6.震える瞳(036)

 
 10月を迎えるとすっかり気温も落ち着き、朝晩はさすがに肌寒くなってきた。奈々と桐生の間には波風が立つことなく、平穏無事な日々が続いていた。
 そんなある日、直人たちとの一件で、奈々のもとに達哉から電話がきた。奈々と弥生との仲を気にかけてくれていたのだ。
 しかし、より深く傷ついているのは弥生の方。それを思うと心配される身ではないので、達哉にそのことを伝えた。桐生にも、達哉との関係を心配されたくなかったので、なるべく距離を置こうと、弥生の話を終えるとすぐに電話を切った。
 そして、その電話から数日後。大学の中庭のベンチでバイトまでの時間を潰していると、思いがけない人物が近づいてきた。
「奈々……」
「弥生!」
 駅で直人と一緒のところを見られて以来の会話だった。
 弥生は奈々の隣に座る。まっすぐな長い黒髪を何度も耳にかける仕草をして落ち着かない様子。
「あれっきりになっちゃってごめんね。別に奈々が悪いわけじゃないのに」
 気持ちが張り詰めている弥生は、顔を上げられない。一定方向に視線を合わせ、その横顔の瞳は潤んでいいた。
「ううん。私の方こそ誤解させて本当にごめんなさい」
 奈々は弥生の手をやさしく握る。自分だって悪いのだ。部屋に上げてしまった日、あの日にもっと強く直人を拒んでいればと、あとから激しく後悔していた。
 けれど、ふたりは別れてしまった。その当事者の奈々は、やはり責任を感じずにはいられない。

「直人くんとは、やり直せないの?」
「もう、いいの。きっぱり、忘れることにする」
「弥生……」
 奈々は言葉に詰まる。無理やりに微笑む弥生にかける言葉が見つからなくて、彼女の潤んだ瞳を黙って見つめることしかできない。自分のふがいなさを思った。
「私、いつも不安が拭えなくて、直人のことを知らず知らずのうちに束縛していたの。だから直人が離れていっちゃったのかな」
「束縛や不安は誰にでもあることだよ。私もそうだよ」
「あのとき、一緒だった人とのこと?」
 奈々は黙って頷く。
「恋愛って難しいよね。私もぎくしゃくして喧嘩にもなった。仲直りはできたけど、いつになったら、不安や心細さはなくなるんだろう」
 ふたりの関係が順調だといっても、笠間の問題が解決したわけではない。そのことを今も思い悩んでいた。
「だけど、うらやましいな。喧嘩しても仲直りできる関係なんだもん。私の場合は相性が悪かったのかもね。なんとなく直人の気持ちの深さがそれほどでもないのかなって、つき合ってすぐに思っていたことなの。でも、もう吹っ切れた。深みにはまる前に別れられてよかったよ」
 静かに話す弥生を見ながら、少し痩せたのではないかと感じた。元気そうに見せようとしているけれど、複雑な心境は容易に分かる。
 それなのに、こうして話しかけてくるのは彼女の勇気とやさしさなのだろう。そんな強さを自分も持てるだろうかと奈々は思いながら、今の弥生の立場と自分を重ね合わせる。もしも、桐生が笠間を選ぶことがあったならば、ふたりを許せるだろうかと。
 でも、その考えをすぐに頭の中から追いやった。考えただけで涙がでそうになるからだ。お互いの過去は関係ない、大事なことは今の気持ち。桐生にもそう言われ、しっかりと胸に刻んだ奈々だが、それでも考えてしまうのは、まだふたりの絆が不安定な土台の上にあるから。
 夏の終わりを迎え、得たものよりも、失ったものや失う怖さの方が奈々の中を大きく占めていた。誰かを好きになるエネルギーは尊いものだが、逆に永遠とは言い難いものだと嫌でも思い知らされる。
 そして再び近づいて来る足音。それは幸せを運んでくれるものか、それとも……


 ◇◆◇


 桐生の忙しさは相変わらず。ふたりの休みも合わないため、どこかへデートに出かけることもなかった。
 それでも奈々は満足だった。その頻度は少なかったけれど、できるだけ時間を作って会いに来てくれる桐生のやさしさにいつも触れていたからだ。
 そして奈々のバイトが休みの週末や大学の授業に影響がないときを選んで、桐生のマンションに通うようになったことも大きな要因だろう。会える時間は少なくとも、確実に幸せはそこにあった。

