4.戸惑いの中で(024)

 
 終電の時間までの少しの間、ふたりでケーキを食べて一緒に過ごした。
 だけど、心に引っ掛かるわだかまり。奈々はずっと心の奥に残ったままのことを尋ねた。
「笠間店長とは本当のところ、どういう関係なんですか?」
 でも、聞いたのはいいが、実際、ふたりが上司と部下の関係を超えたものであったのなら、嫉妬依然の問題。不倫という可能性は低いにせよ、元彼女という過去を受け止めきれるかどうか、自信がない。
「ただの上司の部下だよ。ほかの店長と一緒だ。それ以外あるわけないだろう」
 上司と部下。さっきも聞いた言い訳だが、あの日の夜、薄闇を歩いていたふたりから感じたものはそれ以上。
 だから、奈々は決意する。ここではっきりさせないと、ふたりを見るたびに思い出してしまう。
 だって、夜遅くにだって駆け付ける仲なんでしょう?
「元カノなんですよね?」
「なんで、そんなこと知ってるんだよ?」
 桐生はびっくりして聞き返した。
 そんなことは、もう、何年も前の話。人の入れ替わりの激しいアパレル業界で、知っている人間の方が少ない。だからこそ、噂の根源はだいたい想像はつくが、どうやって奈々の耳に入ったのか、そのことにも驚いていた。
「つまり、噂は本当だったんですね」
 奈々は桐生を真剣に見つめた。誤魔化されないように。
 それを見て、桐生としてはとっくに終わっている過去でも、奈々にとってはそうでないということが伝わってきた。知らないうちにたくさんの誤解を与えてしまっていたのかもしれないと、今になってようやく気づく。
「半年ほどだよ」
 何をどう順序だって言えばいいのか考えた挙句、笠間は奈々の上司であることを考慮して詳しくは話さなかった。しかし、それが裏目に出ていることに桐生は気づいていない。
 元カノ──それは奈々にとって、重い言葉だったのだ。

「今は、どう思ってるんですか? お店の外で相談を聞くくらいなんですから、上司というより、もっと特別な目で見てるんじゃ……」
 奈々は、自分が笠間にもともと抱いている苦手意識や信頼感の薄さを、過去に桐生が恋人として包み込めたことが理解できなかった。もっと本心から憧れる女性だったら、まだマシだった。きっとこんなに苛々なんてしない。
「特別な目? あいつは結婚してるんだぞ」
「人の感情は簡単に割り切れるものじゃないと思います。だから──」
「ちょっと、待てよ。大袈裟に考え過ぎだ」
 単なる昔の女に過ぎないのに、どうしてそうなるのか。桐生は焦って、会話を止めた。
「話、聞いてなかったのか?」
「聞いてました。半年ほどのおつき合いということだけですけど」
 怒ったように眉根を寄せた奈々。桐生は、そこでようやく自分の言葉の足りなさに気づくのだった。
「つき合って半年ほどたった頃、あいつの転勤が決まったんだよ。別れたのは、それがきっかけ。それっきりだ。未練もないし、今さらどうこう思ってもいないよ」
 知りたかった桐生の過去。だけど、奈々にとっては生々しく思えて、納得はしてもどこかすっきりとはいかない。自分のことを棚に上げていることは分かっているが、相手が笠間なだけに、桐生の言葉がすんなりと入ってこなかった。
「不服そうな顔をしているな」
「別に桐生マネージャーの言っていることを信じていないわけじゃないんです」
「分かっているよ。あいつに対してだろう? スタッフとぎくしゃくしているのは知っているよ」
 あまりにも的確なものの見方に、奈々は目を見開いた。彼は、店の中で長い時間を過ごしているわけではないのに、店の内情をしっかりと見破っている。
「笠間店長と私は、きっと元から反りが合わないんです」
 そう思う自分も嫌なのだが、同じ気持ちを笠間からも感じていたので、余計にそう思っていた。
 きっと、彼女は……考えたくないが、たぶん当たっている。
「反りが合わないと感じているのはお前だけじゃないよ。昔もそういうところがあったんだ。だから、当時のマネージャーがあいつの転勤先を関西に選んだんだろう。新天地でいい意味で揉まれればと思ったんだと思う」
「でも!」
「いいから、もう、気にするな。俺はあいつを部下としてしか見ていない。じゃなかったら、わざわざ、ケーキの箱をぶら下げて、電車に乗ってここまで来るかよ」
 桐生が溜息まじりにぼやいた。奈々は桐生のらしくないセリフを聞いて、心に落ち着きを取り戻していった。
「店のことはいい方向になるように、ちゃんと考えるよ。お前が難しく思う必要なんてないから」
 桐生の諭すような言葉が刺々しい心をなだめてくれる。やんわりと微笑みを向けて、それが仕事のときとは真逆の態度なので、奈々はたちまち魅了されてしまう。だんだんと気持ちが穏やかになっていくのが自分でも分かるほどで、奈々の顔から緊張が解けていった。
「あまり心配するな」
「はい」
 桐生と笠間とのことは、今は仕事上のつき合いなのだから口を挟むことではない。なんの相談だったのか。上司と部下としてのやり取りは、きっと聞いても教えてくれないだろう。
 それに、望んだ答えをもらえたのだから、これ以上、何も言えない。でも大丈夫。彼は、決して裏切るような人じゃないのだから。


