5.動き出す恋のベクトル(026)

 
「そろそろ、お店を閉めた頃かな?」
 その日の奈々は、桐生と口をきくことはなかった。喧嘩をしているわけでもないのに、どうしても避けてしまう。
 だけど思いはまっすぐに……
 それでも、会いたい。

 今日は森がラストまでだった。奈々はまだ店に残っている桐生が気になりながらも先に仕事を終え、帰宅していた。
 会えるかなと期待をしながら、部屋の中でそわそわ。連絡しようかと思ったが、昨日もメールすらもらえなかったので、どうしても勇気が出なかった。
 そんな奈々のもとに達哉からの着信が入った。
『奈々ちゃん、今、大丈夫?』
「うん。今、家だから」
『ならよかった。ところで今度の土曜日のことなんだけど。直人と弥生ちゃんと一緒に、俺が奈々ちゃんを迎えに行くことになったから。たぶん朝8時頃に行けると思う』
「ありがとう。ごめんね。急に私も行くことになっちゃって」
『いいよ。大勢の方が楽しいし。それに……』
 達哉は言いかけてやめる。
「ん? なに?」
 電話越しにも、その変化が伝わってきた。
『ふたりきりだと警戒するだろう。この間、困らせちゃったからさ。でも気にしないでよ。奈々ちゃんは普通にしてくれればいいから』
 達哉は奈々の動揺を予想していたのだろう。それで、わざわざ電話をかけてきてくれたようだった。
「ありがとう。だけど、私、結構、楽しみにしてるよ」
 達哉は、やさしさを言葉に乗せて当たり前のように与えてくれる。だから、少しでもそのやさしさに報いたい。奈々は今言える、精一杯の言葉を返した。
『それならよかった。そういうのが嫌いな女の子も多いから』
「私、こう見えてアウトドアは好きな方なんだよ」
『へえ。よく行くの?』
「最近はないけど、小さい頃はよく家族で出かけていたよ」
『じゃあ当日は期待しているよ。寝坊はしないようにね』
「ふふっ、大丈夫だよ。私より達哉くんの方こそ気をつけてね。責任重大なんだから」
『分かってるよ。それ、直人にも言われたよ。それでさ──』

 そんなふうに達哉と電話をしていたとき……
「ん? あれ?」
 けたたましく鳴る部屋のインターホン。こんな時間の来客の心当たりは、ただひとり。
『誰か来たの?』
 電話の向こうから心配そうな達哉の声。
「そうみたい」
『大丈夫? ドアを開けるとき、気をつけないと……』
「うん、ありがとう。じゃあ、ごめんね。電話切るね」
『あっ……』
 何か言いたげだった達哉に気づいてはいたが、奈々は急いで電話を切った。
 自分本位だとあとから思ったが、このときの奈々はそれどころではなく、一目散に玄関に向かい、躊躇なくドアを開けていた。だって、そこには予想通り、会いたくて仕方がなかった人が立っていたのだから。
 やっと会えた。溢れてくる喜びに、奈々の胸はときめいていた。
 それなのに、目の前の桐生は素っ気ない感じがする。瞳は冷たく、口元も固く結ばれたままで、にこりともしない。
 そこでようやく奈々は、だんだんと状況を理解しはじめた。これは気のせいではない。明らかに機嫌が悪い様子だ。

「ずっと話中だったな」
 桐生は、携帯を握っていた奈々の左手に目をやりながら、冷やかな声で言った。
 その視線を受けて、奈々の顔色が一瞬で変わる。状況を理解した奈々は、ああ、やってしまったと思った。
「ごめんなさい。友達から電話がきてたので」
 と言いながら、携帯を確認する奈々。口元に手を当て、履歴に残る桐生からの10回近くの着信件数に驚いていた。そして、だんだんと、その顔がほころんでいく。
「何、笑ってる?」
「いえ、別に」
「はっきり言えよ。気になるだろう」
 ほんの少し凄みをきかせ、眉をひそめる桐生。
「だって、ここ一週間、ぜんぜん連絡くれなかったのに、こんなにたくさん電話をしてくれていたから」
「それは悪かったよ。会社だと、なんとなく電話をかけにくくてな」
「なんだあ。そうだったんですか」
 奈々は安堵して、快活な笑顔を見せる。浮かれたような彼女の笑顔を見ていたら、桐生の苛立ちも自然とおさまっていった。
「でも、メールくらいは欲しいです」
「それは、気をつける。そういう習慣、今までなかったから」
「ですよね。桐生マネージャーがメールをマメに返信している方がらしくないですもんね」
「だから、笑うなって」
 桐生の照れた顔を見て、奈々はほっとしていた。最初の冷たい空気が吹き飛んで、今は桐生の不器用さが微笑ましく、その場を和ませている。まだ慣れないふたりだけの空間はぎこちないけど、久しぶりに会えた喜びが幸せをもたらしてくれた。

