6.震える瞳(037)

 
 あのあと笠間と別れ、結局自分のマンションに帰ってきてしまった奈々。桐生に会って話を聞きたいと思っていたのに、思いもかけず笠間にすべてを告白されてしまった。
 何を同情しているのだろう。笠間の悲しそうな瞳が頭から離れない。だからと言って彼女の態度を容認はできない。桐生と別れてほしいと言われ、正直、腹立たしさもあったのも事実。
 そんな複雑の心境のまま、次の日の夜、桐生がやって来た。
「この間は悪かったな」
 本当のことを言ってくれないことに奈々の胸がズキズキと痛む。ガラスがひび割れていくみたいに、じわじわと傷口が広がっていった。
『仕事で遅くなりそうなんだ』と嘘をついた日。その日にふたりが一緒だったのを見ていたことを知ったら、なんて思うのだろう。
 全部知っているよ、そう言いたかった。言ってやりたかった。でも、桐生を目の前にするとやっぱり言えない。怖くて勇気がでない。

「我慢できない。このまま抱きたい」
「でもシャワー……」
「あとで浴びればいいだろ」
 その夜のベッドの上。ふたりが交わるのはごく自然な流れ。どんなに不安でも心細くても、何も言えない奈々はその流れに身を任せるしかなかった。断る理由もないし、断ったら嫌われてしまいそうで……。
 だけど一度抱かれてしまうと、変なわだかまりがすっと消えていくから不思議だ。ブラジャーの肩ひもに手を掛けられて外されて、そこに口づけされる。その唇が離れないままに鎖骨に移動していって、もう片方の肩ひもを今度は唇で外された。
 徐々に脱がされていく衣服は心も裸にしてくれる。
 求め続けて止まないこの気持ちをあなたが知ったらなんて思うかな。大事に肌に触れられて髪をかき分けられる度に心も身体も疼いて仕方がないの。早まる鼓動の速度は同じであってほしい。
 ふっと息を漏らした唇の隙間に差し込まれた舌先が熱く絡まった。見つめ合いながら気持ちをつなぎ合わせる。脚の間に桐生の身体が入り込み、脚に触れた桐生の硬さを感じて、奈々の魔性の部分が目覚めていく。戯れる中で濡らしていくそこに、はめ込まれる指先がゆっくりと中で蠢いて、奈々は瞳を思いっきり閉じた。
「もっと力抜けよ」
 同時に首筋を攻められて耳元を掠めた桐生の声に奈々は大きく息を吐いた。締まり続けていた中を開放し、緩められた脚の力。その隙をぬって指の代わりに入り込んだモノを奈々は息を止めて受け止める。
 引いて押して繰り返される動きが加速していき、潤みを増す中と同じように奈々の表情にも艶めきが乗せられていった。


「あ、んっ……気持ち、いい」
 愛されている最中の女には魔力が潜む。
 桐生もまたそんな奈々の一面を感じ取りながら深みにはまっていく。堕ちていく自分を止められず、欲望のままに己の身体を酷使して抱き続きてしまう。立ち昇る彼女のフェロモンの香りを嗅ぎながら、翻弄されているのは自分だと気づくのだ。
 いつもは清純な自分の恋人の豹変ぶりは怖いほどだ。好きだ、愛してるの言葉では足りないほどの熱い想いを込めて彼女の最奥を求め続けた。
 温かく神秘的な中に身を委ねて、仕事で疲れ切っていることを忘れて腰を振り続けるのはきっと彼女だからなのだろう。

