6.震える瞳(035)

 
 その後、奈々は桐生に車を出してもらいマンションまで送ってもらった。そのおかげでバイトにはギリギリ間に合うことができた。
 今日も昨日とほぼ同じメンバー。店長が言っていた通り、今回の応援は偶然男の子の比率が高く、桐生や崇宏以外にも数人の男性陣が応援に呼ばれていた。確かに中学生くらいの女の子も買い物に来るようなお店なので、店員が男性ばかりというのは抵抗がある子もいるだろう。

「今日は7時であがれ」
 夕方の6時半を過ぎた頃、桐生が奈々と崇宏に言った。
 それを聞いた崇宏は心配そうに尋ねる。
「応援のスタッフ全員が7時までということですか?」
「この分だと、あとは、この店のスタッフだけでこなせるだろう」
 閉店は夜の8時。客の流れもだいぶ落ち着いてきた頃だった。大人数のスタッフで残っていると、逆に客が店に入りにくくなるので桐生はそう判断した。
「俺はラストまで残らないといけないから……」
 桐生が小声で奈々に言う。
 仕事中に、こんなふうに声をかけてもらえるのは初めてだった。ふたりだけの秘密の会話。それだけでほっぺたが上気する。奈々はときめく胸を必死に抑えて小さく頷いた。

 こうして今日も長い一日を終えようとしていた。
 夜の7時の終了間際、奈々は店長にこっそりと挨拶。
「店長、いろいろお世話になりました」
「佐藤さん、二日間お疲れ様。ほんと助かったわ。また機会があったら一緒に仕事ができるといいわね」
「ありがとうございます。私も一緒に仕事ができてすごく楽しかったです。こちらこそ、また何かあったらお手伝いさせて下さい」
 たいした手伝いはできなかったが、女の子というだけで少しは役に立ったのかな? 今まで何店舗かの手伝いに出かけたことがあったが、今回のようにここまで感謝されるのは初めてだった。
「さてと。挨拶もすませたことだし。じゃあ、奈々ちゃん、そろそろ帰ろうか?」
「はい。行きますか」
 店長への挨拶を終えて、崇宏と店をあとにしようとしていたときだった。
「お前、ちゃんと分かってるよな?」
 桐生に呼び止められた崇宏。しかし、桐生の攻撃的な態度を見ても崇宏は怯むことなく、満面の笑みで答えた。
「はいはい、分かってますって。桐生さん、いい加減、俺のことをそういう目で見るのはやめて下さいって」
「信用できないから言ってんだよ」
「ひどいよなあ。俺が桐生さんを裏切るわけないじゃないですか。誓いますって」
「なら、誓えよ。指一本触れるなよ」
 桐生の片眉がピクッと上がる。それは静かな迫力だった。
 だが、崇宏には通用しないらしい。「さっさと行こう」と奈々の背中を押して桐生の話なんてまるで聞いていない。
「崇宏! 触るなって言っただろう」
 桐生の重低音が聞こえたが、奈々は強引に背中を押されるがままにお店をあとにするしかなかった。
 でも、不安になってこっそり振り向くと……
 よかったあ。あきれ顔の桐生と目が合い、そのときに零れた小さな笑みを見て、奈々は安心することができたのだった。
 声を掛け合うことはできなかったが、大好きな人に見送られて、幸せを噛み締めていた。

「仲直りしたみたいだね」
 ふたりのアイコンタクトを微笑ましく思った崇宏が、ふと話しかけた。
「はい。ご心配おかけしました。昨日、崇宏さんとお話できてよかったです」
「俺も役にたった?」
「はい、もちろんです」
「じゃあ、お礼のひとつでもしてもらわないとね」
 そう言いながら奈々に向ける視線は普通の女の子だったらハマってしまうんだろうなと思うような笑顔。でも、やっぱり苦手だと奈々は思った。 さっきまで崇宏に感謝していた奈々だが、彼の性格に慣れることは残念ながら、この先もないのだろう。
「それは桐生マネージャーにおねだりして下さい」
「ははっ。さすがだね。桐生さんが惚れただけのことはある。そうそう、惚れた話と言えば、実は桐生さんは奈々ちゃんに一目惚れだったんだよ。知ってた?」
「それ、工藤くんから聞きました」
「なーんだ、知ってたんだ。でも、なんで一目惚れしたかは知らないでしょう?」
「それは知りませんけど……」
「聞きたい?」
 イタズラな眼差しの崇宏が顔を覗き込む。聞きたいかと尋ねてくる割には自分から言いたくてうずうずしている様子。この雰囲気、聞きたくないとは言えない奈々である。

