4.戸惑いの中で(017)

 
 大学の夏休みも終盤に差しかかっていた。
 達哉と連絡先を交換してからはメールのやり取りを何度かしていたが、どれも他愛のない内容。ごはんやドライブに誘われることはなかった。
「それだけメールしているんなら、わりとカレカノみたいなんだけど」
 この間のお詫びにと、今日は弥生のおごりで一緒にお昼ごはん。ふらりと入った洋食屋さんで、デザートを食べていたときだった。酔っ払って記憶をほとんどなくしていた弥生に根掘り葉掘り尋ねられ、仕方なく近況とともに正直に話したら、思ってもみないことを言われた。
「違うよ。ぜんぜんそんなんじゃないんだって」
「いいと思うけどな、達哉くん」
「いい人だとは思うけどね」
「やさしすぎて物足りない?」
「それも違う」
「じゃあ、なに?」
「今のところ恋愛感情とまではいかない」
 奈々はきっぱりと言い切った。
 達哉には、友達以上の感情は持てなかった。やさしくて、頼もしくて、誠実な彼。申し分ないのに、どうしてか惹かれない。
 恋はしたいと思う。辛い思い出が残っていても、またいつかと思えるくらいに気持ちは前向きだ。
「なんだ残念。ダブルデートを期待していたのに」
 意外に頑固な奈々の性格を知っている弥生は、すっかり諦めモードで笑うしかなかった。


 その日の午後、バイトに励んでいた奈々に一際目を引く姿が飛び込んできた。
「おはよう」
 低音の声はすっかり聞き慣れた声なのに、やはりドキリとしてしまう。
 圧倒的な存在感は健在。それまでの近寄りがたいイメージは影を潜め、尊敬できる上司としてすっかり定着していた。
「久しぶりだな」
 声をかけてきたのは桐生の方からだった。
「おはようございます。この間は、すみませんでした」
 桐生と会うのは、あの泥酔状態を見られて以来だ。
「この間のこと、ちゃんと記憶にあるんだ?」
「はい。ぼんやりとですが、いろいろと。あのう、かなり、ひどかったですよね」
「そんなに気にすんなよ」
 そう言われても、無駄に記憶が残っているだけに落ち込む。あんな姿を他人に見せたのは初めてだった。
「なら、あのことも覚えているんだ?」
「あのこと、ですか?」
 覚えのない奈々は、顔面をひくつかせながら、あの夜のことを考えていた。
 服は着ていた。リバースもしていない、と思う。じゃあ、あと考えられるのはなんだろう?
 ……泣いた?
 いやいや、翌日は目は腫れていなかったと思い直す。
「なんでもねえよ。今、言ったことは忘れろ」
 そう言われても、奈々にとってはその意味深な言葉はかえって不安を煽るばかり。
「私、失礼なことをしたんでしょうか?」
 奈々は、恐る恐る尋ねる。案外、自分の都合のいいことだけしか記憶に残っていなくて、肝心な部分が飛んでいるのかもと思った。
「たいしたことじゃないよ」
「気になりますよ。聞きたくもないんですけど。でも失礼なことをしたのならお詫びします」
「お前が何かしたとかじゃねえよ。俺が、ちょっとな」
「桐生マネージャーが?」
 何がなんだか分からずに聞き返す。
「そのうちな。まあ、また、ゆっくり飲みにでも行こうぜ」
 桐生は安堵していた。どうやら、帰り際のキス未遂は気づかれていなかったようだ。
 だが、触れなくてよかった。あのときの心情を思い出し、桐生は我ながら恥ずかしくなる。まるでガキだなと昔の自分を思い出した。
「次が楽しみだな」
 桐生は軽く冗談めかして言う。
「は、はい……」
 だが、奈々にとっては一大事。デートにでも誘われているような気持ちになる。
 その一瞬に胸の高鳴りを覚え、だけど気のせいに決まっていると自分の気持ちを否定した。一度目は気まぐれだとして二度目にはどんな意味があるのかと変に勘ぐってしまうが、冷静に思考を働かせ、どうせ社交辞令だろうと気にしないようにした。
 誰にでも同じようなことを言って、からかっているのかもしれない。きっとそうだ。


 20時になり、桐生と笠間は偶然に勤務終わりが一緒になった。
『途中まで一緒に』
 笠間が声をかけると、桐生が立ち止まり、彼女の帰り支度を待っている。笠間は当たり前のように桐生を待たせ、すぐに支度を終えるとふんわりとした笑顔を見せた。
『いいのか?』
 桐生が隣に並んできた笠間を見て、静かに言った。
『ええ』
 桐生を見上げ頷く笠間も、おっとりした感じ。