「夕ご飯まだですよね? 私もまだなんで何か作りますか?」
 久しぶりに会えたのだし、てっきりゆっくりしていけるのだと思って奈々が尋ねる。
 しかし、桐生の返事は……
「悪い、まだ仕事が残っているから行かなくちゃならないんだ」
 あっさりと期待が裏切られた。
「シゴト、ですか……」
 それなら何しに来たのだろう。だけど、そんな気持ちをストレートに表に出すわけにいかない。こうして立ち寄ってもらえただけでも、ありがたく思わなくてはと気を持ち直そうと頑張った。
「こんな遅い時間に本社に戻るんですか?」
「……いや、……家で片づけるんだよ」
 いつも自信たっぷりな桐生が、今日は珍しく言いにくそうに言葉を詰まらせて言った。その口ぶりが、なんだか怪しい。
 しかし、奈々は、桐生のマネージャーとしての仕事の内容はよく分からないため、その言葉を受け入れるしかなかった。言い返したところで、仕事の内容を詳しく教えてくれるはずもない。
「とにかく、あがって下さい」
 せめてもと思って言ってみるが……
「すぐに行かなきゃならないから」
 断られた。
 本当に何しに来たのだろう。義理で寄っただけなのだろうか。通り道だし、そうなのかもと、どんどん卑屈になるばかりだった。
「今日は顔を見に来ただけだから」
「……はい」
 本当はうれしい言葉のはずなのに、どうしても笑えない。
 今度いつ会えますか?
 本音はそれ。でも、そんなことを言ったら迷惑に思われるはず。奈々は言いたい言葉を飲み込むと、無理やり笑顔を作った。
「気をつけて」
 こういう場合、大人の女性はどう対応するのだろう。次の約束をしないで見送るだけなのだろうか。
 笠間店長は、なんて言って引きとめていたの? こんなとき、どうすれば安心できる言葉をもらえるの?
 情けないけど、教えて欲しい。
 だけど、何もできないまま。奈々はその場で桐生を見送るしかなかった。

「昼間のことだけど」
 見守る背中が突然振り向いたと思ったら、桐生が奈々をじっと見つめる。探るような眼差しに奈々は驚きを隠せない。まさか、あのことに気づいていたなんて思ってもみなかった。
「もしかして、聞こえてました?」
「怪し過ぎるだろう。こそこそしやがって」
 気づかれないようにしていたので、奈々はどうにも気まずい。悪いことをするつもりはもちろんないのだが、相手に先に言われてしまうと黙っていたことに罪悪感を覚えてしまう。
「誰と行くんだよ?」
「大学の友達と、その彼のお友達です。ほとんど知らない人ばかりなんですけど」
「男も来るんだろ?」
「……来ますね」
「だよな。女だけでっていうのもおかしいもんな」
 今までの桐生だったら相手の行動に干渉することはなかった。男女でお酒を飲みに行くことくらい、どうってことないと思うタイプ。ましてやふたりきりでないのなら、なんの問題もないはずだった。
 しかし、相手が奈々だから……そして、笠間との、こそこそとした店でのやり取りさえなければ、ここまで気にならなかったのかもしれない。
「この間の男の子も一緒で……」
 奈々は正直に告げる。
「もし、行くのをやめた方がいいなら断ります」
 弥生には悪いけれど、達哉とのことがあったので本気でそう考えた。それに“行くな”と言って欲しい。もっと束縛して欲しい。つき合いはじめてまだ間もないけど、今の状況が正直、不満でもあった。
 それなのに、その願望は叶わない。
「あんまり俺も構ってやれないから文句は言えないよ。いいよ。行ってこいよ」
 もちろん、桐生としても達哉が一緒なのは気に食わない。けれど、そう言うしかなかった。
「友達と遊びに行くのに、いちいち俺の顔色をうかがっていたら、どこにも行けなくなるぞ」
 奈々の心情を知らず、クスリ笑みを浮かべる桐生。
「……はい」
 やさしくなる語尾に、奈々は小さく笑い返すのが精一杯だった。
 そんなに思われていないのかも。理解してくれるのはいいことなのだろうけど、本当は、もっと何か言って欲しい。
「どうした? 何が不満?」
「そういうんじゃないです」
「じゃあ、何?」
「……いえ。楽しんできます」
 これでいいのだと自分に言い聞かせた。桐生はベタベタされるのが好きじゃないのかもしれない。だから、これくらいの距離感を保っていた方がきっとうまくいくのだと考える。