「うーん。聞きたい、かな?」
「じゃあ、特別に教えてあげる。桐生さんはね、奈々ちゃんにお説教されたことがきっかけで好きになったんだって」
「……」
 お説教と言われ、覚えのない記憶に人違いではないかと考え込む。初対面で、しかも桐生相手にそんなことをするはずはないと考えるのだが、どうもそれは事実のようだ。
「あれ? 覚えてない? 奈々ちゃんが桐生さんに『あなたはタバコを吸い過ぎだ』みたいなことを言って注意したんだよ」
「あっ、そういえば。言ったかもしれないです」
 ようやくバイトの面接日のことを思い出し、あの日、灰皿に山盛りにされていた吸殻を見て、帰り際にそんなことを言ったなと記憶の糸がつながる。
 だとしても、あれをお説教と取られるのは心外だ。ただ、桐生の体を心配して助言しただけのことだったのに。
「すごいね、奈々ちゃん。あの桐生さんにいきなりそんなこと言えるなんて」
「お説教のつもりなんてないですよ。ただちょっとストレスが溜まっていたみたいだったので」
「それを物怖じしないで言えるところがすごいんだって。きっとそういう女の子、桐生さんにとって初めてだったんじゃないかな」
 崇宏はそう言うが、微妙な加減で褒められても、きっかけがお説教というのもドラマチックとは言えない。 自分には当てはまらないことだが、例えば、一瞬で人目を惹く容姿だったとかビビッときたとか、そういうことが一目惚れなのではないかと思うのだ。

 しかし、駅のホームに着いて崇宏の話の続きを聞いた奈々は、気持ちが明るくなるのだった。
 大勢の客を避けるように、崇宏が奈々を柱の陰に誘導する。崇宏はその柱に寄りかかり、奈々に笑いかけた。彼の目は生き生きと輝き、その理由に奈々はすぐに気づく。
「あの……もしかして、桐生マネージャーの話の続きですか?」
 恐る恐る尋ねると、崇宏が「うん」とやさしく頷く。
「さっき、うまく伝わらなかったみたいだったからさ」
 その言葉に不満顔を見破られていたのかと気まずく感じたが、どこか納得いかなくて妙に引っ掛かりが残っていたのは事実である。
 別に好きになってもらったきっかけにこだわっているわけではない。よく考えたら桐生が自分のどんなところを好きなのだろうと気になってしまうのだ。
 可愛い女の子、綺麗な女性なら、この業界には大勢いる。みんなだって仕事に一生懸命取り組んでいる。おまけに、明るくて、ポジティブで、やさしい。だから、時々、自分に自信がなくなるのだ。
「つまりね、見た目がタイプだったっていうのもあるだろうけど──」
 夏の名残りの淀んだ空気が漂うホーム。街の明かりがうっすらと照らされた夜空に、ほんの少し欠けた月が見える。多くの人々のざわめきの中、奈々はそれをぼんやりと眺めていたが、崇宏の言葉に思わず目を見開いた。
「──それだけじゃなくて、奈々ちゃんの芯があって、真っ直ぐに育ってきたような素直なところが好印象だったみたい。つまり、ご両親のおかげもあるのかな? 同年代の子と比べると、考え方も振る舞いも大人だから、社会でも通用すると思ったらいしいよ」
「それ、本当ですか?」
 初対面のあの瞬間に彼が感じてくれた何かが褒められるものだったのなら、これほど幸せなことはない。そんなに前から……そのことを考えただけで、桐生の愛の深さを感じる。
「褒めてたよ。でも俺も同じ印象だな。奈々ちゃんて言葉遣いが丁寧だから接客をやらせても安心だし、それにあんまり愚痴とか言わない人でしょう?」
「どうでしょう? なるべく言わないようにしてますけど」
 奈々は自信がなくて首を傾げた。
「そういう心掛けをしているところが、桐生さんが気に入っているところだよ。俺も同じだよ。苦手なんだよね、乱暴な言葉使いの子。そういう子は大抵、愚痴や他人の悪口を言っているんだよ。桐生さんもそういうところが潔癖」
「桐生マネージャーは分からなくもないですけど、崇宏さんが女の子をそんな目で見ていたとは知りませんでした」
「まさか女の子なら誰でもいいと思ってた? 違うからね。俺のタイプは大和撫子みたいな女の子なんだから」
「へえ。そうだったんですか」
 意外に古風な子がタイプなのだという発見に驚く奈々。人は見た目によらないんだなと実感する。