 そして夜、今日も桐生のマンションへ向かおうと奈々はT駅へ降り立つ。明日の大学の午前中の講義が急遽、休講になったので久しぶりに会いに来た。
 途中、桐生に電話をしたが連絡が取れなかった。仕事中で電話に出ることができないのだろうか。でも、桐生と連絡が取れないのはいつものこと。そのため奈々は気にすることなく、マンションまでの通い慣れた道を歩いていた。
 時刻は夜の9時にさしかかる頃。当然、空は真っ暗だが、マンションまでの道は比較的人通りのある道。
 桐生は、夜道は危ないと渋い顔をするけれど、それは過保護だと奈々は思う。大学生にもなれば夜遊びくらい誰でもするものだし、深夜に出歩いているわけでないのだ。

 奈々はマンションの近所にあるファーストフード店に入ると、いつものようにドリンクだけを頼み、窓際の席に座った。
 桐生のマンションへ行ったのだが、あいにく留守だった。まだ仕事から帰宅していないようで、そんなとき、合鍵をもらっていない奈々はよくこうしてこの店で時間を潰していた。桐生はマンションに帰るとき、いつもこの店の前の道を通る。そのため、窓から外を眺めていれば、桐生が帰宅する様子が分かるのだ。
 そして数十分ほどして桐生の姿をようやく見つけた奈々。
 帰ってきた!
 そう思って、立ち上がったのだが──
 それは体が凍りつくほどの光景だった。今日に限って言えば、桐生を待ち伏せしていたのは間違いだったのかもしれない。本当は来てはいけなかったのかもしれない。
「あのふたりがどうして一緒にいるの?」
 今、奈々が目にしている光景は見たくなかったツーショット。桐生と笠間がふたり並んで歩いている光景だった。
 奈々は、窓の外を食い入るように見つめていた。ガラス一枚を隔てているが、ふたりまでの距離はほんのわずか。足がすくんでしまった。もし、追いかけて声を掛けることができたとしても、その答えを聞くことが怖かった。帰れと追い返されたら、立ち直れない。

 どれくらい時間が経過したのだろう。奈々はようやく立ち上がると、冷え切った紅茶を処分し店を出た。
 心を落ち着かせようと深呼吸する。それから通りを歩き出した。

 その行先は──

 そこは桐生の住むマンション前。奈々はそこから桐生に電話をかけた。つながらないかもしれない、そう思っていたのだが、呼び出しコールが途切れ、電話の向こうに桐生の声が聞こえた。こうして少し前までつながらなかった電話がようやくつながったのだが……
「今から会いに行ってもいいですか?」
 意外に冷静な声に自分でも驚く。でも声とは裏腹に、その心は切り裂かれる寸前。返事は分かっていた。分かっていたけれど、もしかしたらという期待を持ってそれに賭けていた。
『悪い。今日は仕事で遅くなりそうなんだ──』
 仕事だと言い訳されて、それ以上、桐生が何を言っていたのか耳に入らない。ただ最後に『また連絡するから』と言っていたような気がするが、終話ボタンを押されたあとのツーツーという音によって、最後の方の会話の記憶も吹き飛んでしまっていた。
 マンションを見上げたまま電話を切ると、ようやく追いついてきた感情。悲しさと悔しさがごちゃませになったものが、体の中のエネルギーを吸い取っていく。
「すぐ近くにいるのに会えない理由が笠間店長なんだね」
 奈々は、立っていることもおぼつかない状態で桐生の部屋の明かりを見つめながら、それがだんだんぼやけていくのを止められず、それでもじっとその場所に立っていた。恋人の自分よりも優先するのが元彼女なのだから無理もない。
 涙でぐしゃぐしゃになった奈々の顔。それを拭ってくれる人は今は別な人の涙を拭い、それを思い、また涙する。声も出せずに。
 だけど、理由があったのだろう。奈々は思い出していた。桐生の隣を歩く笠間の泣いている姿を。つまりそういうことだ。部屋に笠間をあげていたことはショックだったが、きっと桐生は裏切らないと、それだけは信じている。
 それよりも重要なことは、あの電話での言い訳だ。何より悲しかったのは桐生に嘘をつかれたことだった。
 今は夜の9時過ぎ。『今から会いに行ってもいい?』と尋ねる奈々に、今どこにいるのかを聞き返さない桐生は、よほど焦っていたのかもしれない。
 今夜は彼女を部屋に泊めるのだろうか。邪(よこしま)な考えが浮かぶ。元彼女という存在は、それくらいのシチュエーションは特別なことではないだろう。今まで幾度となくそういった日々を重ねてきたのだから、何もなくともひとつ屋根の下で一晩を過ごすことに感じる違和感は少ないはずだ。


