5.動き出す恋のベクトル(028)

 
 バーベキューの翌日である日曜日の午後はバイトの日。
「おはようございます」
 先に笠間と森に挨拶をすると、入れ替わりに笠間が休憩に入った。奈々はそれを見送ったあと工藤のもとへ。
「おはよう、工藤くん」
「あ、うん、おはよう」
「今日も忙しそうだね」
「そうだね。そう、かもしれない……な」
 今日の工藤は、いつもと違ってそわそわと落ち着かない様子。
「どうしたの? まさかとは思うけど、心配事?」
 気になって尋ねると、工藤は周りを気にするようにキョロキョロと見渡した。
「違うよ。それよりさぁ……」
 小声でそう言って、ニヤニヤする。
「だから、どうしたの?」
 もったいぶられて、強めに言ってみた。その声に工藤はもう一度、周囲を見渡すが、すぐに先ほどと同じような顔をして言った。
「俺さ、この間の水曜日の夜、森さんと駅前で飲んでたんだけど、帰りに見ちゃったんだよね」
 工藤の細い瞳がおもしろがるようにギラッと光る。
「何を?」
「桐生マネージャーと笠間店長が一緒のところ」
「えっ」
 一瞬、頭が真っ白になる。
「だーかーらー。桐生マネージャーと笠間店長のデート現場を目撃したんだよ」
 まさか、そんなはずはない。ふたりの関係はとっくに終わっている。今は、自分と両想いになって、恋人関係となったのだ。
「デートだっていう証拠はないでしょう。あのふたりは、仕事のパートナーとして会っていただけだよ」
「その割には深夜だったけど? 普通、そんな時間に待ち合わせするか? 俺、思わず隠れちゃったよ」
 そんな……

 それから事態を飲み込もうと、ひとつひとつ頭の中で整理した。
 あのふたりがどうして一緒にいたのだろう。工藤にはああ言ったけど、仕事とはとても思えない。なぜならそれは水曜の夜のことだったから。水曜の夜、それは桐生が奈々のマンションに来た日。あのあと自宅で仕事があるからと帰って行った日だったのだ。
 工藤はもちろん、他の人たちも奈々と桐生の関係を知らない。お互い秘密にしようと約束したわけではないけれど、さすがにバイトの女の子とつき合っているということが会社に知られたら桐生の査定に響くかもしれないと思い、奈々はこのことは誰にも言えずにいた。
「打ち合わせだよ、きっと……」
 しかし、何も知らない工藤はさらに続ける。
「いや、違う。あれはまさしく不倫現場だぜ。絶対、そうだって」
 自信満々の工藤。楽しげに語るが、奈々はそれどころではない。桐生に騙されているのだろうかと嫌な考えが頭を過り、必死に打ち消そうとしていた。
 でも、認めたくなくても工藤が見たのは本当だ。奈々は、今すぐ桐生に会って問いただしたい衝動にかられるが、なんとか冷静さを保とうとした。
 やっと気持ちが通じ合った。独りよがりの恋なんかじゃない。きっと、理由があるのだ。きっとそう。彼はそんな人のはずがない。奈々は泣き出しそうな自分にそう言い聞かせて、仕事に戻った。


 けれど、あんな事実を聞かされて平然としていられるほど大人ではない。
 やっと休憩時間になり、奈々は人気のない非常階段で過ごした。あれこれ考えたけど、結局、嘘をつかれたことには変わりない。そのことに愕然とした。
 確かにあのとき、家で仕事だと言っていたのに。笠間店長と不倫をしているの? 私は二股をかけられているの?
 笠間と一緒の今日、彼女の顔を見るたびにイケナイ妄想が奈々を狂わせた。
 手先が震えてくる。泣きたくても泣けないこの状況にぎゅっと唇を噛むしかなかった。


