5.動き出す恋のベクトル(025)

 
 あなたに気づかれないように、こっそりと唱えるの

 ──会いたい、そばにいてほしい

 この雫を拭うのは、あなたじゃないと嫌だから

 うれし涙と悲しい涙、そのどちらも


 ◇◆◇


「今日もゼロか」
 奈々と桐生の思いが通じ合って早一週間。あれからラブラブな日々が続くかと思いきや、桐生から奈々への電話やメールは一切ない。しびれを切らし、奈々からメールはしてみるが、返信率は100%ではなかった。
 大人の男の人の考えはよく分からない、というより桐生マネージャーが分からないと、反応のない携帯を眺めながら奈々は溜息をついた。
 会いたいと思っているのは私だけなの?
 さすがに一週間も放って置かれると不安は大きくなる。しかし、思い切って電話をしても、思いは虚しく、留守電につながるだけだった。
 電話に出られないほど忙しいのかも。
 奈々は、留守電にメッセージを残すこともできず、電話を切ってしまった。
 翌朝、携帯を握り締めたまま目を覚ました奈々が見たものは、空っぽの履歴。
「私たち、つき合っているんだよね?」
 届かない声が宙を舞う。着信履歴で折り返しかかってくることを期待していた奈々は、泣きそうになるのをぐっと堪えた。

 川沿いの道を歩いて大学へ向かい、架かる橋から遠くを見渡すと、うっすらと山の稜線が見えた。
 夏の淀んだ空気のせいで、それは曖昧なものだったけれど、冬になると澄んだ空気にそれがくっきりと浮かびあがる。大学受験で初めてここを訪れたとき、この橋からの景色が印象的だった。当時、雪化粧をした山がとても綺麗で、ひと目でここが気に入った。
 いいところだよなあ。
 橋の上から見える景色を見ながら改めて思った。
「元気出さなきゃ」
 奈々は自分に言い聞かせ、大学の門をくぐった。


「奈々、今週の土曜日、暇? つき合ってほしいところがあるの」
 大学に着くと、待ってましたとばかりに弥生に呼び止められた。にっこりと笑い、懇願するように両手を合わせてくる。
 土曜日と言われて、奈々は桐生のことを考えたが
「バイトが入ってるけど、休めなくもないかな」
 気晴らしになればいいかなと思い、そう言っていた。
「で、どこ、行くの?」
「日帰りのバーベキュー。直人の大学の友達も一緒なんだけど、知らない人ばかりだから心細いの」
「へえ。なんか楽しそうだね」
「ほんと? つき合ってくれるの?」
「別にいいよ」
「よかったあ。達哉くんも来るらしいから」
「……え」
 その言葉が引っ掛かった。けれど、よく考えれば分かること。直人と達哉は仲がいいのだから。それに弥生が喜んでくれているのだから、今さら断るのもどうかと思う。
「どうかした?」
 弥生が尋ねる。
「ううん。なんでもないよ」
 奈々は、愛想良く答えた。
 日帰りでちょっと遊ぶだけ。そういうのも、たまにはいいよねと、思い直すことにした。


 次の日、さっそく土曜日のシフトを交換してもらうため、パートの塚本にお願いした。家庭のある塚本のシフトは、たいてい土日は休みに組まれていたので頼めるのは彼女しかいなかった。
「助かります。でも大丈夫ですか?」
「いいのよ。子供だってもう高校生だもの。それに、もともと月に一、二度は週末も出るようにしているの。私だけ我儘を言うわけにいかないでしょう」
 塚本はそう言って快くシフトを交換した。
 それに、いつも一生懸命に働き、自分を慕ってくれる奈々が珍しくお願いをしてくるので、塚本は娘を思うような気持ちで引き受けたのだ。
「ありがとうございます。じゃあ、笠間店長に報告してきます」
 笠間はレジで伝票をチェックしていた。ちょうどお客様もいない。今だ! そう思い、近づいたそのとき、ある人物がこちらに向かって来るのが目に入った。
 桐生マネージャー!
 もちろん、今日、来るなんて聞いていない。
 晴れて(みんなには秘密だけど)彼氏となったのだが、いつものようにな威圧感たっぷりな彼の存在感に少し緊張した。

「おはようございます。時期的にそろそろかなと思っていました」
 レジにいた笠間は、近づいて来た桐生に視線を合わせた。
「最近はどの店に行っても言われるよ。行動パターンを完全に読まれているな」
「それだけ敏感になっているんですよ。桐生マネージャーが巡回に来る日はいつだろうって」
「とんだ嫌われ者だな」
 桐生はひとりごとのように呟いた。
 視界に奈々の姿が入るが、努めて見ないようにする。ここのところの忙しさのあまり、会う時間どころかメールの返信も怠っていることに、桐生はうしろめたさを感じていないわけではない。会うのは時間的なことが問題だとして、メールの返信がおろそかになるのは、返事を考えていると、どうにも照れくさくなるのだ。
 そんなとき、自分のキャラがいかに損をしているのか思い知らされる。
「どうだ? 今日の売り上げは?」
 桐生は笠間に、いつものように状況報告をさせた。
「数字は、なかなか厳しいですね。お客様の人数も平日はかなり落ちます」
 笠間が渋い顔をした。

 奈々は、離れたところから、その様子を見ていた。ふたりの親しげな雰囲気は、元カレカノという事実を浮き彫りにしてしまう。
 仕事の話をしているだけなのに。桐生が言ってくれた言葉を信じようと思っても、今の奈々にはその言葉はなんの説得力もない。昨日も今日も電話をくれなかったことを引きずったままだったので、目の前のふたりを見ていたら余計に悲しくなったのだ。
 おかげでシフトの交換を笠間に言いそびれてしまった。しかし、問題はそれだけでなく、桐生の前で、その話をすることに抵抗もあった。土曜日のバーベキューには達哉も来る。それを知ったら桐生はどう思うだろう。もし嫌われてしまったら、という心配も大きかった。
 自信がない。そこに嫉妬と苛立ちが入り混じった複雑な感情が加わり、奈々はそれを必死にかき消そうと自分を抑え込んだ。

 しばらくして、ようやくふたりの会話が終わり、桐生は売場をチェックするために笠間から離れた。その隙にと、奈々はシフト交換の件で、笠間のもとへ駆け寄った。
「珍しいわね。デートの約束でもあるの?」
「いいえ。友達と日帰りでバーベキューに行くんです」
「そう。塚本さんがいいと言っているなら構わないわ」
 笠間はそう言うと、じっとどこかを寂しそうに見つめ、再び伝票に目を移すと、何事もなかったかのように仕事を再開した。
「よろしくお願いします」
 このときの奈々は、笠間が何を見て何を思っていたかなんて気づきもしなかった。辛そうな笠間の視線の先にあった光景が、奈々を見つめる桐生の姿だったことを。

 一方、桐生は、笠間のそばを離れた途端に聞こえてきた奈々と笠間の会話が耳に入ってきて動揺を覚えていた。
 もちろん、まだ大学生の奈々が友人たちと遊びに行くことは当たり前のこと。自分だって学生時代は散々遊び呆けてきたのだ。ただ、自分を避けるようにこそこそとしているのが気に食わなかった。あの男だな、桐生は直感的にそう思った。
            




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