3.甘く酔わされて(013)

 
 ショッピングセンターの事務所に売上金を預け、本日の業務は無事終了。外に出ると、まとわりつくような生ぬるい夜風を感じた。
 駅までの道を歩きながら桐生がパンツのポケットに手を伸ばし、またすぐに元に戻すのを見て、奈々は「どうぞ」と声をかける。
「よく分かったな」
「最後の休憩から長かったですからね」
 カチッと音がして、小さな炎が見えた。それから、じゅわっと炎が移って、桐生がくわえた煙草の先が蛍のように浮き上がる。
「大変ですね。好きなときに吸えないと、やっぱり、イライラするんですか?」
「吸えないと思うと余計な」
 そういうものなのかと、奈々は白く流れる煙を見つめた。
「どんな味ですか?」
「味って、煙草のことか?」
「そうです」と答えると、桐生は少し考える素振りを見せ、それから脈絡のない答えを返してきた。
「なら、飯でも食いに行くか?」
「め、飯……?」
 急な無茶ぶりに、そのまま聞き返して『飯』で、言葉に詰まる。
「どうせ、予定はないんだろう?」
「ありませんけど」
「じゃあ、行くぞ」
「はぁ……それはいいんですけど。それと煙草とは、なんの関係が?」
 しかし、桐生は質問に答えずに歩き続ける。ただ、気持ちよさそうに煙を吐き出すだけ。
「煙草がおいしいということは分かりました」
 答えを聞くことを諦めた奈々が、残念そうに呟いた。すると、桐生の横顔が照れくさそうに、少しだけ溶けた。
「煙草の味に興味を持たれちゃ困る」
「え?」
「金がかかるばっかりだぞ。値上がりするいっぽうだ」
「ですよね」
「それに、味わうもんでもない。気を紛らわせたいんなら、もっとマシなもので楽しみを見つけろ」
 全部、お見通しだったみたいだなと、奈々は自分の子供っぽさを自嘲した。
「その通りですね」
 どうせ自分には似合わない。それに今の状態に拗ねてみても、どうにもならないのだ。それを素直に思わせてくれるなんて、それだけ大人なのだと思った。


「このお店、来たことあるんですか?」
 テーブル席について、キョロキョロと辺りを見渡す。
 連れて来られたのは、こぢんまりとした居酒屋。和風造りの佇まいで、低予算なのか地味な内装だけど、そこそこの賑わいを見せていた。
「いや。初めてだ」
「それもそうですよね」
 よく考えたら、店の見まわり頻度の少ないこの街に、桐生の行きつけの居酒屋があるのもおかしい。奈々は妙に納得した。
「好きなの頼んでいいぞ。遠慮するな。俺の奢りだから」
 桐生がドリンクのメニュー表を手渡してきた。
「いいんですか? 私、まだ、未成年ですけど」
 この間の歓迎会でビールを取り上げた張本人が、今日は酒を飲めと言ってくるのだから、奈々はメニュー表と桐生の顔を交互に見てしまった。
「この間は仕事の飲み会。けど、今はプライベートだ。俺が許可する」
 傲慢なセリフが桐生らしい。奈々はメニュー表に目を落としながら軽く笑うと、迷わず生ビールを選んだ。
「佐藤さんは、酒強いんだな」
 それから間もなく運ばれてきたビールでお疲れ様と乾杯すると、桐生は奈々のビールの減り具合に驚いていた。
「それほどでもないですよ。でも、弱くはないかもしれません」
「かなり試しているって顔だな」
「分かりますか?」
 未成年といっても大学生になると少なからずそういった席は何度かあるわけで。ここ数ヶ月で覚えたお酒の味はビール以外にもカクテル、焼酎、日本酒、ワインと人並みレベル。
「素質を感じるよ。生ビール、即答だったからな」

 桐生が煙草とライターを取り出したので、奈々は灰皿を桐生の近くに寄せた。たまたま分煙の店で、店先で店員に聞かれた際、逆に奈々が喫煙席を勧めたのだ。
「でもどんなに頑張っても、桐生マネージャーみたいになる自信はないですよ。誰からとは言えませんけど、酒豪と聞きました」
 煙草を指に挟んだ桐生に、奈々は冗談混じりで返す。
「誰だよ、いったい」と苦笑いする桐生を前にして、奈々は、この場に和んでいる自分を不思議に思っていた。
「どちらにしても、みんなが言っていますよ」
 奈々は楽しそうに声を弾ませる。
「まあ、よく飲むほうだな。酒は好きだから」
 桐生は相変わらずの奈々の度胸に感心しながら、気持ち良く煙草をくゆらせた。
「崇宏さんともよく飲みに行くんですよね?」
「あいつだけだよ。俺に気を遣わない男は。一緒にいて楽なんだ」
「そうなんですね。だけど、私はちょっと苦手です。何を考えているのかよく分からなくて、どう答えていいのか迷うときがあります」
 奈々はグラスを握り締め、これまでのことを思い出していた。
「そうか? 逆にそういうセリフは俺がよく言われるけどな」
 女受けのいい崇宏をそんなふうに言う人間も珍しい。そう思いながら、桐生は灰皿に灰を落とした。
「終始、からかわれているみたいで。本音が見えない感じが、ちょっと近寄りがたかったです」
「実際は、根はいい奴だよ。裏表がないから安心してつき合える」
 桐生は崇宏のフォローにまわったが、奈々の言葉に悪い気はしない。むしろ、優越感を感じていた。それに自分はそう思われていないことに安心もしていた。
「なら、親しくなれば印象は変わるんでしょうか?」
 だが、奈々のまじめ過ぎる問いかけに調子を崩された桐生は、煙草をもみ消した。
 親しくだと!?
「なんなくていいよ!」
 それからビールを勢いよく喉に流し、グラスをテーブルに置くと力説した。
「崇宏は危険人物だ。関わる必要はない」
「え、それ、さっきと矛盾していませんか?」
「いいんだ。とにかく、あいつはお前が太刀打ちできる相手じゃないんだから」
 言いながら、なんだこの敗北感は、と自分が情けなくなる。まさかとは思うが、崇宏のことは侮れない。そんな思いから、つい力が入ってしまった。