「じゃあ、楽しんでこいよ」
 桐生がドアに手をかけた。
 もう行ってしまうというのに。寂しいという言葉すら伝えられない。
「ただし、浮気すんなよ」
「えっ」
 だから、たったそれだけの言葉にエネルギーをもらえる。
「羽目外すなっていう意味」
「はい」
「ほんとに分かってんのかよ?」
 少しは心配してもらえているのかな。
 今の奈々はこんなことでしか、桐生の愛情を確認できないから、そういう意地悪な眼差しにさえ喜んでしまう。
「浮気なんてするわけないです」
「でも、この間の男も一緒だからな。油断できない。迫られたらどうするつもりだよ。例えばこんなふうに……」
 そう言うと、急に奈々の視界が変わり、目の前には厚い胸板。ぎゅうっと力を入れられた。愛おしむように強く。この体勢も、シャツ越しに分かるほどのたくましさも、まだ馴染めないけど、ずっとこうしていたいなと思う。
「なあ? どうするんだよ?」
 頭上に感じたそれが唇だと気づいて、驚いて見上げると、それが徐々に下に降りてきた。おでこ、瞼、頬。ゆっくりと繰り返されるそのキスは心地よくてドキドキというより安心する。
 されるがままに身を任せていると至近距離で目と目が合った。
「例えば、他の男にこんなことされたら、抵抗できんのかよ?」
 だけど返事をする前に桐生の唇が重なってきた。それは軽く押し当てるような感じで、導かれるように目を閉じると、それを待っていたかのように顎のラインから耳の後ろに手を添えられた。角度を変えてさっきよりもぐっと強く重なる。
 舌が静かに侵略していった。長い長いふたりきりの時間がはじまった。電話をもらえなくて、不安で悲しい思いをさせられたことを許せてしまうような官能的なキスは、涙が滲んでくるほどに愛しさが伝わってきた。
 呼吸を合わせ同じタイミングで息を吸い、お互いの吐息をお互いが飲み込んでいく。腰にまわされた手の平がふたりの距離をさらに近づけて、密着していった。
 足りなかったものがキスで補われてしまうのだから不思議だ。心と体はいつの間にか満足感を得ている。唇を合わせるだけの行為にこんな淫らで高尚な世界があったなんて。
 この時間がこのまま続いて欲しい。心からそう願っていた…──

 だけど名残惜しく、それは離れた。
「次はこの続きするからな」
 そう言った桐生の顔には妖しい笑み。
 けれど、長いキスの果てに正気を取り戻せない奈々は顔を上げることができないため、それを確認できない。
「返事は?」
「……はい」
「いい子だ」
 従順な奈々に桐生は思わず手を伸ばし、奈々の頭をぽんっと撫でた。
「じゃあ、もう行くよ」
「お、おやすみなさい」
「おやすみ。ちゃんと鍵、閉めとけよ」
「はい」
 別れ際はどうしてこうも切なくなるのだろう。交わされる言葉がふたりの間にそっと落ちて、奈々は大きな背中を見送った。

 ひとりになると寂しいという思いはあるけれど、今日の触れ合いで会えなかった分の充電ができたような気がする。あれからだいぶ時間が経っているのに、胸のドキドキはいまだにおさまらない。
 冷めやらぬ興奮の中、奈々は桐生が別れ際にしきりにあることを気にしていたことを思い出していた──

『いいか、ほかの男に隙は見せんなよ』
 桐生は少し照れているようだった。だけど、奈々にはその様子を楽しむ余裕はなくて、茫然と彼を見上げているだけ。
『ほら、それだよ。その顔』
 そう言っておでこを突かれたので、半開きだった口をぎゅっと結んだ。
『帰ったら電話しろよ』
『分かりました』
『寄り道は禁止だからな』
『はい』
『口説かれんなよ』
『それは大丈夫だと思います』
『でも、あれだ。……今しかできないこともあると思うから。友達と過ごすことも大事だと思うよ』
 奈々は桐生のまじめな言葉にしっかりと頷いた。
 桐生は厄介で困る。おかげで、喜んだり、落ち込んだり。些細なことで乱されてしまう。
 だけど好き。すごく好き。とにかく夢中だった。
            




inserted by FC2 system