとアスファルトの照り返しで、むせ返るような昼下がり。
 翌日、奈々がバイト先に着くと、夏休みにくわえ土曜日ということもあり、店内はすっかり混雑していた。でも今日は四人体制。昨日より、幾分楽に仕事がこなせる。
「すげー、むさ苦しい」
 工藤が顔を歪ませて、ぼやいた。
「どうしたの?」
「見てよ。俺と森さんだけならまだしも桐生マネージャーもだよ」
「ああ、そういうことか」
 女の子向けのアパレルショップなのに、今日は、スタッフ四名のうち三名が男性という変わった配分。けれど、女性向けアパレル業界といっても、意外に男性スタッフは多いのだ。
「今日で終わりだよね?」
 桐生のシフトに不満を見せる工藤。
「そう聞いてるよ」
「よかったあ。やっぱり、俺はあの人のことは苦手。長い時間、一緒に仕事をしても慣れないよ」
 工藤だけでなく、おそらく、そう思っている人間は大勢いるだろう。奈々もそのうちのひとりだ。
 しかし奈々はふと、昨日の桐生とのランチを思い出した。倒れられたら困ると心配されて、無理やりランチを食べさせられた。
「結構、いい人だと思うけど」
「どこが?」
「仕事の指示をくれるし、しゃべってみると、気さくな感じがするよ」
「そりゃあ、佐藤さんは桐生マネージャーのお気に入りだからね。さては、何かあった?」
 怪しむ顔に、えっ、と固まる。
「な、何もないよ」
「誤魔化しても顔に書いてあるよ」
 工藤はわざとからかう口調で言って、目を細めて笑った。
「本当だもん」
 奈々は、それが心外とばかりに口をとがらせる。ムキになれば余計にからかわれるだけなのに、桐生を意識していないことを証明しようと躍起になった。
「否定しても無駄。昨日、一緒に休憩をとっていただろう。そのときに何かあったんだろう?」
「だから、本当に違うんだって!」
 にぎわう店内に、大きめな声が響いた。お客様が何事かと振り返る。奈々はしまったと口を閉じるが、一番強力な視線も間違いなく奈々に向けられていた。

「ふたりとも、やけに盛り上がっているみたいだな」
 聞こえてきた低い声に、ふたりは顔を見合わせた。桐生がすぐ目の前に立っていて、慌てて姿勢を正す。
「仕事に関係のない話題は慎め。それから、ふたりとも離れて仕事しろ」
 一瞬で場が凍りき、真剣な顔の桐生の声が静かに響いた。
「すみません。以後、気をつけます」
 そう言うと工藤はそそくさと仕事に戻り、それを見送ると、奈々も「すみませんでした」と、しきりに反省しながら頭を下げた。
 目の前の大きな存在感は、社会の常識、そして責任を背負った大人の厳しさをまとっている。怒られて当然だ。
「まあ、今日は大目に見てやるよ」
 奈々は、垣間見えた穏やかな雰囲気に目を見開く。煙草の匂いがツンと鼻について、桐生が身近に思えた。
 しかし、桐生の許しにほっとしたのも束の間。
「今日も目が腫れているようだしな」
 見透かされていると思い、瞬く間に真っ赤になる奈々は、顔が上げられないまま言い訳を考えさせられる羽目になったのだった。
「寝不足が続いてしまって……」
 と、言いつくろいながら、困り果てて言葉が続かない。目線だけ上に向けると、工藤の心配そうな顔が視界に入った。
 奈々が怒られているのではと見守っていたのだが、それに気づいた奈々は、大丈夫と頷き返した。今は違う意味で居たたまれないのだ。
「とにかく、体壊して倒れんなよ」
 黙り込んでいた奈々に明るめな声が落ちてきた。
 ……え? こんなときなのに、心配してくれているの?
 意外なことだと思って桐生を見ると、笑いを堪えているような顔。奈々は、意味が分からずにぽかんとしていると「今日のお前は、いじめ甲斐がない」と冗談なのか、なんなのか分からない答えが返ってきた。
「あの、からかってます?」
「佐藤さんは嘘をつくのが下手だよな」
 さっきはうれしいと思ったのに。奈々は、ジロリと睨み付けた。
「素直になればいいものを」
 だけど、最後にそう言われたことで、奈々は目が覚めたようだった。たったそれだけのことなのに、心がすっと軽くなるような感じ。
 もちろん、それはスタッフへのフォローにすぎないのだけれど、それでも気にしてもらうのは、自分の存在を認めてもらえているのだと自信がつく。ひとりぼっちじゃないんだ、という心強さみたいな安心感で満たされていた。