 それから三日後のことだった。バイトに出勤した奈々は、塚本から笠間が10月いっぱいで会社を辞めることになったと聞かされた。
「どうして急に?」
「家庭の事情みたいだけど、それにしても急よね。店長になって、まだそんなに期間もたっていないのに」
 突然の展開に、いったい何が起こっているのか、まったく理解できない。この間、ふたりでマンションに入ったあとに何があったのだろう。
 桐生は仕事の話を奈々に決してしない。だから奈々も聞かない。たくさんの部下を抱えている責任のある立場であると、奈々なりに理解していたのだが、今は何も言ってくれない桐生に不信感を抱かずにはいられない。あんなことがあったあとなので尚更。仕事のこととはいえ、奈々のプライベートに大きく関わっている笠間のことなのだから、少しは事情を説明してくれてもいいのではないかと思うのだった。
 以前、桐生とつき合う前にふたりで飲みに行ったとき、桐生の携帯にかかってきた電話の相手は、今思えば間違いなく笠間だ。それが仕事の内容だったとしても、笠間にとっては部下の枠を越えた感情が伴っていたのは明白。そして桐生はその気持ちに気づいているのだから、どうにもやりきれなかった。
 奈々は聞き分けのいい大人を演じていることに限界を感じていた。不安でたまらない。今すぐ会いたい。取り返しがつかなくなる前に解決したかった。優輝に裏切られた記憶が頭を過るのだ。
 絶対と信じていても人は裏切ることもあると学んだ。桐生はそんな人ではないと頭では分かっていても、もしそれが独りよがりの妄想だとしたら──
 だんだんと意志が揺らいでいく。だから今夜、会いに行こうと心に決めた。

 そして……
 バイトを終えた奈々は桐生に会うために、本当だったら今頃、電車に乗っているはず──
 それなのに奈々は笠間とテーブルを挟んで向き合う状態。
 帰り際、笠間に呼び止められた奈々は、近くのファミレスに連れて来られた。話の内容は想像がつく。
「そんなに緊張しないで」
 笠間が奈々をリラックスさせようと、クスリと笑う。
 目の前にはふたつのホットコーヒーだけが並んでいる。とても、ふたりで食事をするという雰囲気ではない。息が詰まりそうなほどの重い空気だった。
「私、今月で会社を退職するの」
 笠間はそう言うと、コーヒーカップに口をつけた。
「塚本さんから聞きました」
「前にも言ったけど、旦那とも離婚の話が進んでいてね、別れることになると思う」
 そして笠間の目つきが変わった。奈々は嫌な予感を覚えた。
「それで、あなたには学と別れてほしいの」
「え……」
 奈々は絶句する。何がどうなって、そのセリフにつながったのか。桐生との話し合いの結果なのだろうか。
 三日前の夜、呆然としたまま駅に向かい、電車に乗って自分のマンションに帰って来た奈々。桐生の嘘のせいで、彼にあの日の夜のことを尋ねることができなかった。
 怖かった。あのふたりのよりが戻って、桐生から別れを告げられるのではという不安が強くなり、黙って耐えるしかなかったのだ。その懸念が本物になってしまったのだろうか。

