4.戸惑いの中で(020)

 
 奈々と居酒屋で一緒だった夜。桐生のもとにかかってきた電話の相手が泣いてばかりで、埒があかない状態だった。
 電話の相手は笠間。桐生と笠間は以前、深い関係の仲だった。
 四年ほど前。24歳の桐生が都内の店舗で店長をしていた頃につき合っていたのが、笠間。短大卒の笠間は当時入社二年目で、桐生とは別店舗ではあったが、同じく都内にある店舗のスタッフだった。
 つき合いだしたきっかけは、会社の飲み会。笠間もアルコールは強い方なので桐生とは、うまがあった。お酒の席で意気投合し、その流れという若気の至りのような結果だった。
 そうかといって、いい加減な気持ちで抱いたわけでもなく。笠間とはきちんと恋人同士という関係を築いていた。その後、笠間に転勤の話が舞い込む半年ほどの短い期間ではあったが。

 関西での大型ショッピングモールの建設ラッシュに伴い、桐生の勤める会社『vivid prism』も集中的に店舗をオープンさせていた時期だった。もともと会社の母体がそのショッピングモールだったため、その傘下である『vivid prism』が優先的にテナントとして進出することができたのだ。
 そして会社は笠間にスキルを磨かせるために当時、関西方面で優秀だといわれていたエリアマネージャーの部下として転勤命令を下した。
 しかし遠距離となったふたりの熱は急速に降下し、自然消滅のような形で終わりを迎える。もともと桐生にそこまでの情熱と愛情があったのかといえば違うのだから、それは当然の結果だったのだろう。

 今日も笠間から電話で呼び出されていた。店の巡回の帰り。お互いがいる場所の中間の駅で待ち合わせをしたあと、裏通りにある小さな喫茶店に入った。
 桐生は、仕事上の関係の度合いを越していると感じていても、昔の男女の仲が尾を引いているのか拒みきれない。いっそのこと、迷惑と言おうかとも思ったが、笠間の性格を考えたら仕事に響くのは目に見えていた。
「なんで結婚しちゃったんだろう」
 笠間は目に涙を浮かべて呟く。
「旦那とちゃんと話し合えよ。仕事を続けたいなら、その熱意を伝えればいいだけだろ」
「言っても分かってくれないのよ」
 これで二度目の社外での相談は、前回同様に笠間の結婚生活のこと。
 前回は夫婦喧嘩の挙句、夜遅くに家を飛び出したというから、放っておくわけにいかなかった。奈々をマンションに送ったあと、仕方なく笠間のもとへ向かったのだ。しかも、その原因が仕事にあるので、こうして今日も話を聞いている。
「店長になったばかりなのに、仕事を辞めろだなんて、ひどいと思わない?」
「だから、それを俺に言っても仕方ないんだよ。夫婦のことなんだから、夫婦で話し合えよ。俺が相談に乗れるのはそのあとだ」
「冷たいのね。この間はやさしかったのに」
 そんな覚えはないと、桐生はあきれながら煙草に火をつけた。
「夜中に突然泣かれちゃ、誰だって焦るだろう」
「旦那は、あんなにやさしくない」
「知るかよ、お前の旦那なんて」
 売上が右肩下がりの店の状態をなんとかしようと思っているが、今のところうまくいっていない。店長である笠間がしっかりしてくれないと、このままではあの店の利益確保が難しくなると、桐生は頭を悩ませていた。
「それとも気になる女性でもできた?」
「今はそんなの関係ないだろう」
「自覚はしているのね。あの子のこと、そんなに気になるんだ?」
「なんのことだよ?」
「いつも目で追ってる。あなたのそういうところ、初めて見たからピンときたわ」
 さっきまで目に涙を浮かべていたのに。さっそく笠間は鋭く指摘してくる。
 その洞察力は仕事で生かしてもらいたいものだ。桐生はイライラしながら吸い殻を灰皿に落とした。

「悪いが、俺には仕事以外で関わるな。こうして個人的に呼び出すのもだ」
「あら、どうして? 仕事の相談も兼ねているのよ。こんなに悩んでいるのに」
「なら、本気を出してみろよ。もっと真剣に仕事に打ち込んでもらわないと、店長としての評価を下すことになるからな」
 この世界は見た目よりも厳しい。店長になるということは、店の経営を任されるということ。能力がないのなら左遷だって有り得る。
「分かってるわ。売上でしょう?」
 この話し合いも、何度目だろうか。すぐに成果を出せとは言わないが、せめて思考錯誤しながら努力は怠らないでもらいたい。
「なら、頼むよ」
「いろいろと手は尽くしているのよ。でも客層がほかの店舗よりも高めだから、どうしても厳しいのよ」
「郊外型の店舗には、それなりの攻め方ってものがあるんだ。売場面積が広い分、それを生かして魅せることで客は購買意欲をかき立てられる」
 桐生がアイデアを提案しても、笠間のセンスが磨かれなければ持続できない。根本的なことが問題なのだと桐生は感じていた。
「ディスプレイやPOPにも気を配っているわ。でも、服の魅力が分からないの。好みの問題なのかしら。これって致命的よね」
 笠間は言葉を失う。店長となり、これからバリバリと仕事をこなさなければならないというのに、こんな救いようのない原因を抱えていては、仕事を続けていく自信がなくなってしまう。
 そもそも自分は仕事が好きなのだろうかと考えながら、目の前のアイスティーを口に含んだ。
 もしかすると、それを一番よく理解しているのは旦那なのかもしれない。笠間は、この間の喧嘩のことを思い出していた。
 執着しているのは、仕事ではなく、昔の男じゃないかと冷たい瞳を向けてきた旦那に言い返すことができなかった。おそらく、それが自分の本当の気持ちなのだろう。旦那の言葉は、あまりにも的確過ぎたのだ。
「とにかく、もっとよく考えろよ。俺が入り込むわけにいかない部分でお前は悩んでいるんだから」
 桐生にも同じように考えるところがあった。笠間を諭すように、上司として今の精一杯を尽くした。


 ◇◆◇


 桐生と笠間のツーショットを目撃した奈々は、家に帰るとショックのあまりに布団に包まった。今日買ったカットソーもスカートもそのままの状態で。
 きっと、あの日の夜の電話も笠間からなのかもと考え込む。自分よりも優先する相手があの笠間なのだと思うと、胸が痛い。
 優輝と別れて1ヶ月が経過していた。
 そんな短い間に次の恋をしてしまうことはおかしいのかな。
 だけど、いろいろな葛藤が入り混じり、それでもやっぱり桐生への想いは本物だと確信している。まさか優輝と別れたあとに元気づけられ、立ち直ったそばから、今度はその人に苦しめられることになるなんて夢にも思わなかった。

 結局、一晩中、泣きはらした。
 この部屋で何度泣けばいいのだろう。また、ひと月前の自分に逆戻り。
 朝になり、分かってはいたが、ひどい顔。目の下に隈ができ、瞼はパンパン。今日、一日フリーなのが唯一の救い。
 そして明日は奈々の誕生日。いよいよ大学もはじまる。
 今日一日で自分を取り戻そう。そう思い直し、授業の時間割を見ながら明日からはじまる学校の準備を済ませた。
 それから、昨日買った洋服をクローゼットにしまい、洗濯をし、部屋中の掃除をして気を紛らわせた。
 優輝のときも、こんな感じだったな。あれから何も成長していないんだなと自分にがっかりしながら、その日、一日をやり過ごした。
            




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