 閉店となり、ひとりで店を閉め、重い足を引きずりながら家に帰った。
 帰る途中、ポタポタと頬を伝って涙が流れ落ちる。何度拭っても次から次へと溢れてくる涙。微かに街灯が照らされた夜道だったが、すれ違う人がいなかったのが幸いだった。ひどい泣き顔を人に見られる心配はない。
 だけどマンションに着いて中に入ろうとしたとき、門の付近に人影を見つけた。マンションの住人だろうか。奈々は慌てて涙を拭い、俯いてその場を足早に通り過ぎようとした。
「奈々ちゃん?」
「えっ?」
 聞き覚えのある声に思わず顔を上げた。そこに立っていたのは桐生でもなく達哉でもない。
「直人くん」
「どうしたんだよ!?」
 泣きはらした奈々の顔を見て、驚いて尋ねる直人。
「ちょっとね……」
『どうしたの』というのは、こちらのセリフ。しかし、顔を見られたくなくて、奈々は視線を逸らした。
 そんな奈々に直人はつかつかと近づき、その顔を覗き込む。
「見ないで」
「こんなに泣いているのを見たら無理に決まってるだろう」
 直人が奈々の肩を抱き寄せて言った。その感触に違和感を覚えて、びくっと体が反応する。
 もちろん、このままでいいと思っていない。彼は弥生の彼氏なのだから。
 けれど、直人を振りほどきたいと思っていても、そんな力は残っておらず、抱えられるように部屋へ促される。
「本当に平気だから」
「気にするなよ。すぐそこまでなんだから」
 あまり大袈裟にしたくない奈々はそれを聞き、部屋の前までならと、仕方なくそれを許した。

 部屋の鍵を開けると、直人に顔を向けた。ありがとうと言おうとしただけなのに真剣な瞳が奈々を見下ろしていて、予想外のことに奈々は言葉を失ってしまった。
「このまま放って帰れねえよ……」
 切なそうに絞り出される声は、それまで聞いていた声とまるで違う。軽さはすっかり薄れ、マンションの廊下に静かに落ちていく。
「でも、本当に──」
 しかし、すぐに本性があらわになった。
「──直人くん?」
 大丈夫だからと続ける隙もなく、直人は施錠が解除されたドアを当たり前のように引いて、奈々を押し込むようにして中に入り込んだのだ。
 足元がもつれそうになっても、直人が力強く肩を抱いているので止まるに止まれない。恐怖心を感じても、あまりにも素早い行動で声も上げられないほどだった。

「あの……」
 怯えるような奈々の声。直人はチラリと奈々を見るが、奈々をベッドに座らせると自分は床に腰を下ろし、あぐらをかく。そして、どうやって話を切り出そうと、虚ろな奈々を静かに見ながらタイミングを計っていた。
 そのとき、俯いていた奈々の長い髪が背中の側から落ちてきてサラッと揺れた。そのタイミングで直人は、その髪をかき分けるように手を伸ばす。
 状況に気づいた奈々は近づいてくる手を避けようと自分の手を伸ばすが、呆気なくその手は捕まり、ついでにもう片方の手も捕まった。
 両手の自由を奪われ、ハッとして顔を上げる奈々。そこでようやく事の重大さに気づく。成り行きとはいえ、ふたりきりの部屋に自分と直人がいる。自分の都合で友達の彼氏を部屋に上げてしまい、今さらだけど弥生に申し訳ないという気持ちで一杯になった。
「なあ?」
「離して!」
 近づいてきた直人の顔。それを避けるように自分の顔を背けながら大きな声を出した。その声に直人は一瞬動きを止めたが両手は掴んだまま。
「お願い、離して」
「やだね」
 早くこの手を振りほどかないといけないのに、びくともしない。
「痛いよ」
「力を抜いたら逃げるだろ」
「やっぱり部屋に上げるべきじゃなかった」
「でも俺は奈々ちゃんがなんと言おうと、泣いて帰ってきたのを見たら見過ごせない」
「直人くんには関係のないことだから。それに慰めてもらっても意味ないよ」
「そんなこと言うなよ。俺は真剣に心配しているんだ」
 直人はやり場のない憤りをそこにぶつけるように、手首を掴む力に強さを込める。
「私は大丈夫だから……お願い……」
 奈々は祈るように見つめた。でも、直人はそれを無視し、泣いて弱り果てている奈々に向かって話を続ける。
「初めて会ったときから奈々ちゃんが気になって仕方がなかったんだ。達哉と会っていることは聞いていたから、てっきりそういう仲だと思っていた。でもそうじゃないって知って──」
「やめて。それ以上、言わないで」
 弥生がいるのにと、奈々は不信感を募らせた。
「──うれしかった、なんて。こんなときに言うのは間違っているよな。でも今、言いたくなった。俺が本気で心配していることを分かってほしかったから」
 直人は、奈々の制止を無視して熱く語った。
「何、言ってるの? 直人くんには弥生がいるんだよ。冗談はやめて」
「冗談だと思うか? 達哉は親友だぜ。親友の好きな女に冗談で言い寄るかよ。だいたい、達哉がもたもたしているから悪いんだよ。だから、俺が先にもらう」
「弥生のことを裏切らないで。まだ好きな気持ちがあるなら、このことは聞かなかったことにするから」
 奈々は必死にすがった。弥生との関係を壊したくない。
「あいつのことは遅かれ早かれ終わっていたよ。俺、無理なんだよね、束縛する女って」
「それは不安だからだよ。いつも不安にさせている直人くんのせいじゃないの?」
 初めて会ったときの印象を思い出した。軽そうで決していい印象ではなかった。それが当たってしまうなんて。
「弥生がどんなに直人くんのことが好きなのか分かっているくせに。そういうことを言うなんて最低としか思えない」
 わざと、きつく睨んで最後の抵抗をした。しかし、奈々の思いとは反対に、直人はやんちゃな感じで笑みを浮かべていた。いかにも場慣れしていますという態度を見せつけてくる。
 それが悔しい。奈々は、その余裕たっぷりなところが気に食わず、奥歯に力が入った。