 今日も慌ただしく時間が過ぎていく。
 その後の桐生は、黙々と仕事をこなす奈々を見つめていた。
 どうしても目で追ってしまうのは、部下として心配だからだけではない。長いまつ毛の奥にある奈々の大きな瞳に吸い込まれそうになるのを自制できず、時折どこか遠くに視線を移す彼女の仕草に、男として守りたいという感情が芽生えていた。涙を流す顔を想像し、何もできない歯痒さを、桐生は仕事にぶつけていた。

 そんな一日はあっという間で、只今の時刻は20時近く。早番の森と工藤も帰り、お客様の数もまばらとなった。
「8時ですよ」
 ちょうどお客様もいなくなった頃。遅番の奈々はロッカーから掃除用モップを取り出して、勤務時間が過ぎても一向に帰る様子のない桐生に声をかける。
「ああ。分かってるよ」
 残業させてまで桐生に商品整理をさせるのは恐れ多い。そんな思いだったのだが、桐生は相変わらず、手際良く服をたたんでいた。
「どうせあと一時間だろ」
「ですが……」
 申し訳なさそうにしている奈々に気づいた桐生は、たたみ終わったカットソーを棚に戻すと、すれ違いざまに、やさしく奈々の肩をたたいた。奈々はびっくりして、手を置かれた肩をピクリと上げる。
「バイトのお前が遠慮することないだろう」
 そう言って場所を移動した桐生は、別の棚の商品整理をはじめた。
「私だったら大丈夫ですよ。お客様だって、この時間だとほとんど来ないので」
 触れられた肩に意識がいってしまうのをなんとか振りほどき、モップの柄を強く握る。
 正直なところ、ラストまでふたりきりだと気を遣うので、早く帰ってほしかった。その思いがつい、先走る。
「笠間店長なんて時計を気にして時間がくるとさっさと帰っちゃいますよ。しかも自分の仕事だけ終わらせて、商品整理はいつも押しつけていくんですから」
 言ったあとで、しまったと口元を押さえる。
 なんて馬鹿なんだろう。まったく、余計なことを。どうか冗談として受け流して下さいという思いで、チラリと桐生を見ると、どうやら受け流せなかったようで、顔をしかめていた。
「すみません」
 失言だ。また、失敗してしまった。ほとほと自分にあきれてしまう。社員の人を、しかも店長を馬鹿にするような言い方をするなんて。
 しかし、桐生の表情は変わらない。さらに、手を止めた桐生が少し凄味のある声で言った。
「店長よりも上の人間に向かって、よくそういうことが言えるな」
 じわり、汗が滲む。奈々はその場をおさめようと、必死に言葉を探した。
「違うんです! えっと……つまり桐生マネージャーも気にしなくていいですよっていう意味で……それに笠間店長は新婚さんですから。早く帰りたいと思うのは、当然ですよね」
 なんとか言い終えたけど、不安は消えない。空調の空気が、汗ばんだ身体をじわじわと冷やしていく。