 一時間ほど前にふたりは店を出た。
 遅番の奈々は、ふたりの後ろ姿を思い出しながら、漂う大人の雰囲気にただならぬものを感じていた。仕事中も、桐生と笠間は妙に息が合っていたように見えた。ただなんとなくだけど、お似合いだなと思っていた。

 その日、レジ締めでトラブルが発生した。レジのお金とレシートの売上が二円合わないのだ。
「もう! 何でよ!?」
 たかが二円、されど二円。必死になりレジのお金を三回も数え直す。しかしそれでも手元の現金は二円足りなかった。
「もう、がっかりだよ」
 この最後の業務がうまくいかないと、それまでの仕事の達成感が一気に下降するのだ。
 仕方なくレジの横の引き出しから二円取り出した。どうしてもお金が合わないときは引き出しに隠してあるいわゆる『へそくり』から小銭を出し入れしている。奈々はお借りしますと心の中で手を合わせた。
 こんなふうに帳尻を合わせることは時々ある。もちろん本当はやってはいけないことだけど数円の相違はよくあること。
『金額が合わないとショッピングセンターの事務所の人がうるさいからね』と以前、工藤も言っていた。みんな苦し紛れにへそくりを利用している。実際、へそくりの小銭入れには常に百円近くの小銭が入っているのだから、みんな必死なようだ。
 こうして、いつもより少し時間がかかったけど、なんとかお店を閉めることができた。

 ショッピングセンターの従業員用出入り口の目の前は、対面通行の幅の狭い道路になっている。車の交通量もそれほど多くなく、人通りは夜ともなるとほとんどない。
 だからいつもと違う状況に、奈々は足を止めた。浮かび上がる人影に、痴漢だったらどうしようと息を飲む。街灯の弱い光では、その影の正体は分からない。
 そのとき、「お疲れ」という言葉に、奈々の身体は大きくのけ反った。同時に「うわっ!」と色気のない声まで出てしまい、慌てて口元を押さえる。
 奈々を驚かせたのは外壁によりかかって煙草をくわえている桐生だった。
「ずいぶん時間かかったな。何かあったのか?」
 先に帰ったはず。なのに、どうして?
 それよりも時間がかかった理由を、まさか二円合わなかったのでお金を数え直していましたなんて言えるわけない。
「いえ、何もありません。少し商品整理をしていたもので」
「ふーん……怪しいな」
 やだやだ、怪しくない!
「金額は合たっか?」
「……えっと、はい。ぴったりでした」
 面白がっているように見えるのは気のせいなのだろうか。からかわれているような気がしてならない。
「いくら?」
「はい?」
「相違の金額だよ」
 涼しい顔が逆に怖い。

 奈々は数秒考えたあと、申し訳なさそうに呟いた。二円でしたと聞いた桐生は何も言わず、一度だけ頷いた。
 長年、店舗で販売業務を勤めてきた彼なのだから、現場のことは容易く察することができる。奈々も素直に反省している。それでいいと思ったのだ。
「すみません」
「俺も覚えがあるよ。そこは、どの店舗でもしっかりと引き継がれているんだな」
 桐生は笑いながら煙草を携帯灰皿にもみ消した。
「まあ、褒められたことじゃないけどな。金の受け渡しは慎重に行うように、俺も指導しておくよ」
 煙草の匂いが消えかかる頃、そう言った桐生の目が奈々をやさしく見つめており、普段は厳しい彼の掴みどころのない部分に奈々は少しだけ混乱していた。
「飯行くぞ。どうせろくなもん食ってないんだろ?」
「え? め、めし?」
 急に話題が変わり、あわあわする奈々。しかし、そんなことにお構いなしに駅の方面へと歩き出す桐生。その背中を目で追いながら、それでここで待ち伏せしていたのかと納得しながらも、どうして自分を誘ってくれるのだろうかと不思議な気持ちだった。
「おい! 何突っ立っているんだ? 行かないのか?」
 そう言って桐生は立ち止まったままの奈々を待つ。
「いえ。行きます。行かせて頂きます」
 それにしても、昼間に桐生が言っていた『次』の機会が数時間後のことで、あれはそういう意味だったのだ。奈々は、強引さに負けて足早にあとを追いかけた。
「何をご馳走してくれるんですか?」
 また誘ってもらえた。奈々は、それがうれしくて楽しそうに尋ねる。
「うまいもん、食わせてやるよ」
 桐生は、まかせておけと、どや顔で答える。
「期待しちゃいますよ」
「大丈夫だ。たぶん裏切らないから」
 へぇ。楽しみ。高級和牛? それともお寿司? はたまた会席料理とか? 『うまいもん』てなんだろうと、奈々の胸は弾んでいた。
            




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