3.甘く酔わされて(014)

 
「そう言えば、桐生マネージャーは独身なんですか?」
 白身魚の淡白なお刺身を味わっていると、桐生がじっと奈々を見つめる。
 この質問は、この間、工藤から聞きそびれたこと。何か変なことを言っただろうかと心配になって、奈々は大きな瞳をパチクリさせた。
 すると「あのなあ」と気の抜けた声が聞こえ、今度はジロリと鋭い目つきをされた。
「家庭持ちだったら、崇宏と朝まで飲み歩くわけないだろ」
「そういうものなんですか?」
「結婚はそういうもんじゃないのか?」
 桐生マネージャーの結婚観……
 いきなりすごいものに触れてしまったような感覚に、奈々は驚いて箸が止まった。でも料理でいっぱいになったテーブルを眺めながら思うことは、自分の家族のこと。
「そうですね。やっぱり、一緒にごはん、食べたいです」
 奈々は心からそう答えた。
 あたたかな家庭に憧れる。旦那さんと可愛い子供。子供はやっぱりふたり以上かな。そして食事は家族一緒がいい。朝も夜も。毎日は無理だろうけど、だからこそ、大切な時間だと思う。
 理想はありふれたものだけど、親元を離れると、奈々は尚更そのことを強く感じるのだった。
「意外でした。桐生マネージャーも結婚願望があるんですね」
「したいと思った女に出会ったことはないけどな。本音を言うと、考えもしなかったかもしれない」
「……えっ?」
 奈々は、弾かれたように顔を上げた。
 桐生は二十代後半。それなりに女性とのつき合いはあっただろう。なのに、一度も結婚を意識したことがないなんて信じられなかった。
「なにげにサイテーですね」
 思わず心の声が出てしまった。ハッとしたけれど手遅れで、言い訳を考えていると「何か言ったか?」と聞き返された。
「い、いえっ、なんでもないです」
 よかったと、奈々は胸を撫でおろす。どうやら、さっきのは桐生には聞こえていなかったようで、それをいいことに、奈々は大袈裟なくらいに首を振って誤魔化した。
「ふーん。今、『サイテー』って聞こえたんだけど?」
 しかし、静かに呟かれた声は奈々の元へ低く届いた。
 こ、この人……卑怯だ! 大人びくせに嘘ついた!
「聞こえていたなら、いちいち、聞き返さないで下さいっ」
 奈々は箸を握り締め、恥ずかしさと悔しさから顔を真っ赤にしている。桐生はその様子を楽しげな笑みを浮かべながら、眺めていた。
「でも、俺もいい年だし、次の恋愛で最後にしたいよ」

 奈々の怒りがおさまった頃、桐生がしんみりと言った。
「ということは、今は、彼女とかはいらっしゃらないんですね」
「今は崇宏一筋だよ」
 そう言って力なく笑う桐生に、奈々は思わず吹き出した。「笑うな」と睨まれたが、怖さはない。
 妻はいなくとも、特定の誰かがいるのかもと思ったが、そうではなかった。見た目がいいから女性にはさぞモテるだろうにと思いながら、気づくと奈々のグラスも底が見えていた。
「それにしても崇宏さんと仲がいいんですね」
「崇宏も酒好きだからな。俺のペースについてこられる奴はなかなかいない。でもお前も結構強いな」
「そう、見えるだけです」
「顔に出ないタイプか」
「はい。たぶん、そんなに強くはないような気がします」
 実際はビール二杯でかなりいい気分。弱くもないが、どちらにしても、まだ限界を知らないのでなんとも言えない。