 残っていたビールを飲み干すと、熱くなった感情を押し殺すように、二本目の煙草をくわえた。奈々はそんな桐生に戸惑いながらも、会話を見つける。
「さすがにペース、早いですね」
 桐生のグラスがすでに空になっていることに気づいた奈々がそう言うと、桐生は「ん? ああ」と呟いて、タイミングよく料理を運びに来た店員に二杯目を注文した。
「生ふたつ」
 奈々の分もだ。
「勝手に注文しないで下さい。いくらなんでも桐生マネージャーのペースについていけません」
 びっくりして、慌てて止める。
「いいから飲め。お前、最近元気がないんだから、酒でも飲んで嫌なことは忘れろ」
「別に、嫌なことなんてありません」
 奈々は思い出したくなくて、ムキになって言い返す。だけど、目を合わせられなくなって視線を下に移した。
「何かあったんだろう? 見てれば分かるよ」
 ゆっくりとした声が聞こえてきた。見上げた先には、すっかりリラックスした様子の桐生が料理を堪能中。そこで初めて、誘われた理由に気づく。
 もしかして、今日も私を心配して……?
「環境が変わると、いろいろあるよな」
 しみじみと口にする。
 だけど深く詮索するつもりはないらしい。桐生はそれ以上、言わなかった。
 奈々は黙って、水滴で濡れたグラスを見つめていた。グラスを握りしめる手が少しだけ震えた。あの時の感情が蘇ってきて、悔しさと悲しさが再び奈々を苦しめていた。
「その通りです。帰省中に例の彼といろいろとありまして……」
 辛さが勝り、それ以上、言葉を続けられなかった。やはり桐生にも気づかれていた。工藤にも同様のことを言われ、気をつけていたつもりだったが、態度にでていたようだった。
「でも仕事に影響させないところは褒めてやるよ。よくいるんだよ。バイトを休んじまう女の子が」
「その気持ち分かります。私も休みたかったですから」
「それは勘弁だな。そんなことでスタッフに毎回休まれたら、こっちは困るよ」
 桐生は慰めるどころか、最後にばっさりと言い放った。
「“そんなこと”って……」
 言っていることは正しいと思うが、奈々はどこか納得いかなくて、長いまつ毛を伏せてしまう。胸の中にある苦しい想いに負けないように必死で頑張ってきたのに、ぞんざいに扱われたみたいに思えた。
 しかし桐生は、奈々の気持ちに気づいていないのか、相変わらず平然とした態度で料理に箸を伸ばしていた。
 そして二杯目の生ビールと追加の料理が運ばれてくる。本日二回目の乾杯。奈々は気まずさを感じながらグラスを合わせた。

「桐生マネージャーは、お強いですね」
 アルコールがということなのか、それとも別な意味か。奈々はグラスを傾けながら、ぽつりと言った。
「これくらい普通だよ。それに“そんなこと”で休むような人間を、俺が採用するわけないだろう。今回、それが証明されたわけだ」
 グラスに口をつけようとしていた奈々は、急に何を言い出すのだろうと戸惑いの表情を見せた。
「恋愛と仕事とは別だ。仕事をする場所にプライベートの感情を持ち込んだら、それは邪魔なものになる。働く場所で何が一番大切なのかを考えたら、俺の言っていることを理解できるはずだ」
 一番大切なこと、それはお客様に対する気持ち。また来て頂けるように、精一杯のサービスをすること──
 まったく。やさしいのか、冷たいのか、判断がつかない。不意をつかれた奈々は、おかしくてグラスを持ったまま声を出して笑った。
「ほら、料理も食べろ。のんびりしているとなくなるぞ」
 そう言って桐生はまるで水を飲むようにビールをグイグイあおる。奈々はその飲みっぷりに感心していると、ビールを飲み干した桐生に「さっさと飲め。三杯目いくぞ」とけしかけられた。
「桐生マネージャーは、ほんと、強すぎます。飲んでますし、食べてますから。それ以上、煽らないで下さい」
 同じペースで飲んでいたら、間違いなく潰れてしまう。奈々はメニュー表を手に取る桐生を必死に止めた。
「お前がちゃんと食わないからだろ」
「十分、頂いています」
「普段もだよ」
「え?」
「もう少し、太ってもいいと思うぞ」
 このお店に入るとき、和風料理ならではの匂いが外まで漂っていた。いろいろな匂いが混ざり合い、それでもそれはおいしそうな匂いだった。この人は少なくともその匂いを気に入って、ここに連れて来てくれたんだなと、奈々はぼんやりと思う。
「それ、桐生マネージャーの好みですか?」
 奈々がからかうように尋ねた。
 桐生は「そうだなあ」と目線を動かしながら答えを探す。そして、さらりと、だけど大まじめに続けた。
「たいていの男は女に触り心地の良さを求めているもんだよ」
 奈々は咄嗟に自分の胸元を見た。
 ……ひどい。今のセリフ、絶対にわざとだ。だって、笑いを堪えている。
「どうせ、私の触り心地はたいしたことありませんよ。もう、そんなことを言っていると女性に嫌われますよ」
「別に好かれようとも思ってないけどな」
 手ごわい。ああ言えばこう言う桐生のマイペースぶりに、奈々は腹を立てるのを忘れてしまうほどだった。
            




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