 でも、この通り。人の第一印象というのは不思議なもの。奈々の桐生に対する印象は悪くはないが、かといって良いというほどのものではなかった。どこどなく威圧的、怖いというイメージがつきまとい、なかなか馴染むことができなかったくらいだ。
 それが今ではその人が恋人となっている。誰よりもやさしくて頼もしい人。そして愛おしい。嫉妬や不安の渦中にいてもやっぱり好きの気持ちは拭えないし、失うことは考えられない。
 恋焦がれてやまない感情は毎日、自分のエネルギーになり幸せを得ている。その幸せを彼と共有しながらこの気持ちを大切に温めて、いつかそれが永遠になればいい。まだ漠然とした未来だが、彼とならそんな夢も、と思う。

 ホームに電車が到着するアナウンスが聞こえる。
 崇宏とは路線が違う。崇宏は奈々をホームまで送るためにここまでついて来たが、これから先は別々の方角。
「遠慮しないでよ。家まで送る。夜道も危ないから」
「とんでもないです。だって、まだ7時過ぎですよ。それに、いつもひとりでバイト先からちゃんと帰っていますから」
「それはそうだろうけどさ……」
 珍しく言いよどむ崇宏を見て、奈々には、彼が桐生の代わりに責任を果たそうとしていることが伝わってくる。崇宏は、自分が奈々を家まで送り届ければ桐生も安心するだろうと考えていた。
「本当に平気です。それより、いろいろありがとうございました。お昼に誘って頂いたり心配して頂いたり。崇宏さんに会えてよかったです」
 奈々は笑顔でお礼を言う。
「どういたしまして」
 奈々の顔を見て、笑みを浮かべる崇宏。まだ完全に垢ぬけていない彼女の笑顔は気分が安らぐものだなと感じた。
「桐生さんが一番好きなのは奈々ちゃんの笑っている顔だよ。悲しい顔を見るのは桐生さんも辛いんじゃない? ましてや、自分のせいでそんな顔をさせていたら尚更でしょう」
「……はい」
 崇宏にそう言われて、奈々は背筋が伸びる思いだった。彼女として自信をなくすことが度々だった奈々にとって、何かを与えてあげられるのだとしたら、そういうことなのかもしれないと思ったのだ。

 ふたりが話に夢中になっているところに電車が滑り込んだ。崇宏に見送られ電車に乗ると小さく手を振られ、奈々も振り返す。
 崇宏もようやく肩の荷が下りた気持ちでいた。勤務中の桐生の態度がもどかしかった。だけど下手に手を差し伸べると、桐生に余計なことをするなと言われるのがオチなので、迂闊に行動に移せなかったのだ。まったく世話がやけるよと、いい年をした桐生に対して思う。

 そして、崇宏と別れた奈々は帰りの電車に揺られながら桐生のことを想っていた。
 裸のまま置いて帰られた、ぎくしゃくとした夜──
 仕事と自分との板ばさみでどうしようもなかったのかもしれないと奈々は考えていた。笠間のことはあくまでも部下としてのつき合い。一方的な笠間の思いを知りつつも、売上が伸び悩んでいる笠間の店をなんとかしなくてはならないのが桐生のマネージャーとしての立場。
 それなのに女としての感情をむき出しにされたために、おそらく桐生は困り果てていたのだろう。それでなくとも仕事の合間をぬって自分に会いに来てくれたのに。あまりにも身勝手過ぎたのかもしれない。

 駅に着き、マンションにもうすぐ到着という頃に、奈々の携帯に電話着信が入った。
『着いたか?』
「タイミングぴったりですよ。今、ちょうどマンションの前です」
『崇宏は?』
「電車に乗る前に別れました。家まで送ると言ってくれたんですけど、さすがに悪いので断りました」
『あいつが家まで送る方が危ねえよ。でも無事に帰れたんならよかった』
 奈々の声を聞いた桐生はこれでひとまず安心する。別に崇宏が奈々に本気でちょっかいをかけてくるとは思っていないのだが、崇宏の性格をよく分かっているからこそ心配になってしまう。
 崇宏はすぐスキンシップをとりたがる。ついでに自分のテリトリーの中に抱え込むようなところがある。つまり奈々と崇宏が仲良くなり過ぎると、崇宏との男同士の会話が奈々に筒抜けになるのではという心配もあったのだ。
 油断できない奴だ。一番敵にしたくないタイプだなと桐生は改めて思うのだった。
            




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