 こうして頼んだ料理を堪能しながら、いつしかふたりは焼酎へと切り替えていた。
「おかわり!」
 奈々はすっかり酔いがまわっている。一方、桐生は変わらない。
 さすが酒豪。絶対この人には敵わないと奈々は思いながらも悔しい気持ちもあって、無理やりに桐生のペースに合わせていた。
「無理すんなよ」
「平気ですよ。今日は桐生マネージャーの奢りなんですから、飲まないと損ですもん」
「気をつけろよ。俺だって酔うとなにするか分かんねえぞ」
 唇の端を上げて挑発的に言う桐生に、奈々はムッとした表情をする。
 馬鹿にして。そんなつもりもないくせに。男って、これだから信用できないんだ。
「いいですよ、別に。だってもう別れちゃいましたから。もう、誰とどうなってもいいんです!」
 アルコールのせいもあって、投げやりに言葉を吐いた。
 彼女という存在がありながら、ほかの女性に目がいってしまうのは男なら誰にでもあり得ることなのは分かっているつもり。だけど、まさか自分の身に起こるとは思ってもいなかった。
 どうして平気で嘘がつけるのかな?
 例え、優輝にとってそれが浮気相手との戯言だったとしても、許せなかった。
 他の女の子との経験が染みついた言葉と仕草。あの日、自分の知らないところで身につけた恋愛のテクニックを試されていたみたいで、目の前にいる人を汚らわしく思ってしまったのだ。

「自棄になるなよ。危なっかしいなあ。俺だからいいものを、そこらへんの奴だったらすぐにやられるぞ」
「私にそんな魅力はないですよ。浮気されるくらいなんで」
「それが、目を腫らしていた直接の理由か」
 なるほどねと思い、桐生は目を伏せる。予想はしていたが、なぐさめるつもりもなく、無関心に箸を動かした。
 奈々は器用な箸さばきに見とれながら、随分と無意味なことを口走ったと、気づく。
「私の悩みなんて珍しくもないことですよね。みんなそれぞれいろいろなことを抱えているのに」
 そう言って、深い溜息をついた。
 それなのにどうしてこんなにも胸が軋むように痛いのだろう。
 東京での生活にも慣れ、バイトにもやりがいを感じてきたのに、突然、振り出しに戻ったみたいに思えた。また最初からやり直し。積み上げてきたものは、まだ小さかったけれど、土台がなくなって途方に暮れていた。
「そいつ、寂しかったのかもな」
 相手のことも事情も知らない桐生が、何を思ったのか、急に真顔になって呟いた。
「それもあると思います。私、自分のことばかりでしたから。相手を思いやることをしていなかったんですよね。当然の流れだったのかな?」
 桐生は返事をせずに、黙って何かを考えている。でもそこにはクールさは感じられない。
 活気ある店の雰囲気の中、小さなテーブルを挟んで、お互いに見つめ合った。何かが変わりそうな予感を互いに感じながら、心が穏やかになっていった。
「人間、そんなに強くない。だけど、浮気がいいってことにはならないし、みんながみんなするわけでもないだろう?」
「はい」
「その男は結局それまでの男だ。遅かれ早かれ、お前を傷つけていたはずだ」
 確かに、あの日、そう思っていた。そういう運命だったのだ、と。浮気相手を恨むのは筋違いだし、彼のために何をすべきだったのかを考えたけど、今さらなこと。結局、優輝との結びつきがそれまでのものだったということなのだ。
「無駄なことなんてないぞ」
「そうですね」
「落ち込むことも、挫折も」
 桐生の微笑に、奈々も笑みを漏らす。
 言っていることは決して軽くない。それなりの人生経験がうかがえて、それはきっと深いものなのだろう。
 たくましい生き方をしてきた人だ。奈々は桐生に男らしさを感じていた。
「説得力ありますね。私ももう少し大人にならないと」
「なろうと思ってなれるもんじゃないよ。いいんだよ。普通に生きてりゃ、そのうち、いろんなことに揉まれて、嫌でも変わっていくんだから」
 長めの前髪をかき分けて、桐生の綺麗なおでこが覗いた。ストレートの黒髪がやわらかくサラサラと流れた。
 奈々はちょうどいい酔い加減になった今、夢中で駆け抜けてきたそれまでを懐かしい気持ちで思い出している。それは、リセットの瞬間。すべてを忘れるわけではなく、新たな道標を頼りに新しい道を選ぶ時──