 過去の桐生は、そちら方面は意外に淡白で、関わってきた女性たちからも冷たい男だと称されてきた。自分から求めなくとも相手から求められることが多かったのも理由だが、もうひとつ、それは桐生の幼少期の影響もある。
 実の父、そして年月を置いて実の母に見放されて育った桐生の家庭環境は、普通とはほど遠いものだった。幼い頃に両親が離婚。母親に引き取られたが、その後、再婚した母も小学生だった桐生を置いて家を出て行ってしまった。残されたのは義父と義父の連れ子であった義理の姉、そして再婚後に生まれた父親の違う弟である。
 しかしギャンブルに明け暮れていた義父に生活能力はおろか、子育ての力もなく、代わりに桐生兄弟の面倒を見てくれたのは義父の母、つまり祖母であった。
 それでも生活は苦しく、親戚からの援助で生活してきたのだが、高校生のときに桐生は家を出る。そのときに転がり込んだ家の主が桐生にとって初めての女性であり、彼女と同棲をしながらバイトをして高校に通った経緯があった。
 当時の女性は、愛のためというよりも劣悪な家庭環境から脱したくて求めた相手であり、そんな十代を過ごしてきた桐生が、ごくごく普通の女の子である奈々を好きになるのは自分でも随分思い切った方向転換だと思ったほどだった。
 愛の溢れる家庭で真っ直ぐに育った奈々に初対面から強く惹かれた。奈々は桐生の憧れであり、守りたい存在でもある。抱けば抱くほど返ってくる彼女の愛と包まれるようなやさしさを知ってしまった今、彼女なしでは生きていけないと本気で思うのだった。

「まいったな」
「何が?」
「コントロールが難しい。お前を抱いていると、お前の限界以上のことをしちゃいそうだよ」
「私は構わないです。滅茶苦茶にされてもいい。それくらいの方が愛されているって実感できるし、何もかも忘れて没頭できる……」
 大事にされればされるほど、怖くなる。手に入れたものをすべて失うことを想像してしまう。
 だから力の限り抱いて欲しい。何も考えられなくなるくらいに激しく狂おしく。何度でも構わない。

 様子がおかしい──桐生は奈々の残したセリフの真意を考える。何かをふっ切ろうとする決意を滲ませた発言が彼女らしくない。
 追いつめているのは俺か?
 もちろん、その原因に心当たりがあるわけなのだが、具体的な理由までは考えても分からなかった。逆に奈々の魅惑的な表情を見ていると、それどころではなくなってしまう。
 畜生、ダメだ。
 それよりも今は本能が彼を追い立てて、どうしても律動を優先させてしまう。密着度を増していく中をぐるぐるとかき回すように犯してしまうのだ。
「あぁ!、ダメっ……んっ……」
 可哀想にと思いながら無理なことをしてしまう。彼女の聡明そうな顔が歪み、眉間にも皺が寄っていた。桐生はそれをやわらげようと額にキスをして顔にかかっていた髪をそっとどけてやった。
「奈々?」
「え?」
「辛いときはそう言ってくれないと分からないときもあるんだ」
「辛くないです。……好き、だから何をされてもたぶん平気です。愛してくれるならそれでいいんです」
 涙が出そうになるのを堪え、そんな顔を見られたくない奈々は壁の方に顔だけを向ける。ずっと押し隠していた不安が一気に襲ってきて、やさしくされればされるほど堤防がもろく崩れていった。
 信じているのに、いつか自分が捨てられることを想像してしまう。綺麗じゃない。知識もない。経験だって少ないのだから男性を満足させられているとは思えない。こんな自分のどこがいいのだろうと、しっかりと結ばれているのに思ってしまう。
「こっち向けよ。顔、見せろって」
「……いや」
「なんでだよ?」
「今の顔、ブサイクだから……」
 本当は無理やりにでも正面を向けさせようと思った桐生だったが、少しずつほぐしてやった方がいいだろうと思いとどまる。顔をそむけた奈々の身体が桐生によって、うつ伏せにされた。
「何する気ですか?」
「そんなの決まってるだろ」
 信じられないという意味で言った言葉も、あっさりと無視されて、続きを強いられる。後ろから再び桐生自身が沈み込んできて、うなじ、背中と順番に唇が押し当てられていった。
「ぁ、んっ、……」
 枕に顔を埋めて奈々が悶える。背面を丁寧に愛撫されて、奈々の嘆きが枕に吸い込まれていった。
 こんなときなのに身体は正直に反応し、いつの間にか意識が背中に集中する。唇の感触ひとつひとつに身体が疼く。後ろからやさしく抱かれ、腰のラインを撫でつけられて、その刺激が全身に伝わった。
 熱い塊が抜き差しされ、さっきとは違う角度に枕を抱えて衝撃に耐えた。だけど我慢していた声にも限界がきて……
「あっ、んんっ……」
「我慢とかやめろよな。そういうの、意味ないから。なんのために裸になっているのか分かんねえだろ」
 言葉の選び方とは正反対に、後ろから耳元で囁かれた声はセクシャルな響き。鼓膜に届いた途端に音色のように身体をリラックスさせてくれる。その隙をぬって、奈々の身体が仰向けにさせられ、頭上の桐生と目が合った。
 射抜かれるような視線に胸がドキンとなって、奈々も桐生を見つめ返す。それが合図となって深くキスが落とされて、痺れるようなキスに変わった。