 終電の時間まで残り少ない。帰り際、玄関先まで桐生を見送ろうとしたとき、奈々はあることを思い出した。
「あの」と呼び止めて「ん?」と言いながら見せられた緩んだ表情に自分が彼女という存在になったのだと改めて感じる。見せる相手は自分だけであって欲しいと妙な嫉妬心も一緒だったけど。
「携帯のアドレスを教えて下さい。電話番号は今日かけてきてもらった着信履歴で登録するので」
「あっ、そういえばそうだな」
 こうして、お互いのアドレスを交換した。
 電話番号も登録完了。これでいつでも連絡できる。走って追いかける必要もない。
「しばらくは忙しくて時間が取れそうにもないんだ。でも、いつでも連絡してこいよ」
「……はい」
 忙しいのかと、奈々は心の中で溜息をつく。せっかく近づけたと思ったのに、軽く境界線を張られたみたいだった。
「そんなふうに顔に出るとこ、分かりやすくていいな」
「私、変な顔してました?」
 今、どんな顔をしていたのだろう。そんなに物欲しそうな飢えた顔をしていたのだろうか。奈々は不安になって、玄関に立っている桐生を見上げた。
 物憂げな空気がふたりの間に流れて、沈黙となる。
 そのために桐生は、慌てて訂正をする。
「悪い意味じゃないから安心しろって」
「でも、顔が笑ってました」
「うれしいと思ったんだよ。それくらい、察しろよ」
 仕事上も含めて、今までつき合ってきた人間と奈々は一味違う。純粋過ぎて、扱いに慣れていない。
「そんなこと言われたら、桐生マネージャーの前で顔を上げられなくなります」
 その困ったような表情も、あまりにも可愛らしくて、とうとう降参だと乱暴に奈々の頭をがしがしと撫でまわした。奈々には敵いそうもないと悟り、悔しくて堪らない。
「うわ、ちょっと、ぐしゃぐしゃになっちゃいますって」
「お前はそのままでいいんだよ。できれば俺の前では、いつでも素直でいて欲しい」

 だけど奈々は、乱れた髪を直しながら、その言葉の意味を考える。
 ──そのままでいい
 桐生が過去につき合ってきた女性より、たぶん自分は子供っぽいに違いない。だから、この仕草もそのせいなのだと思っていた。大人の女性にはそんなことはしないはずだ。
「私、恋愛経験もひとりしかいないですし、正直、これからどんなふうにつき合っていけばいいのかも分からないんです。今さらですけど、こんな私でいいんですか?」
「そんなに不安そうな顔をするなよ」
 桐生は奈々の輪郭に触れる。くすぐったさに首をすくめる奈々。
「俺の気持ち、そんなに信用できないか?」
「そんなこと……ないです」
 流れていく指先の感触に息を吐き、脱力し、改めて桐生に見惚れてしまう。
「なら、そういう言い方はナシだ。ただし、不安なことがあるならちゃんと言えよ。もしかすると、気づけないことが多いかもしれないから」
 男の人の持つ迫力に圧倒されて、ドキドキが止められない。もう一度、こんなにも好きだと思える人に出会えたことに喜びを感じ、この人を好きになってよかったと心の底から思えた。
「今日はゆっくり寝ろよ。最近、疲れているみたいだから」
「もう、大丈夫です」
 その原因が桐生だとは、とても面と向かって言えない。けれど、気づかないうちに自分を見ていてくれているその包容力を思い、余計に眠れなくなりそうだった。
「気をつけて」
 離れがたい。まだ一緒にいたいけど、それは私だけなのかな。
 奈々がすがるように見上げると、桐生のクールな顔がやわらかくなる。それから、観念したかのように奈々の頭を思いっ切り引き寄せた。
 ふわっと胸に飛び込む形になる。
「お前を見てると、自分が大人なのを忘れそうになるよ」
 桐生は奈々の後頭部を押さえたまま、ゆっくりと上に向かせる。
「動くなよ」
 ふたりの顔がより近づくと、奈々は息をすることを忘れて桐生の言葉に小さく頷いた。
 別れ際の切なさが瞬く間に一掃されて、奈々の体温が微熱まで引き上げられた。疼く体を持て余しながら、その先を待っていると、仰け反るほどに強引に重ねられた唇。桐生の片方の手の平がしっかりと奈々の背中を支えていた。
 息がままならないほどの大人のキスはとても情熱的で、唇の感触だけで奈々の身も心もとろけていく。離れては重なる。それは絶妙な角度とタイミング。
 奈々は、ふいに訪れる瞬間を狙って呼吸し、再び唇を合わせた。身をまかせながら瞳を固く閉じ、意識をそれだけに集中する。やがて、桐生の舌先が触れてきて絡まりはじめる。
「……んっ」

