4.戸惑いの中で(018)

 
「え、このお店……」
 ろくなもん食ってないんだろと連れて来られたお店。それがこの間と同じ居酒屋というオチだった。確かにこのお店の料理はおいしいけど、変に期待していたばかりに、テンションは盛り下がる。
「女心を分かっていないとよく言われません?」
 冗談半分で言ったのに。
「別に理解するつもりもないけどな」
 しれっと、だけど本気の答えが返ってきた。
 ……あるんだ、やっぱり。
「そうですよね。桐生マネージャーは、そういうの気にしなくてもモテそうですしね」
「さっきからなんの話だよ?」
 棘のある言い方をする奈々に、しかめ面する桐生。奈々はきまりが悪くなり「なんでもありません」と言ってドリンクメニューを開いた。

 まずはお決まりのビールで乾杯。
 酒豪である桐生の飲みっぷりを見ながら、今日は酔い潰れてはいけないと奈々は気合いを入れる。
 頼んだお料理は、アン肝、焼魚、冷奴となんとも渋いチョイス。テーブルはほとんど桐生の好みの料理が並べられた。
「料理もちゃんと食べろよ」
 使い終わったおしぼりをテーブルに置いた桐生が、料理皿をさっと奈々の方へずらす。
「ありがとうございます。でも、桐生マネージャーもちゃんと食べて下さいね」
 お酒を飲むとき、桐生はあまり料理に手をつけない。そのことを、この間、知ったばかりだった。
「俺はいいんだよ。普段、食ってるから」
「私も食べてますよ。いつも、そればかりですね」
「ん? 何が?」
「『飯食えよ』って会うたびに言われているような気がします」
「そうか? まあ、お前はひとり暮らしだしな。余計心配になるよ」
 ドキッとするセリフを平然と言われてしまった。でもこの人はどこまでもこんな感じなのだろう。きっと深い意味はないに違いない。
 ただ、仕事モードとは違う一面を抜き打ちで仕掛けてくるから、そのギャップにどうしてもクラッときてしまう。
 いつの間に、こんなにも……
「私のことならご心配なさらずに。子供じゃありませんので」
 ふいに生まれた感情を隠すように奈々はビールを飲んだ。

「今日は、ほどほどにしろよ」
 お店に入って1時間近くたった頃、ビールをやめてカクテルのおかわりを頼む奈々を桐生が軽く制止する。
「自分の面倒はちゃんと自分で見られます」
「別に俺が面倒見てやっても構わないなら、そうするつもりだけど?」
「え?」
「嫌なら、加減しとけ」
 ……何よ、この、押して引くテクニックは。
 毎回、ドキドキさせられて、勝手に心が引き寄せられていくことを止められない。達哉のような安心感とは違う大人の余裕。そして、色気に浸食されていくようだった。
 それは甘くて魅惑的な味。アルコールをたしなんでも、いつもは変わらない頬が、高揚のためにわずかに色をさしていた。
 しかし、そこで桐生が携帯を取り出した。バイブ音だ。どうやら着信らしい。
「ちょっとごめん」
 そう言って桐生が電話にでると携帯からもれてきたのは、女性の声。しかも桐生は奈々に視線を少し合わせたあと、そのまま携帯を耳に当てたままお店の外に出てしまう。
 電話の相手は女性。しかも夜の11時近くという遅い時間帯ということは仕事関係ではないだろう。つまりプライベートな電話だ。
 彼女はいないと言ってはいたけれど、体だけの関係というのも世間ではよくある話。
 もちろん桐生に限ってそんな人ではないと思いたいのだけれど。男は、裏では何をやっているか分からないものだ、と嫌な記憶がじわじわと思い出された。

 そして、そんな感情にとどめをさすように桐生の態度が一変する。それから5分ほどで戻ってきた桐生から「そろそろ出るか」と言われてしまったのだ。
「もうですか?」
「また今度ゆっくりできるときにな」
 そう言って、伝票を手に取る桐生。
 急に帰ると言い出したのは電話のせいなのか、時間が遅かったからなのか分からない。理由は、教えてくれなかった。

 帰りはこの間と同じようにタクシーでマンションまで送ってもらった。
 車内は少し微妙な空気。といってもその雰囲気を出しているのは奈々の方からで、それに違和感を覚えた桐生が、飲み過ぎたのかと心配をしている。
「大丈夫です」
 奈々は返事をしたものの、結局それ以上会話がないまま。電話の相手の女性とこのあと会うのだろうかと考えてしまい、蔑ろにされた気分だった。
 勝手に駄々をこねて情けないとは思うが、イライラとしている自分の感情は誤魔化せない。奈々はそんな自分を認めるしかなかった。

