4.戸惑いの中で(021)

 
 久々の大学。でも授業なんてまったく耳に入らない。
 つまり、桐生マネージャーと笠間店長は不倫関係なんだよね? 授業中、おとといの夜のことを思い出し、改めて考え込む奈々。
 いったい、あのふたりはどこに行ったのだろう。しかし、ひとりでいくら考えても、もちろん答えはでない。
 昼休みになったが、考え過ぎたのか食欲がわかないので、奈々は談話室で時間を潰していた。
 そんな奈々を桐生が見ていたら“ちゃんと飯を食え”と叱るに違いない。でも、今はひとり。それに桐生には自分を叱る権限なんてものはないのだからと勝手に腹を立てていた。子供染みた自分にもあきれるが、あの光景をどう処理していいのか分からなかった。

 そんなとき、バッグの中の携帯が振動していることに気づいた。
 達哉からだった。
『奈々ちゃん? 今、大丈夫?』
 いつもはメールなのに。奈々は、突然の電話に少し警戒をした。
「お昼休みだから、平気」
『そうだよね。俺もそうだし。ところでさあ、今日、空いてる? もしよかったらドライブでもどうかと思って』
「今日は……」
 達哉の気持ちに気づいている奈々は、ドライブと言われ躊躇する。どう言って断ればいいのだろうかと、言葉を探していた。
『駄目かな?』
「でも……」
『先約とかあるの? もし何もないならつき合ってよ。深く考えなくてもいいからさ』
 奈々の気持ちを察して、達哉が明るく言った。
 さらさらと気持ちのいい風が吹いて、真っすぐな道が開けていくようだった。達哉の声が、奈々をその道へ引っ張り上げてくれる。
 きっと断ったら後悔するような気がする。彼を傷つけて、自分も傷つく。奈々はそんな気がした。
「分かった。何時頃?」
『夕方5時頃は? 家まで迎えに行くから』
 達哉の明るい口調は、彼の育ちの良さのあらわれなのだろう。彼は、今日もさわやかな好青年だった。


 その日の夕方、さっそく約束の時間通りに迎えに来てもらうと、奈々は助手席に乗り込んだ。そこで初めて会った時と同じように「シートベルト締めてね」と言う達哉に、奈々は思わず笑ってしまった。
「どうしたの?」
 達哉は不思議そうに尋ねる。
「ううん。なんでもない」
「嘘だ。なんでもないことないよね?」
「ただの思い出し笑いだよ」
「それなら俺も思い出した」
「達哉くんも!?」
「でも別に口癖ってわけじゃないからね。たまたまだよ」
 達哉の何気ないやさしさがくすぐったいなあと思う。波長が合うと言うのだろうか。きっと、流れている時間の速度は同じのような気がする。
 例えば、別な場所にいるのに同じタイミングで大きな月を見上げていたり、同じテレビ番組を見た影響で、ともにカレーライスを食べていたり。
 とにかく一緒にいると穏やかな気持ちになるのだ。

 車は少し小高い山を登りはじめた。
 辺りはだいぶ薄暗くなり、夜景でも見に行くのかなと思っていると大きなレストランが視界に入る。
 駐車場にはすでに数台の車が駐車していた。こんな山の中にあるのに人気のレストランのようだった。
 オレンジ色の外灯に浮かび上がった白い壁。その壁に黒い縁取りの窓枠がとても映えている。童話の一場面に出てくるような異国を感じる佇まいに、わくわくしてくる。
「おしゃれだね。西洋のお屋敷みたい」
「どうぞ。入口はこちらです」
 達哉はエスコートするように右手を差し伸べるので、奈々は、はにかみながらその手を取った。
 ほかの男性がやるとわざとらしいその振る舞いも、彼だからこそ似合う。生まれ持っての王子様なのだと、やっと達哉の的確な印象を言い当てたような気がした。

 中に入ると奥行きのある広いフロア。外からだと二階建てに見えた造りはそうではなく、高く伸びた天井が広がっていて高級さを感じるお店だった。
 ふたりは白髪まじりのウエイターに席に案内してもらった。
 テーブルにはパリッと仕立てられた白いテーブルクロス。ウエイターが軽く椅子を引いてくれて、そこに腰を下ろす。
「ここは結婚式もできるらしいよ」
 テーブルの端に置いてあった三つ折りの小さなパンフレットを達哉が手に取っていた。
「レストランウエディングかあ。だから少し変わった造りなんだね」
 少し離れたところに階段があり、よく見ると中二階のようなスペースがある。きっと、花嫁と花婿があそこから登場するのだろう。照明も西欧製のようで、薄暗い感じが返って雰囲気があっていい。
 とても素敵なレストランだった。

