4.戸惑いの中で(022)

 
「これ、全部食べたら大変なことになりそうだね」
 食べ切れなかった残りのケーキは、テイクアウト用の箱に入れてもらった。帰りの車の中、奈々はそのケーキの箱を大事に抱えている。
「大丈夫だよ。奈々ちゃんだったら、ちょっとぐらい太っても可愛いから」
「もう! 変なこと言わないでよ」
「ほんと、ほんと。俺、お世辞は言わないから」
「うまいなあ。今日は達哉くんに乗せられっぱなしだよ。誘い方も上手なんだもん」
 電話でのやり取りを思い出すと、断る隙がなかった。しかし、それがさりげないからすごいと奈々は思うのだ。
「ごめん、ごめん。あの誘い方、断りづらいよね」
「でも、来てよかったよ」
 茶目っけたっぷりに問いかける達哉に、奈々は素直な気持ちを伝えた。

 帰り道の車中から望める景色は、暗闇と道なりに灯っている街灯のみ。対向車のヘッドライトを時々まぶしく感じながら山を下ると、その後は国道をひたすら走り続ける。
 奈々の住むマンションに着く頃には、夜の10時を回っていた。
「今日はありがとう。それからケーキも」
「こっちこそ。奈々ちゃんの誕生日に一緒に過ごせてうれしかったよ」
「私も。まさか達哉くんと過ごすなんて思ってもみなかった」
「また、誘ってもいいかな?」
「えっと……」
 奈々は言葉に詰まった。さっきは、本当にそう思ったので、来てよかったと言ったけど、思わせぶりな態度を取るのもどうかと思う。かと言って、断って今日のことを台無しにもしたくない。
「ごめん。今のは気にしなくていいよ。そのうち、機会があったら、ね」
 達哉はそう言ってにっこりと微笑む。奈々に負担を掛けないように努めた。
 同時に、そのさりげなさは奈々にも伝わってきた。だから、別れ際にできるだけ笑顔で達哉を見る。
「今日はすごく楽しかった。それは本当だよ」
「それは俺も同じだから、その言葉には偽りがないって信じてる。だから誘ってよかったと思った。奈々ちゃんの答えはどっちでもいいと思うくらいに」
 透き通った瞳が奈々を見据える。奈々は戸惑いながらも視線を逸らせられない。
 心構えのない状態で、それは強烈に響いてきて……
「そんなに固まらないでよ」
 達哉が奈々の頭をごしごしと撫でるが、奈々の胸はぎゅっと締め付けられた。
「……うん」
 達哉のやさしさの中に見え隠れする、艶っぽいオーラが奈々を翻弄させる。それは呼吸を忘れるほどで、頭上の手が離れて、ようやく奈々は、ほっとするように息を吐くことができた。
「それじゃあ、そろそろ帰るよ」
「運転、気をつけてね」
「おやすみ」と颯爽に背を向ける姿に動けないまま。奈々は走り去る車の音を切なくなりながら聞いていた。


 達哉を見送り、お土産のケーキに気をつけながら、奈々はマンションのエントランスへと向かうと、エントランス付近に人の気配を感じた。
 誰? マンションの住人かな?
 急に現れた人影にビクッとして、思わず後ずさりする。だけど、その人影がこちらに興味を示すように動き出し「お帰り」と言った。
 目を凝らさなくとも誰だか分かるその声の持ち主は、冷めた顔でこちらを見ていた。
 奈々は体がびっくりし過ぎて思うように動いてくれない。前に一歩踏み出そうとしているのに脳が命令をしてくれなかった。
 低い声の出迎えにはもう慣れているはずなのに。でもそれは、ここが奈々のマンションだからだ。こんな場所で待ち伏せをするなんて。

「桐生マネージャー、どうしたんですか?」
「ちょっと近くまで来たから」
「今日は、お店の巡回ですか?」
「いや、そういうわけでもないんだが……まあ、とりあえず、これを受け取れ」
 どうにも気まずく、桐生は素っ気なく言う。
 奈々は乱暴に差し出された小さな箱を慌てて受け取った。しかし、よく見るとそれは……
「もしかして、ケーキですか?」
 生クリームの甘い香りが漂ってくる。
「誕生日だろ?」
「そう、ですけど……」
 桐生とケーキがあまりにも不釣り合いで、奈々は茫然と答えた。
「嫌いか?」
「いえ…、大好きです」
「ちょうど店が目に入ったんだ」
「そうなんですか」
 どうしてケーキを届けに来てくれたのだろう。奈々はそれが不思議で仕方がなかった。続く会話もぎこちなく、奈々は堪らなくなって目を伏せるが、そのとき……
「じゃあな」
 軽くひとことだけ残して桐生はあっけなく去っていく。
 無口過ぎるにもほどがある。
 しかし行動に言葉が伴わないのは、実は達哉の車から降りてくる奈々を見ていたからで。つまり、勝手に怒って勝手に嫉妬して、それを隠すためにそういう態度をとるのだ。