 日付も変わり、とっくに終電もなくなっていた。
 あれから、少し飲み足して、奈々の意識は朦朧の一歩手前。
「今、タクシー呼ぶから。送る」
「大丈夫ですよー。ひとりで帰れまぁす。近いですからぁ」
「ひとりで歩いて帰るつもりかよ。本当に襲われるぞ」
 桐生は店の従業員にタクシーを呼んでもらい、タクシーが到着すると、奈々を乗せて自分も乗り込んだ。
「どの辺だ?」
「えーっと……駅前通りを下ってぇ……お茶屋さんの角を左に曲がってぇ……まっすぐでーす」
 言葉の呂律は微妙だが、それでも泥酔とまではいかない程度に意識は保っていた。思ったよりアルコールに強いんだなと、飲む前とさほど変わらない奈々の顔色を見ながら桐生は思っていた。ほんの少し頬がピンク色に染まっているのは奈々が色白だからだろう。
「あ! そこでいいですぅ」
 奈々が指さしたマンションを見て、桐生はタクシーを止める。
「すぐ戻ってきますから」
 桐生は運転手に待ってもらうように頼み、奈々をタクシーから降ろすと、千鳥足の彼女を支えながら、部屋の入り口まで送った。
「すみません……送って頂いちゃって……」
 澄んだ瞳で可愛らしく言われた桐生は、柄にもなく照れてしまう。腰を支えていた手が妙に緊張して、慌てて力を抜いた。
「いいよ。俺が飲ませ過ぎたんだから。それより鍵」
 奈々から鍵を受け取り、彼女の代わりに部屋のドアを開ける。
「ここで大丈夫だよな?」
「はーい……」
「……参ったな」
 さっきまで保っていた意識がだんだんと薄れていく奈々。危険だと感じた桐生は、奈々を部屋の中まで連れて行くことにした。勝手に上がり込むのはまずいとも思ったが、ここで帰るときっと玄関先でそのまま寝入ってしまいそうな感じだった。

 桐生はワンルームの部屋のベッドまで奈々を連れて行くと、ベッドに座らせた。眠そうに、うつらうつらの瞼は、あと少しでくっつきそう。
「明日の午前中の予定は?」
 バイトは遅番なのは知っている。念のため、その前はどうなのだろうと確認した。
「それは……ご心配なく……ついでに、わた、しも……だいじょーぶ、です」
 瞬きしながら、なんとか答える。
 どこがだよと、桐生は心配そうに見守りながらも、これ以上、ここにとどまるわけにもいかないと、ドアを見つめた。外にはタクシーを待たせている。もちろん、それだけが理由でもないが。
「それじゃあ帰るぞ。鍵はドアポストに入れておくからな」
「んん……」
 ゴロンと横になる奈々に、布団をかけてやりながら悶々とした気分になる。奈々のシャープな顔のラインに手を伸ばし、苦しいだろうと鼻と口にかかる髪をそっとよけた。
 すると、ほんのりと色づく頬とやわらかそうなピンク色の唇が見えて、誘惑に駆られそうになる。女としての、ぞくりとする色気を感じていた。
 桐生は思わず、ぎりぎりまで唇を近づけて……
 けれど、上司として必死に抑え込む。きっとここでキスをしたら、それ以上のことを求めてしまうかもしれない。
 まだ幼さの残る寝顔から、静かな寝息が聞こえてきた。
 思ったより行動に移すときが早く来そうだと予感をしながら、今までにないタイプの女を好きになって困惑もしている。
「なんなんだよ、お前は……」
 桐生は、奈々の寝顔を見つめるしかなかった。


 ◇◆◇


 タクシーが静かに走り去って行った。
 眠りの世界に落ちた奈々。この日の出来事を自覚するのは次の日の朝のこと。いろいろなことを思い出し、部屋まで送らせただけでなく、見事な醜態をさらしてしまったことへの羞恥心にしばらくの間、陥ってしまう。
 次に会ったときにどんな顔をすればいいのだろう。ただそればかり考えてしまい、桐生を意識せずにはいられない。
 酔っていたのに、なぜか鮮明に覚えている。まわされた腕の力強さ、手の平の温かさ、野心がみなぎる熱い瞳。近くで感じてしまうと彼の引力によって引きずり込まれてしまいそうになる。
 それが好きという気持ちだったのか。しかし、はっきりと自覚のないまま、ひとつのきっかけは奈々の知らないところで大きく舵を切る。
 その瞬間、ふたりにとっての新しい出発点となった──
            




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