4.戸惑いの中で(023)

 
 狭いワンルームの部屋の小さなテーブルを挟んで今、ふたりは向かい合っている状態。テーブルには桐生持参のケーキ。そして、グラスに注がれたアイスコーヒー。
 あのあと、何を血迷ったのか。きっと全速力で走ったからだと思う。アドレナリンか何かのせいだ。
『一緒にケーキ、食べて下さい』
 奈々は勢いで桐生を部屋に誘ってしまったのだ。
 けれど、その先のことなんてまったく考えておらずカチカチに固まり、言葉すら発することができない。
「煙草吸ってもいいか?」
「ど、どうぞ」
 そう言って再び固まる。それを見て桐生はふっと含み笑いをした。
 笑われた。でも、奈々はますます何を話したらいいのか、分からなくなる。
「さっきの奴、誰?」
 すると逆に桐生が話しかけてきた。言い終わると、煙草を口にくわえ、ライターで火を付ける。
『さっきの奴』とは、もちろん達哉のこと。達哉の車から降りてきた奈々。たったそれだけのことなのに、桐生の目には衝撃的シーンに映ってしまった。
 奈々もそのことを感じ取り、ばつが悪そうに答えた。
「さっきの人は、友達なんです」
「ふーん。友達ねえ……」
 その語尾は不満ともとれるような言い方で、珍しく桐生が感情をあらわにした。
「本当なんです。彼とはすごくいい友達関係で……」
「それで?」
「え?」
「つまり、ふたりでどっかに行っていたんだろう?」
「食事をしに……」
「デートか」
「違います!」
 そこは思いっきり否定した。デートみたいなものなのかもしれないが、奈々にとってはそんなつもりはない。
「電話したんだけどな」
「電話ですか!?」
 思ってもみなかった桐生のセリフに急いで携帯を確認すると、確かに着信ランプが点滅している。バイブにしたままバッグに入れていたので気づかなかった。
「気づいてすらいなかったってことか」
「すみません!」
「いや、いいんだ。別に責めているわけじゃないから」
 電話があったのは、ちょうど達哉と食事をしていた時間帯。
 え? ちょっと待って!
 それはつまり、着信に気づいていたら駅まで走らずに履歴から電話すればよかったということ。達哉と一緒のところを見られてしまったといい、着信に気づかなかったことといい、タイミングの悪さはどうしてこうも続くのだろう。
「俺がマンションの外で待っている間、お前は、ほかの男とデートだったなんてな」
「だから、デートではないんです」
「あれはどう見てもデートだろう? 男とふたりきりなんだから」
「ふたりきりだとしても、違うんです」
 けれど、桐生の機嫌は良くならない。奈々はおろおろするばかり。
 そんなとき、奈々の頭の中に、ふたりのツーショットが浮かんだ。
 それなら、おとといの夜のこと。あれもそうではないだろうか。確かに笠間とふたりきりで歩いていた。桐生がそう言うのなら、そのことだって、デートと言える。

「桐生マネージャーの方こそ。おとといの夜はデートじゃなかったんですか?」
「おととい?」
「笠間店長と一緒に歩いていたのを見かけました」
 本当にショックだった。ふたりの間には何かがあると思えてならない。かつて恋人同士だったというのも納得がいくし、それならば安易に昔の関係にだって戻ることもできると思った。例えそれが不倫だろうとも。
「おとといは仕事として会っていただけだよ」
 仕事と言われても、あの周辺に系列のお店はない。だいたい、外でわざわざ会う必要があるとは思えない。
「別に隠さなくてもいいですよ」
「隠してねえよ。仕事なのは間違いないよ」
「それにしてはいい感じに見えましたけど?」
「ああ、そうかよ」
 ここで違うと否定しても伝わらないなと桐生は口をつぐんだ。
 女は一度思い込んだら、そうだと決めつける。そういうものだというエゴイズムからつい、いつもの癖がでてしまう。
 一方、奈々にとっては、大切に温めてきた想いを、鋭い針で突かれたみたいに感じていた。胸の中に溜まっている鬱憤も晴らすことができなくて、気がおさまらない。
 どうしてそんな言い方をするのだろう。あきれられているように思ってしまう。もちろん、彼女気どりみたいで、変だなと自分でも思う。けれど、否定くらいしてほしかった。伝わらないもどかしさを思うのだった。