 長い間、キスをしていた。
 桐生は奈々のやわらかい唇を何度も吸いながら大切に抱く。全身をくまなく愛して突き立てて、それを繰り返しながら、愛しい人の限界を超えても欲望はなかなか果ててくれない。
「あ、また……」
 奈々の細い声に桐生の情熱も熱く高まる。
 やっぱり壊してしまいそうだ。そんな怖さを感じながらも桐生は、この夜がまだまだ続くことを予感していた。
「まだ終わらないからな。今夜は覚悟しろよ」
 その言葉に奈々は唖然としながらも、導いてくれるとろけそうな世界に再びはまり出す。やっと解放されたときはすっかり体力が消耗し、呼吸を整えるのが大変なほどだった。


 ◇◆◇


「何かあったのか?」
 乱れたベッドを直したあと、奈々は桐生の腕の中で、その低い声を聞いていた。あの最中に泣きそうだった奈々に気づいているからこそ、桐生はそんな質問をしている。
 奈々は困惑しながらも返事はせずに、桐生の胸に顔を埋めた。
 笠間とふたりきりで夜を過ごしたこと、笠間から桐生と別れるように言われたことが奈々を苦しめているのだが、そのことを知らない桐生は無言を貫く奈々を抱き寄せるしか手立てが見つからない。後頭部を撫でながら、その答えを待つしかなかった。
 もちろん奈々には言いたいことはたくさんある。押し寄せる不安は何度抱かれても消えることはなかった。ただ、今言えることは、彼のそばにいたいということ。変わらずに。
 奈々は桐生に聞こえるか聞こえないかというほどの小さな声で呟いていた。
「帰らないで」
 そう言ったあと、少しだけ抱き寄せる腕に力が入ったように思った奈々だが、思い過ごしなのか勘違いなのか分からないまま。束の間の安心感からか、そのまま瞳を閉じて眠ってしまった。

 翌日の早朝、最初に目覚めたのは奈々だった。隣には桐生の寝顔。奈々にとって桐生の寝顔は滅多に見ることができないために希少価値が高い。いつもの完璧な姿とは違い、隙がありすぎるほど無防備な寝姿を微笑ましく見ていた。
「ふふっ。よく、寝てる」
 閉じた瞼に伸びた長いまつ毛。この奥にある鋭い瞳に見つめられ、いつもドキドキさせられている。でも今日は逆。思う存分、自分の方から見つめることができる。
 すっと手を差し伸べ、桐生の頬を撫でながら溢れてくる感情。
「好き……」
 そう呟いて、そっと桐生の頬にキスをした。この声は届かなくても、きっと分かってくれている、そんな思いを込めて。
「もしかして、催促か?」
 急に声が聞こえ、桐生がニヤニヤとしている。
「えっ!? いつから起きていたんですか?」
「『よく寝てる』と言われるちょっと前」
「最初から起きていたんじゃないですか!」
 さっきの呟きを聞かれてしまったのだと知り、顔を真っ赤にする。
「足りないなら、もう一回してやろうか?」
「へ、変なこと言わないで下さいっ! もう、十分ですから」
 夕べ、あんなに愛してもらえてすごく幸せだった。心も身体も裸にされて、激しく求められて、我を忘れてしまうほど。苦しい思いを抱えながらも、やはり桐生を好きなのだと奈々は改めて思った。
 一緒に朝を迎えられた。一方通行じゃない恋する気持ちに包まれて、ハートがあたたかくなる。こんなに夢中になっている自分がうれしくて仕方がない。

 そんな奈々の様子に桐生は、ひとまず安心だなと胸を撫でおろし、と同時に可愛くて仕方ないという思いで見守っていた。
 この笑顔を守りたいと強く思う。
 人との関わり合いは大切だ。仕事においてもプライベートにおいても避けることも比べることもできないものだと思う。しかし、それは愛する人を泣かせていいということにはならない。桐生は奈々の不安定になる感情をどうにかしてやらなくてはと、秘かに決意をした。
            




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