「普通の女の子は、みんなおもしろいように簡単に落ちるけど、奈々ちゃんはやっぱり、違うみたいだな」
「当たり前でしょう。私は弥生の親友だよ」
「ついてねえな。ほんと、面倒くさいよ、こういうの。だから、本当はこの間の写真を渡すだけのつもりだったんだよ。けど、やっぱり抑えられなかった。とにかく俺の気持ちを知ってもらいたかったんだ」
 直人はそう言うと、掴んでいた奈々の両手を解放する。手首のあたりの血流が急によくなって、緊張が解かれるとともに、奈々は大きく息を吐いた。
「俺とのこと、考えておけよ。もちろん弥生とはすぐに別れるから」
「考えなくても今、ここで返事をするよ。直人くんとの関係はこれからも変わらない。ついでに言わせてもらうと、友達としてもつき合えないから」
「もっと真剣に考えろよ。俺だって軽い気持ちで言ってるんじゃないんだ」
「私だって真剣だよ」
「だったら、返事はしっかりと時間をかけてくれよ。そうだな、最低、1ヶ月だな」
 頭がガンガンとしてくる。真剣なのに。あなたの方がもっと真剣に物事を考えるべきだと心の中で反論の言葉が舞っていた。
 でも、どうしても言葉にできなかった。こちらがムキになればなるほど、彼はおもしろがるに違いないと思ったからだ。この人は、こういうことにすごく慣れている。強い口調で自信たっぷりなことろが、そう思わせた。

「じゃあ、俺、そろそろ帰るわ」
 目的を果たした直人はそう言うと、おもむろに立ち上がって玄関へ向かうので、奈々もそのあとを追った。
「待ってよ」
 拍子抜けして思わず引きとめてしまったけど、振り向いて口角を上げる直人を見て、自分の間違いに気づいた。
「俺を引きとめてもいいのかよ? ここで奈々ちゃんのことを押し倒すことなんて簡単なんだよ。どうせ振られるんならそれくらいさせてもらわないと気がすまないタイプだから」
「それって脅し?」
「これでも俺にしてはかなり抑えめなんだけど。変なことにならないうちに今日は帰るよ」
 あっさりと突き放されて、それはそれでよかったのだけれど、強い行動力はこの先、トラブルを生みかねない。深く考えなくても次の展開が見えていた。
 なすすべが思いつかない。奈々はその場から動けずに黙って見送った。扉の音が重く響くのを聞きながら、途方に暮れるのだった。
 弥生にどういう顔をして会えばいいのだろう。とても普通に接することはできない。桐生のことだけで頭がいっぱいなのに、その上、弥生と直人の問題まで勃発し、ひとり荒野に置き去りにされた気分。誰にも頼ることができない。
「どうして直人くんが? 今はそれどころじゃないのに」
 まわらない思考のまま、その夜は更けていった。

 翌日も何も手につかない。朝起きてもベッドから出る気にもなれず、奈々はそれから二日間大学をさぼってしまうほど。その間、ずっと部屋の中で過ごし、外へは一歩も出なかった。
 そんな生活を遮る携帯の着信音。陽が傾きはじめ西日が窓から差し込みはじめていた。
 仕方なく鳴り止まない携帯の通話ボタンを押した。
『話があるんだけど会える?』
 心の準備ができないまま、とってしまった弥生からの電話。電話の向こうの声は暗く沈んだ声だった。その誘いを断る選択肢がない奈々は了承する返事をする。
 だけど、脳裏をよぎる光景は、弥生と直人の別れの場面。もしかして直人は、昨日言っていたことを実行に移してしまったのだろうか。
            




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