「年上で、しかも結婚している身でこんなことを言うなんて情けないけど、どうしても学のことが頭から離れないの。もともとお互い、嫌いになって別れたわけじゃないのよ、私たち」
 鮮やかな口紅を塗った唇がゆっくりと弧を描く。まるで、今もふたりは互いに思い合っていると言いたげに映った。
「遠距離にならなかったら、別れることなんてなかったわ。だから、やり直すのが自然なのよ」
「それは桐生マネージャーも同じ考えなんですか? 彼も……私と別れて笠間店長とやり直したいと言っているんですか?」
「いいえ。あの人、佐藤さんの名前は言わないけど、好きな人がいると言っていたわ。うすうす分かってはいたけど、やっぱり佐藤さんなのね。だから、こうしてお願いをしているの」
 そう言って、すがるように奈々を見つめてくる。しかし、その気持ちは奈々も同じ。奈々も桐生を譲るとか諦めるなんて考えられなかった。
「そんなことを言われても困ります。それを決めるのは桐生マネージャーですし、彼の気持ちが最優先だと思います」
 もし、桐生が笠間を選んだとしたなら仕方がないと思っていた。でも、そうではないなら、彼を誰にも渡したくないと思う。奈々の想いも笠間に負けないほど強く成長していた。
 そんな奈々の強さは笠間にも伝わっていた。奈々の桐生に対する愛情を嫌でも感じてしまう。すると、笠間が静かにしゃべり出した。
「実は、会社を辞める理由は旦那に家庭を優先して欲しいと言われたからだったの」
「でも、もともと旦那さんとはうまくいっていなかったと、前に言っていましたよね?」
「そうなんだけど、世間体もあるし、もう一度やり直そうと思っていたのよ」
「じゃあ、どうして桐生マネージャーと別れて欲しいなんて言うんですか?」
 笠間の身勝手な言い分に奈々の口調が強くなる。
「旦那はまじめな人なの。お酒もほとんど飲まないし潔癖だし、すごく古風な考えの人なの。そんな旦那から、すぐにでも仕事を辞めてほしいと言われていたわ」
 アパレル業界に限らず、販売業は仕事が終わる時間が遅い。その上、笠間は家事が苦手な方だったために、快く思われていなかったということだった。
「でも私は従えなかった。それは、この仕事が好きだからというよりも、学とまた一緒に仕事ができるからだったの。赴任先が、彼の管轄のお店だったから」
 以前、お酒が好きでよく飲み歩いていたと言っていたのを奈々は思い出した。きっと、その相手は桐生だったのだろう。そして桐生のために仕事を続けようと思ったというその言葉に、笠間の想いの深さを知った。
 視線をテーブルに落とした笠間の顔は長いまつ毛が印象的で、色白の肌を余計強調している。やっぱり綺麗な人だ。
 桐生が過去に好きになった人。どんなふうに触れて、囁いて、愛を交わし合ったのだろう。コーヒーカップの淵をなぞる指先にすら見とれてしまう。
 自信がなくなる。こんな人と勝負しないといけないのかと思い、奈々の気が滅入るのも仕方のないことなのかもしれない。

「もしかして、旦那さんは知っていたんじゃないんですか? 笠間店長がずっと桐生マネージャーを思っていたことを。だから、仕事を辞めろと言ったんじゃないでしょうか」
「ええ。それもあるわ。昔の話をしたこともあったから、すぐに気づいたみたい。だから東京に戻ってきたら、前にも増して仕事を辞めろと言われることが多くなったわ。だから、辞める決意をした。今度こそ、彼を諦めるためにも。だけど……」
 笠間が言葉に詰まり、言いにくそうにしていたので奈々は言葉をつなげる。
「桐生マネージャーとのつながりがなくなってしまうと思ったら、急に自分の思いが止まらなくなったんですね」
 すると、笠間は弱々しく笑いながら言った。
「佐藤さんて大人ね。私なんかよりもずっとしっかりしているんだもの」
「私が大人ですか?」
「ええ。19歳に思えないほどしっかりしている。私なんて仕事も家庭も両方失くしかけていて、正直どうしていいのか分からないの。だからお願い、学を私に返して」
 そう言った笠間は恥も外聞もかなぐり捨てて、すべてを奈々にさらけ出していた。奈々から見た笠間の方がずっと大人で綺麗でうらやましいと思っていたが、こんな疲れ切った姿を見せられると何も言うことができなかった。
 桐生もそんな笠間を放っておけなかったのかもしれない。泣いていた笠間を思い出し、そんなことを思った。
            




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