「面白いな。佐藤さんて」
 しかし、奈々の心配をよそに、降ってきたセリフはそれだった。
「……そ、そうですか?」
「ああ。よく見ているな。それに度胸がある」
 奈々の、意外に物怖じしないところと素直さが気に入っている桐生は、おかしそうに言った。
 彼女が面接に来た日もそうだった。ヘビースモーカーの桐生に向かって身体に良くないと諭すくらいだ。
「さっきのは、別に笠間店長が仕事をさぼっているとか、そういう意味ではありませんから」
「そうだな。そういうことにしておいてやるよ」
 すっかり、ほぐれた雰囲気。結局、最後は桐生に思い切り笑われている。
 必死に失敗を取り返そうとしても『おもしろい』で片づけられて、つまり踊らされたということに気づいた。その証拠に今も笑われている。
「面白くもなんともないですから」

 ひとしきり笑うと、桐生もロッカーからモップを取り出し、掃除をはじめた。
 いつも一日でたくさんの埃がでる。洋服を扱っているので、その繊維や外からのゴミのせいなのだと思うけど、それがかなりの量になるからあなどれない。
「汚くてすみません。なかなか、手がまわらないんです」
「まったくだな。汚いにもほどがある」
「遅番の人は、たいていラスト一時間は、ひとりなんです。商品整理だけでいっぱいいっぱいで、掃除はつい手薄に……」
「なら、朝にやればいいことだ」
 まじめな顔で、桐生はもっともなことを言った。
 それはその通りだと奈々も思うが、こちらの事情も分かってほしい。たまに前日の遅番の人が商品整理をしないで帰ってしまうときがある。
「朝も時間がとれないときも多いんです。それに、この間なんて十万円分あるはずのお釣りのお金が一万円分足りなくて。それでレジの設定が遅くなって大変でした」
 奈々は、つい先日のトラブルを桐生に捲し立てるように報告した。足りないお金はレジの中に残っていて、無事解決できたものの、朝の勤務もひとりのことがほとんどなので、何かあっても指示をもらえない。そんな不満もあった。
 桐生は黙ってそれを聞き、それから、何かを悟ったかのように尋ねた。
「前日の遅番は誰?」
「……笠間店長です」
「商品整理をしないのは、森と工藤だな」
「……はい」
 スタッフのチームワークの乱れは予想以上だなと、桐生は思った。その指摘が、学生のバイトの人間ということも情けない。
「私、また余計なことを……」
「いや。教えてもらえて助かったよ。そういうことまでは、巡回では見えてこないから」

 皺寄せが奈々に向いてしまっていることを知ることができただけでも、ここで笠間の代わりを務めたことに意義はあった。
 笠間を急きょ研修に行くように命じたのは、仙台で研修が開催されることを、つい先日知ったから。研修は東京でも行われるが、かなり先の日程だったため、タイミング的に一番早かった仙台の研修に滑り込ませたのだ。
 笠間には、管理職としての技量をなるべく早く身につけさせないといけない。その必要性が、店の売上にも顕著にあらわれていた。結婚や転勤というライフスタイルの変化もあったため仕方がないが、笠間の仕事への取り組みには、少々問題があると感じていた。
「また、気づいたことがあったら、教えてほしい」
 静かに語りかけられた奈々は、弱々しく「はい」と頷く。
 顔を上げると、やさしく微笑まれた。しかし、奈々はうまく目を合わせられない。仕事で褒められたというわけではないので複雑な心境だった。
「でも、みんないい人ばかりです」
 奈々はうまく言えているのか自信がなくて、所在なさげに視線を動かして、つま先を見つめる。
「言いたいことは分かるよ。自分がスパイみたいで嫌なんだろう?」
「……実際、告げ口しちゃいました」
「誰のためかをよく考えろ。スタッフをかばうことがお客様のためになるのか?」
 目線を合わせると、まっすぐな眼差しがあった。大切なことは何かを伝えてくれている。
「分かったなら、仕事に戻れ」
 奈々は安心したように「はい」と、今度は力強く返事をした。
 厳しいけれど、その中にはちゃんと信じられるものがある。頼もしくて、誠実。桐生のそんなところに触れられて、奈々の胸は、じーんと熱くなった。
            




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