 ひたすら溺れさせてくれるキスはしばらく続いた。
 熱くなっていく奈々の身体と同様に、桐生も欲望を抑えるのに必死だった。
 散々、聞かされた元彼の話。会ったこともない前の男の残像が、桐生の動きを激しくさせる。これ以上はまずいと思いながらも、今まで我慢していた分、抑制が効かなかった。何度も足元が崩れそうになる奈々を抱きしめながら、濃厚にその唇を堪能した。


「大丈夫か?」
 唇を離すと、息を切らす奈々が目に入る。よほど苦しかったのだろう。瞳が潤んでいた。
「なんとか。でも、いきなりこんな感じとは思ってなくて、ちょっとびっくりしたっていうか……」
 言いながら、照れくさくなる。
「高校生じゃあるまいし。中途半端ならしない方がマシだ」
「極端ですよ」
「こんなの、そのうち慣れるよ。そうじゃないとこっちが困る。取りあえず、続きは今度な」
 さらにすごいセリフを言われてしまい、返事ができない。
 続き……つまりそういうことなのは奈々もそれなりの経験はしてきたので分かる。
 けれど、桐生とそうなることが想像つかない。
「今、すごいことを想像しただろう?」
「し、してませんっ!」
 見透かされて、焦って噛みながら答えると、やさしく見守るような顔があった。目をしばたかせている奈々を、大人の余裕で静かに見下ろしている。
「そういうところ、新鮮だな」
 こんなにも胸は熱いのに。その先にいる人は冷静沈着。本当に私でいいのかなと奈々は再び不安になってしまうが……
「桐生マネージャーから見たら、どうせ子供です」
 思いっきり拗ねた振りをして見せる。どうせ、どうあがいたって敵わないのだから。今のキスで十分に分かった。経験値の差はかなりのもの。
「子供なんて思ってないよ」
「今のセリフはそうとしか取れません」
 そんな奈々を桐生は小さく笑う。
「ほら。そうやって子供扱いするじゃないですか」
 それなのに……
「子供にあんなキスをするわけないだろ」
「機嫌直せよ」と今度は頬に唇が触れて、なだめる声が耳元のすぐ近くで響いた。
 唇と唇のキスよりも緊張してしまうのは、聴覚を揺さぶるリップ音と、彼の低音ボイス。そして、耳たぶを掠めた唇のやわらかい感触。
「ひゃぁっ」
 飛びあがるほど驚いて、胸にもキュンと甘い痛みが走った。
「……ひどいです」
 これから、ずっとこんなことが続くのなら、身が持ちそうにない。
「反応がいちいち面白い奴」
「だって、急に耳に……耳に息を吹きかけられて、食べられちゃったら、誰だってそうなります」
 そしてふたりの間に笑顔が零れる。「じゃあ、そろそろ」と桐生がドアに手をかけるまで、しばらく楽しげに言葉を交わした。
「遅くなっちゃいましたね」
 今度こそお別れ。楽しい時間はあっという間。
「誕生日、おめでとう」
 桐生が愛おしそうに言って出て行く。
 奈々は「ありがとうございます」と、その後ろ姿を高揚が残るまま見送った。


「はぁ……」
 奈々はひとりになって、自分の唇をそっと指でなぞりながら、さっきの出来事を思い出していた。
 自分の唇から、桐生の唇の感触を呼び起こす。それだけで、ドキドキのおさまりかけていた心臓が再び鼓動を速めた。
 余韻の中、熱い頬を手の平で押さえながらその場で立ちつくす。それでもなんとか、部屋の奥から流れてくる冷気が、遠くにある平常心をゆっくりと手繰り寄せてくれた。
 19歳の誕生日。大切な人からの“おめでとう”を直接もらえた。新たな一歩を踏み出す大切な日。この先、本当の大人に成長するために、それは大きな意味を持つ。
 ここからはじまるんだ。
 ふたりで育んでいくその愛は、今はまだもろくて曖昧だけど、長い目で見つめてゆっくりと歩んでいけば、それは確かな拠り所となる。

 ねえ、もっとたくさん教えてよ。あなたの愛し方を。
 キスで感じるあなたのその過去は、きっと私の想像以上だと覚悟はしているけど、絶対に負けたくないの。
 そう思ってはだめかな? 見苦しいかな?
 あなたの過去に存在していたであろういろいろな女性。
 その人たちに負けないように追いつくから。
 もっともっと自分を磨いて、自信を持って隣にいられる女性になりたいの。
            




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