 お互いが疑心暗鬼状態。ふたりの想いが交錯していた。しかし、慌て出すのは大きな瞳いっぱいに溜めた奈々の涙を見た桐生となる。
「待てよ。なんで泣くんだよ?」
「だったら……気を持たせるようなことしないで下さい。勘違いするじゃないですか!」
 気持ちが暴走して、泣きながら言う。だけど、そう言ったあと奈々はハッとした。
 今のセリフは好きですと告白しているのと一緒だ。部屋に誘っている時点で気があるのはバレバレであるが、こんな形で告白をするなんて、格好悪すぎる。
 思わず、ケーキを買って待っていてくれたことに浮かれてしまったが、そもそも、そのことに特別な意味があったわけではないのかもしれない。その証拠に今の告白に、向こうからの返事はないのだから。
 桐生は、無言のまま、煙草を携帯灰皿にもみ消した。
 この静寂が、ほんの数秒を何十秒にも変えてしまう。そして部屋の静寂を破るように言葉を発したのも桐生だった。
「はぁー、参ったなぁ」
 溜息とともに吐き出された言葉に、奈々はとうとう困り果てる。
「ごめんなさい」
「なんで謝るんだよ?」
「だって困らせているみたいなので」
 流れ落ちる涙は今も止まることなく、奈々は深い自己嫌悪に陥っていた。
「いや、俺の溜息はそういう意味じゃないよ」
「……え?」
「そういう意味じゃないんだ」
 小さなテーブルの向こうにある瞳が急にやさしくなった。そればかりでなく、男らしい大きな手が頬に向かって伸びてきた。その手がそっと奈々に触れてきて……
 …──ドクンッ
 流れ落ちた涙のためなのに、心までさらうように拭われていく。ありったけの気持ちをそそぐように、それが温もりを通して伝わってきた。取り乱した奈々の未熟さを大人の包容力が上塗りし、その心は落ち着いていった。
「ずるいです。なんでそんなに余裕なんですか?」
「余裕なんてないよ。いつだって振り回されていたのは俺の方だよ」
 指先が温かくて、無意識にまた涙がこぼれ落ちた。
「私に? まさか……」
「ほかに誰がいるんだよ」
 奈々は、大人の魅力たっぷりな桐生の色気あるセリフに息を飲んだ。
「なんだか夢みたいです」

 だけど、重なり合う視線の中で、私はますます確実にあなたにのめりこんでいる。あなたの気持ちを知りたい。その先の言葉をもっと聞きたい。
 でも、それと同時に頭の中に過る不安は、戸惑いの中から抜け出させてくれない。
 笠間と一緒に歩いていたシーンがずっと頭から離れなかった。たぶん焦っている。嫉妬している。負けたくないと思っている。
 こんな気持ちになるなんて。いつの間に、これほどまでに好きになっていたのだろう。

「気を持たせたくなるだろ」
 奈々は一瞬、聞き間違いかなと首を傾げる。
 そんな、きょとんとした奈々の表情を見て、桐生はもう一度、口調を強めて言った。
「誘った理由だよ。気がある女なんだから仕方ないだろう」
 今、なんて? 信じられないような言葉を聞いたような気がする。
「男と別れたと聞いたら、普通、チャンスだと思うだろ。それなのに、お前は新しい男と帰ってくるから。そいつに先を越されたのかと思ったよ」
 観念した桐生は、自分の気持ちを正直に打ち明ける。最初こそ苛立っていたが、だんだんと落ち着きを取り戻し、冷静に奈々に告白をした。
「私の好きな人は……き、桐生マネージャーですから!」
「先に言うなよ」
「だって……」
 散々、疑わしい目で見ていたくせに。澄ましている桐生を見て、気が抜けてしまう。
「だけど、うれしかったよ。お前が追いかけてきてくれて」
 包み込むように穏やかに言う。
 その声に奈々は、ぽっと顔を赤らめた。
 よく考えたらこのシチュエーションはすごいことだ。ふたりきりの部屋で自分から告白をしている。桐生と同じ気持ちだったからよかったものの、そうでなかったら、この先、アルバイトを続けていくことも難しかったのではないだろうか。
 桐生にじっと見つめられて、その真剣な眼差しに絶えられなくなり奈々は俯いた。