 タクシーがマンションに到着した。
「本当に平気か?」
「はい、送って下さってありがとうございました」
 奈々はお礼だけ言ってタクシーを降りマンションに帰ろうとする。だけどタクシーのドアの閉まる音がしないまま「部屋まで送るから」と桐生が隣に駆け寄ってきた。
「結構ですから。タクシーを待たせて悪いですよ」
「いいから」
 途中、エレベーターの中も奈々と桐生は様子をうかがい合い、沈黙は続いたまま。しかし、部屋の前まで来てようやく桐生が口を開く。
「今日は悪かったな。さっきの電話、急用なんだ」
「別に気にしていませんから」
「じゃあ、どうして急に黙るんだよ?」
「それは……」
 素直に言えるはずがない。言ったら困らせてしまう。
 奈々は、自分の気持ちの動くスピードが早過ぎて、ただただ混乱していた。誤魔化す言葉も思いつかなくて、まっすぐに突き刺さってくる瞳に負けそうになる。
「言いにくいなら言わなくていい。とにかく気に障るようなことがあったんなら謝るよ」
「とんでもないです。そんなことないですから。ただ、あの、いろいろ思い出すことがあって……」
 その言葉の先をつい、昔の恋になすりつけてしまった。でも本当はそんなことではない。
 気になっているのはただひとつ。こんな時間に桐生を呼び出せる女性とはどんな人なのかということ。ちらつく女性の影を脅威に感じてしまう。それは前の恋の教訓も少しは混ざっているからかもしれない。
「何かあるなら、また話を聞くから」
「……はい」

 部屋の前で桐生と別れた。
「はぁ……」
 今日を振り返り、奈々は桐生を意識していることに、はっきりと気づいてしまった。
 好き?
 ううん。たぶん、そこまでじゃないと思う。
 優輝と別れて、まだそれほど時間がたっていないから弱っているだけ。きっとそう。一時的な気の迷いなら、早く醒めてほしい。
 だけど別れ際に見つめてきたあの瞳が色濃く思い出され、鼓動も爆発的に早まってくる。彼の濃度が増していくのだ。
 そして追い打ちをかけるように、その二日後、工藤からある噂を聞かされ、さらに混乱することになる。それは恋に堕ちた証拠。桐生の女の影が奈々を苦しめていく。


 ◇◆◇


 夏休みも残りあと数日。いろいろな意味で気が重いと感じていた。
 今日はバイトの日。笠間、森、工藤が一緒だった。笠間がお昼の休憩に入ると、その隙にと工藤がそっと近づいてきて耳打ちをしてきた。
「森さんから聞いたんだけど。桐生マネージャーと笠間店長って昔、つき合っていたらしいよ」
 えっ!? あのふたりが?
 血の気が引いていく感覚。一瞬、意識がすうっとどこかに行ってしまいそうになった。
「嘘? どうして森さんがそんなことを知っているの?」
 奈々は動揺して聞き返した。
 すると工藤は一度、森の方を見てこちらに気づいていない様子を確認してから話を続ける。
「森さんが、美樹さんから聞いたんだって」
「美樹さんがどうしてそんなことを知ってるの?」
 美樹は森と同期入社の女性。桐生の過去に詳しいのは不自然だ。
「美樹さんのお店の店長が、桐生マネージャーの店長時代だった頃の部下だったらしいよ。それでもって、笠間店長と同期なんだって」
 息が止まるほどの衝撃に顔が引きつっていく。
 笠間が桐生の元彼女。あの桐生なのだから、元彼女のひとりやふたり、いや、もっとたくさんいるだろう。
 だとしても、その相手が知らない女性か、そうでないかとではショックの度合いが違う。知っているだけに、やっぱり綺麗な女性が好きに決まっているよね、と卑屈になってしまう。
 しかも、かなり確証の持てる噂だとも思う。美樹のお店の店長とは面識がある。彼女の名前は寺島。笠間とは正反対の性格で、さっぱりとした気の強そうな女性だ。
 かつて桐生と寺島は上司(店長)と部下(スタッフ)の関係。そして寺島の同期が笠間。
 笠間はたぶん東京の人間なのだろう。東京で桐生と知り合い、その後、関西へ転勤をした。訛りがないのはきっとそれが理由。
 笠間が歓迎会で言っていた言葉を思い出した。彼女が遠距離恋愛をしていたということを。ならば、その相手が桐生だということになる。
 こんな身近に桐生の元彼女がいるなんて……
 あのふたりは仕事だけの関係ではない。これではっきりした。つまり、あの電話の相手は、笠間と考えるのはごくごく自然なこと。根拠はないけれど、ここでも女の勘というものが働いてしまう。
 それはギスギスとした嫌な気持ちを伴って、笠間からの無言の攻撃を感じずにいられない。奈々は彩夏の一件以来、笠間に対してなんとなく抱いていた嫌悪感が強くなるのを感じるのだった。
            




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