 そわそわとフロアを見回していると、さきほどのウエイターがメニュー表を持ってきた。
 開いて見ると、メニューは豊富そうだけれど、どれも値段は高め。ファミレスのような写真が一切ないシンプルなメニュー表に、ちょっとだけ気おくれしてしまう。
「何、食べたい?」
「んー、パスタにしようかな? グリーンアスパラとアンチョビのパスタなんておいしそう」
「俺は、チキンのレモン風味にしようかな」
「あ、そのパスタもおいしそう」
「じゃあ、半分ずつにしようよ。それから、セットだと前菜とスープもついてくるから、それでいい?」
 こういう気遣いは達哉が慣れているからだ。半分ずつというのは男の人は嫌がるものなのになと奈々は思った。
 優輝がそうだった。自分の好きなものをお腹一杯食べたいから、半分ずつは嫌なのだと。
 奈々にはそれが理解できなかった。おいしいものを半分ずつにした方が得した気分なのにと、いつもそんな言い合いをしていたのを思い出した。
 前に行ったパスタ専門店でも、そんな話になって、結局、優輝が好みそうなパスタをふたつ選んで、無理やりシェアしたのだった。
 変なことを思い出してしまった。だけどもうそれは過去のこと。そんなこともあったなと、奈々はゆっくりとその記憶を胸の奥にしまった。


 前菜とスープを食べ終わると、小さめの取り皿二枚と二種類のパスタが運ばれてきた。
「半分ずつってなんかいいね」
「女の子はそういうの、好きだよね」
「やっぱり達哉くんて、そういうの慣れているんだ?」
「そういう意味じゃないよ。あくまでも一般論」
「本当かなあ?」
「本当だよ。実際、テレビなんかでもそんな理論を聞いたことあるよ」
「確かに私も聞いたことはあるけど」
 すると、ほらねと達哉はパスタを口に入れた。
 得意気だけど嫌みはない。今日で会うのは二度目なのに、昔からの友達のような親近感を奈々は覚えていた。
 さらに、今日という日を達哉と過ごしていることは、強い縁が関係しているのだろうか。
「デザートもいけるよね?」
 達哉がウエイターを呼び、デザートを注文していた。
「何を頼んだの?」
 もちろん甘いものは大好きだからデザートくらいならいけると思う。だけど、メニュー表も見ずに達哉はウエイターにオーダーをしていたので、不思議に思った。
「内緒」
 達哉は、おもしろがるように言う。
 その様子を見て奈々は思った。このお店は達哉が予約を入れておいてくれたのかもしれない。この店に入ったときは気づかなかったが、そうとしか考えられない。それに達哉ならそれくらいの手回しは惜しまないだろう。
 ここは本格イタリアンレストラン。どんなデザートだろうとあれこれ想像していると、次の瞬間、別の世界に迷い込んだみたいに訳が分からなくなった。
 急にメイン照明が落とされ、それと同時に灯(ともしび)がゆらゆらと、こちらに近づきながら揺れていたからだ。
「何? どうなっているの?」
 そして、その幻想的な灯がローソクの淡い炎だと気づいたとき、店内のBGMが切り替わりハッピーバースデイのメロディが流れる。
「もしかして、誕生日ケーキ?」
「そうだよ。ここのお店のケーキは人気があるらしくて、特別にホールケーキをお願いしたんだ」
 苺やキウイ、オレンジにブルーベリーなどのたくさんのフルーツが色とりどりにデコレーションされたケーキは、宝石を散りばめたような美しさ。
 あまりにもびっくりしてケーキを目の前に固まっている奈々に、達哉はそのケーキを目で指し示した。
「ローソクの火を消して!」
「あ……うん」
 戸惑いながら奈々はローソクの火を吹き消した。
 途端に周りから湧き上がる拍手。見ず知らずのお客さんが一斉に奈々に向けて「おめでとう」と声を掛けてくれた。

 今日9月3日は奈々の誕生日。こういうことだったのかと、奈々は笑顔で達哉を見た。
「誕生日おめでとう」
「ありがとう。すごくうれしい」
 ありきたりな言葉しか浮かばないけど、感激のあまり、それ以上言葉が出てこない。
「よかった。弥生ちゃんに奈々ちゃんの誕生日を聞き出した甲斐があったよ」
「そうだったんだ」
 達哉と誕生日の話をしたことがなかったのに、どうして知っていたのか気になっていた。共通の友人は弥生だし、ほかに思い当たらないので容易に想像はつくが。
 そういえば、弥生が達哉との仲をやけに気にしていたなということを思い出し、なるほどと思うのだった。
 去年までは優輝と過ごしていた誕生日。しかし、まさか今年も誰かと過ごすなんて考えてもみなかった奈々は、このサプライズを素直に喜んでいた。
「今日の誘いを断られたらどうしようかって内心ヒヤヒヤだったよ。でも、来てくれてありがとう」
「ありがとうはこっちのセリフだよ。今年の誕生日は誰かと過ごすことは考えていなかったの。こういうふうにお祝いされるのも初めてだから、実はちょっと泣きたいくらい感動してる」
 そう言って目を潤ませている奈々を、達哉は愛おしそうに見つめる。
「そこまで言ってもらえて、逆にこっちが感動。知り会って間もないのに、こういうの引かれるかもって思ってたから」
「王子様みたいだね」
「俺が?」
「よく言われない?」
「あるわけないだろ。そこまでスマートじゃないよ」
 ふたりでわけ合うケーキは、それでも食べきれないほど。だけど、真っ白な生クリームの香りは甘く心地よく周囲を漂う。
 19歳の誕生日は穏やかに過ぎていった。期待していなかった分、そのやさしさはしっかりと心に沁みた。
            




inserted by FC2 system