 すると俯いた先に、桐生が買ってきてくれたケーキが改めて目に入る。よく見ると、ケーキの箱に書いてある店名に見覚えがあった。
「ここのお店、とっても有名なんですよね」
 思いもかけずに話題が見つかって、奈々は顔を上げて言う。
「そうなのかよ?」
「知らなかったんですか? テレビの情報番組で紹介されるくらい人気なんですよ」
「どうりで。すっげー、混んでたわけだ」
「でもこのお店、銀座にあるお店ですよね。わざわざ買いに行ったんですか?」
「たまたま、近くを通ったんだ」
「銀座なのに?」
「繊維業界の社長の講演会があったんだよ」
 にこにこと上機嫌の奈々を尻目に、少しばつが悪いなと桐生が思うのは、そんなことはまったくのデタラメだったからだ。
 まさか、崇宏にお勧めのスイーツ店を教えてもらい、わざわざ買いに行ったとはさすがに言えない。
「私の誕生日、知っていたんですね」
「ん……ちょっと、履歴書をな……」
 履歴書は重要書類として本社の人事部に提出済みだが、奈々の誕生日だけは、しっかりと記憶していた。個人情報だと突っ込まれると言い訳ができない立場だが、幸い、奈々はそんなことを気にしていない。むしろ、大きな黒い瞳をキラキラと輝かせ、うれしそうだった。
「それにしても桐生マネージャーとケーキの組み合わせは意外でした」
 ケーキを買っている桐生を想像すると、おかしくて噴き出してしまいそうになる。
 そのことに気づいた桐生。「何がおかしいんだよ?」と、奈々を追いつめるように言った。
 だけど奈々は、桐生のその目が少し笑っていたのを見て、幸せがじわじわとあふれてきた。前に工藤が言っていたあのこと。奈々が桐生のタイプだったからアルバイトに採用されたという話。あながち嘘じゃなかったのかもと自惚れてしまうのだった。

「氷、溶けちゃいましたね。新しいのを持ってきます」
 照れくさくなって奈々は席を立つ。部屋でふたりきりとなって、随分と時間が経過していた。
 でも、桐生の目の前にある水滴だらけのグラスを持ち上げようとした時、ふいにその腕を掴まれ隣に座らされてしまった。
「どうかしました?」
 変なことしたかな?
 奈々は不安なって尋ねると、思ったより距離が近くてドキドキさせられた。膝と膝がぶつかるほどの近さは心臓に悪い。まだそんな免疫は備わっていないから、おどおどするばかり。
「正直、嫉妬したし、さっきの男にもムカついた」
「そんな……」
 ぼそっと囁かれた言葉がとどめを刺してしまったみたいに、体の力が抜け落ちた。触れられた腕も熱くジンジンとしてくる。
「そんな必要なんてぜんぜんないのに。嫉妬なんて、とんでもないです。彼とは本当になんでもないんです」
「そっか」
 思ったよりも短くあっけない返事に桐生を見上げると、交わる視線の中に桐生の戸惑いが見えたような気がした。
 おそらく納得していないのだろう。何度も否定しているのに、同じことの繰り返しだった。
「確かに誕生日をお祝いしてもらいましたけど、あくまでも友達というか、実際、会うのだって二回目なんです」
「それは男にとってはどういう意味か。考えるまでもない」
「それはそうかもしれないですけど」
 奈々は達哉に告白めいた言葉をもらった。だから、それを言われてしまうと強く出られない。
「結局、嫉妬してんな。お前に言ったところで、どうにもならないのに」
 だけど、そんな弱さも息がうまくできなくなってしまうくらいに奈々を翻弄させてしまう。
「とにかく、今から俺の女ってことでいいんだよな。だから、もう遠慮はしない。ほかの男には渡さないよ」
 桐生の手が奈々の方へ伸びていく。軽々と奈々を膝の上に抱き上げて、鼻の頭が掠めるほどに顔を近づけた。
「あ、あの……」
 こんなの、恥ずかし過ぎる。有り得ない体勢。桐生に見上げられる形となって、心臓が早鐘を打つ。
「覚悟しとけよ」
 精悍な顔付きが奈々の胸の奥を震わせる。頷きながら、真剣さに胸を打たれ、どれほどの想いかを感じ取った。

 ふたりはしばらく見つめ合い、微笑み合って、最後に抱き締め合った。奈々の背中にまわされた手の平が、ゆっくりと動いて締めつけがきつくなる。
 香るのは、煙草の匂い。そして柔軟剤のようなやさしい香り。それはくすぐったいくらいに甘く、奈々もぎこちなく、桐生の大きな背中に添える手に力を込めた。
 久しぶりに味わう人の温もりと感触。互いにかわす言葉がないまま瞳を閉じているだけなのに、溢れてくる感情。確実に何かが伝わってくる。
 まだ実ったばかりの深い愛情が互いの心を行き来し、呼吸とともにそれがふたりを満たしていった。
「好きだよ。さっき、先を越されて言われたけど。好きになったのは俺の方が先だから」
「……嘘みたい。幸せ過ぎて怖いくらい」
 桐生の首元に顔を埋めている奈々の声はくぐもって、涙をぐっと堪えているようだった。
「大丈夫だよ。俺は本気だから。不安になる必要はない」
 耳元で囁かれる。
 熱い吐息が再び奈々をドキリとさせて、トキメキの度合いが増していく。大きくなっていく幸せの光が確かなものとしてふたりを照らしはじめ、きっとそれは際限なく続くはず──
 そう思えた。
            




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