「あの!」
 奈々がやっとの思いで声に出したのは、そのひとこと。でも、その声は桐生には届いていない。奈々は達哉と桐生からもらった、ふたつのケーキの箱を見比べ、少しの間、唖然とするしかなかった。
 いつから桐生はこの場所で自分を待っていてくれたのだろう。飲みに行った帰りに送ってもらったことはあっても、今日みたいに突然、家に来るなんてことは初めてだった。
 誕生日ケーキに待ち伏せ。期待せずにはいられない組み合わせだけど、昨日見た笠間と一緒の光景が頭をよぎり、ますます混乱する。
 しかし、そんな中で脳裏に浮かんだ考え。このまま桐生を帰してしまってもいいのか。
 茫然とするだけだった奈々がそのことに気づいたとき、もうそこにいない桐生の残像に覚醒し、このままではよくないとようやく気づく。
 きっとこのタイミングを逃すと後悔する。
 湧き上がってきた激しい感情は、奈々を一歩踏み出させた。
 彼のことが好きなんだ。ようやく正面から向き合えた気持ちは、嫉妬も不安もすべて包み込んで、奈々に勇気を与えるものとなる。
 急いで自分の部屋に戻り、ふたつのケーキの箱を玄関先に置いたあと、桐生を追いかけるために外へ飛び出した。

 けれど……
「いない……」
 駅へとまっすぐ続く大きな道へ出たが、すでに桐生の姿はなかった。
 想像以上に男の人の歩くスピードが速いことを思い知らされる。
「携帯電話の番号さえ知っていれば……」
 面接のときにかかってきた桐生からの着信履歴はとっくに消えていて、アドレス帳に登録しなかったことを今さら悔やんだ。
「こうなったら駅でなんとかつかまえなきゃ」
 残る方法は駅まで走るのみ。歩くと15分の道のり。そのなだらかな上り坂を走り続けた。
 しかし、数分もたたないうちに息が上がってしまい、心臓が苦しくなって立ち止まりそうになる。
 だけど諦めるわけにいかない。頑張れ、あと少し。
 奈々はうまく動かない足をもどかしく思いながら、とにかく走った。


 ようやく駅に着いたときは、汗だくは言うまでもなく、生きているのが不思議なくらいの心音で、もうクラクラだった。
 でも、ここで終わりではない。
 あとは電車がまだ来ていないことを祈るだけだけど……
 そう願い、急いで入場券を購入し、上りのホームを見た。
 電車はまだ来ていないようだった。と、そのときに見えた桐生の姿。ちょうど反対側のホームにいる桐生を確認できた。
 奈々は心臓が飛び出るかと思うぐらいの鼓動を感じながらも、反対側のホームへと続く地下の連絡通路を走り抜けた。
 そして……
 あと、少し。この先の階段を上がるだけ。
 だけど、無情にも頭上に響いてくるのは、電車がホームに入る騒音。
 上りの電車なのか下りの電車なのか分からないまま。奈々を追い越していく数人の男性の後ろ姿は桐生が乗るはずの上りの電車であることを想像させる。
 息が上がる、でも急がないと。
 奈々は階段をかけ上がった。けれど、ようやくホームを視界に入れたその刹那、発射ベルが鳴り響き轟音が貫く。
 間に合わなかったのだ。
 それでもようやく最後の一段を上り終える。
「行っちゃったよ」
 それから、さきほどの電車から降りてきた人混みの中で、小さくなっていく電車の最後尾を、茫然と見つめていた。

 やがて人混みは吸い寄せられるように改札に散り、駅が閑散としはじめると、どうしてあのとき、もたもたしていたのだろうと、こみ上げてくる悔しさに唇を噛みしめた。
 せっかくのチャンスだったのかもしれないのに。もうあんな機会はこないような気がしてならない。帰ろうという気力すら抜けきって、汗だけが虚しく流れていった。
 でも、そこに訪れたのは奇跡?
 奈々は目を見開いた。
「どうして?」
 そして、ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる見覚えのある姿に、そう呟いた。
 人違いなのではと目を瞬かせる。しかし、縮まる距離を実感した奈々の心臓は大きく鼓動した。さきほどとは違う胸の高鳴りは、さらに激しくなる。捜していた人物を、奈々はようやく捕らえることができたのだ。
「気づいていたんですか?」
「俺、視力いいから。向こうのホームにいるのが見えた」
「あの……」
「ん?」
「ケーキ、ありがとうございます」
 さっき言えなかったお礼をやっと言うことができた。
「でも、余計だったみたいだな」
 しかし、桐生の達哉への嫉妬が、そう言わせてしまう。
            




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