4.戸惑いの中で(015)

 
 二度目の恋は一度目よりも切なくて

 でも甘ずっぱい果汁みたいに癖になる刺激もある

 ねえ、教えて、大人の恋を

 もっと深いところでわかり合いたいの


 ◇◆◇


 ──別に会いたいわけじゃない

 奈々は自分に念を押すように心の中で唱える。
 8月も終わりに近づいていた。桐生とはあれ以来、つまり1ヶ月以上会っていない。けれど、会わない時間が気持ちの変化に拍車をかける。揺れ動いていた気持ちが、どんどん傾いていた。
 気づくと考えてしまう。いくつもの触れ合いを思い出し、胸の中の高揚感に戸惑っていた。奈々は、それがどうしてもいけないことのように思え、自分の気持ちを拒絶し続けていた。

 目の前にはオレンジ色のカクテル。淡いピンクのネイルの施された細い指先が、グラスに添えられた。
「優輝くんが浮気かあ」
 弥生が同情の声をあげた。
 今日は弥生に誘われてショットバーに来ていた。大学が夏休みに入って初めて会うので、久しぶりの再会。奈々は透明なカクテルグラスに口をつけて、さっぱりとした喉越しを味わった。
「辛かったね、奈々」
「うん。なんで浮気なんてしたんだろうって何度も考えちゃった」
「最初は理解できないんだよね。まさか自分の好きな人がそんなことするなんて──ってね」
 弥生は冗談めいた感じで言うが、どことなく切なそうな顔をする。
「夢であってほしかったよ。でもこれが現実なんだね」
「でも、遠距離だったから吹っ切れやすいんじゃない?」
「うん、そうかもしれない。偶然会うこともないし、簡単に会える距離じゃないのはよかったかも。もちろん、ここまで気持ちをもってくるのは大変だったけど」
 しみじみとした話でもお酒は進む。今日のふたりは絶好調。さっそくカクテルのおかわりを頼んだ。
「それにしても、許せないなあ。浮気された方の気持ちを考えたら、そんなことできないのに」
 奈々よりもアルコールに弱い弥生は、酔うとすぐにテンションが上がるらしく、奈々の気持ちを代弁するかのように熱く語りだした。
 もしかして弥生も似たような経験をしたのだろうか。奈々はさっきの弥生の切なそうな顔を思い出し、自分の思いに重ね合わせて、胸が締めつけられた。
『私ね、友達がほとんどいなかったんだ』
 弥生と出会った頃、彼女が言っていたセリフ。大学生になった今でもそれは変わらないようで、大学でもほかの女の子達とあまり絡まない。それは男の子に対しても同じ。唯一、気を許していたのが奈々だった。
 奈々の気取らない性格と地方出身という境遇は、東京での殺風景で刺々しさすら感じていた生活の中での癒しみたいな存在となっていた。弥生はとても繊細で純粋な子だった。
「弥生が男の子だったら、よかったよ。大事にしてもらえそう」
「もちろん、尽くしちゃうよ」
 ふたりはカウンター席で笑い合いながら、カクテルを楽しんだ。

 そうこうしているうちに、飲みはじめて2時間ほどたった。
「結構飲んだね。大丈夫?」
 トロンとした目の弥生に声をかける。
「んー! もちろん! 次はモスコミュール!」
 しかし、お酒の強い奈々のペースで飲んでいたため、すっかり酔っていた。ついこの間は奈々が飲まされて酔い潰れたばかりだが、今度は奈々に弥生が飲まされるという逆の展開。
「ななぁー。早く、おかわりぃ」
「お酒はもう終わり。もう……弱いのに、アルコールの強いお酒ばかり頼むんだから」
「いいからぁ。早く、注文してー」
 そう言ってまだ飲むつもりでいる。でも、これ以上飲ませるわけにいかない。
「もう帰るよ」
 スツールから弥生を引っ張り下ろす。
「ええ!? もう?」
「そうだよ。出るよ」
 もう十分飲んだからと奈々は支払いを済ませると、ふらついている弥生を抱きかかえるようにしてお店を出た。

 しかし、お店を出たのはいいけれど、歩くことがおぼつかない彼女を抱えて電車に乗ることは厳しい。
「弥生、しっかりして。ちゃんと歩いてよ」
 歩きながら声をかけるが「んー……」と言うだけ。瞼もすわり、反応がなくなりかけていた。
 タクシーで送ろうにも家の場所までは知らない。奈々は、自分の家に連れて帰るしかないなと、タクシープールへと向かった。

「弥生、携帯鳴ってるよ」
 タクシープールに行く途中で、小さな音を立てて携帯が鳴った。その音は弥生のバッグの中からだった。でも彼女の耳には届いていない。とうとう、崩れるように地面に座り込んでしまった。
 どうしよう。ホテルにでも泊まろうか。
 携帯の音が鳴り止み、そんなことを考えていると、再び携帯の音が聞こえてきた。
 メールではなくて電話ということは、急用なのかな?
 奈々は、思い切って弥生のバッグを漁り携帯を取り出すと、電話に出ようと通話ボタンを押した。
『弥生?』
 電話越しの声は男の人。ディスプレイには『直人』と表示されていた。
「ごめんなさい。私、弥生じゃないんです。今、弥生と一緒にいるんですけど、彼女、飲み過ぎちゃって電話にも出られない状態なんです」
『酔いつぶれたの?』
「はい。なので私の家に連れて帰るところなんです」
 話しながら弥生に目を向けると、今にも寝落ちしていまいそうなほどに意識が朦朧としている。それを見て、マンションの部屋までどうやって運ぼうかと考えていると、電話の相手の直人という男の子が迎えに来てくれることになった。
「いいんですか?」
『駅で待ってて。車ですぐ行くから』
 直人はそう言うと、あっさりと電話を切った。
 へえ。ふたりは、そういう仲なんだ。
 少しの会話から、ふたりの親密さがうかがえる。奈々は、いつの間に弥生に彼氏ができたのだろうかと冷静に思っていた。

 タクシープールから少し離れたベンチ。そこで直人が来るのを待った。目の前には一般車の送り迎えの車が行き来している。
 車で迎えに来ると言っていた直人。彼は、どんな人なのだろう。
 ここはあまり人が通らない。のんびりと休んでいると、弥生は安心したのか、奈々の膝の上ですやすやと眠りはじめた。

 それから30分程たっただろうか。目の前に影が立ちはだかった。
「ごめんね。待たせちゃって」
 明るめの声に顔を上げると、そこには今どきな感じの男の子。斜めに流した前髪はどこかのアイドルグループの人みたいで、耳にはピアスが何個もついている。
 この人が直人か。軽そうだな。第一印象はそんな感じ。堅実そうな弥生とは正反対な彼に奈々は少しの違和感を覚えた。
「車を待たせてあるから。君も家まで送るよ」
 直人はそう言うと、車の方へ視線を移す。そこには白い車。その運転席にはまたもや知らない男の子がいた。

「あの人、お友達ですか?」
 暗くて、どんな人なのかよく見えない。奈々は直人に尋ねた。
 いきなり初対面の人の車に乗ることを躊躇しながらも、だからと言って弥生ひとりを預けて自分だけ電車で帰ることもできないと悩んでいた。直人は弥生のカレだから大丈夫だと思うのだが、万が一何かあったらと心配でたまらない。
「あいつは、大学の友達だよ」
「大学生?」
「うん。君は、弥生と同じ学校?」
 奈々が頷くと、直人の顔がパッと明るくなった。
「よかった。こいつ、あんまり友達がいない感じだったから。仲いいの?」
「一番の友達です」
「そっか。なんか安心した」
 直人の屈託のない表情に、奈々も少しだけ心を許すことができた。この人は少なくとも弥生のことをちゃんと知っている、そう思えた。
「ちょうど、あいつの家にいたから車を出してもらったんだけど、正解だったな。こんな状態じゃ、女の子が連れて帰るのは無理だろう」
 軽々と弥生を抱き上げた直人はそう言うと、車の方まで歩いて行く。それから、後部座席に弥生を乗せると奈々の方を振り向いた。
「遠慮しないで乗ってよ」
 抵抗を感じている奈々のために、直人は助手席のドアを開ける。
「大丈夫だよ。こいつ、運転うまいから。俺が言うのも変だけど、安全運転は約束するよ」
 強引な感じだけど、まっすぐな瞳。きっと裏表のない人なのだろう。直人の番号は弥生のアドレス帳にも登録されていた。弥生の知り合いには間違いないのだから、きっと大丈夫に違いない。
 奈々は冷静に考えて納得すると、助手席に乗り込んだ。

「お邪魔します」
 運転席の男の子に声をかける。
「どうぞ。あ、シートベルト、締めてね」
 運転席の男の子がものやわらかに言った。それから奈々の最寄り駅を確認するとハンドルを握り、にっこりと視線を向ける。
「それだと弥生ちゃんの家の方が近いから、先に彼女を送ってからでもいいかな?」
「はい。私まで送ってもらって、すみません」
 誠実そうな雰囲気に、奈々はほっとしていた。
「遠回りになっちゃいますよね?」
「いいよ、いいよ。これくらい。俺、運転は好きな方だから」
 彼は、笑顔でこともなげに答えた。
 彼は直人とはタイプが違う。無邪気さが残る少年のような人に思えた。
 静かに車が動き出すと、奈々はシートに身体を沈めた。なにげに隣を見ると街のネオンに浮かび上がる彼の横顔。目尻に見えた笑い皺が好印象だった。
            




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