6.震える瞳(038)

 
 桐生はその朝、始発で帰っていった。
 次にいつ、ふたりきりで会えるのか分からないと思うと、奈々には一抹の不安は残るが、今は信じるしかない。
 そして、土曜日の今日はこれからバイトがある。当たり前だがそこに笠間がいる。今日は11時から18時までのシフトで森や工藤も一緒だが、やはり会いたくはない人だ。

 お店に着くと、森がいつも通り仕事をこなしており、午後から出勤予定の笠間と工藤はまだ来ていない。
 幸いなことに今日はお客様の入りが多かった。これなら笠間を気にすることも少なくてすむだろう。そう考えるとほんの少し気分が落ち着くが、この先ずっとこんな状況が続くのかと思うと、うんざり感は消えてくれない。
 それでも仕事は仕事。奈々は溜め息が出そうな気持ちを必死に隠し、なんとか仕事に取り掛かった。
 しばらくすると工藤が、その少しあとに笠間も出勤してきて、いつものように挨拶をかわす頃、お客様の数もさらに増えていった。

「森くん、ディスプレイの服を全部、取り替えて。はい、これ。本部からの指示書よ」
「分かりました。正面に陳列してある商品も指示書通りに入れ替えておきます」
「お願いね」
 何事もなかったかのように、仕事を開始する笠間に、奈々は少し呆気にとられながらも、その立ち姿はやはり綺麗だと思うし、仕事とプライベートの切り替えができるあたりは自分とは違うのだと感じる。これがきっと社会人、大人の世界なのだと改めて自分の甘さを認識した。
 レジのカウンターでファイルを広げて綴ってある売上データに目を通し、白い指がページをめくっていく。ゆっくりとアンニュイな動作は計算されたように周囲の目を引く力がある。その仕草は儚げな印象を与え、繊細な美しさもあわせ持っていた。
「あっ、おはようございます」
 急に森の声がした。
 レジから少し離れたところで発せられた声に笠間や工藤も視線を移した。もちろん奈々も。
「おはよう」
 低く聞こえたその声は今朝、見送ったばかりの桐生だった。
 それは、憎たらしいくらいに悠然とした態度。来るなら来るって言ってくれればいいのにと奈々は軽く睨みをきかすも、言うだけ無駄だということを思い出す。仕事の話をプライベートでは一切しないというのが桐生のモットーなのだから、こんな突然の登場も彼らしいのだ。
 一瞬、こちらを見た桐生と目が合う。奈々は取りあえず、にこりと微笑んでみるが、それを無表情のまま返されてしまった。
 昨夜の情熱的な態度とは打って変わり、また今朝の無防備な寝顔とも正反対の桐生に、もはや怒る気も失せるというもの。奈々は諦めの溜め息をつくとそのまま仕事へと戻った。

 そして桐生はというと、レジで売上データをチェック中の笠間に近づき、そのファイルを一緒に覗き込んでいた。
 この街は都心に勤める人たちのベッドタウンの役割を果たしており、この店の客層はどちらかというと固定客が多く占める。また、駅から徒歩で30分ほどの立地のために、来店する客の大半は車や自転車での来店となる。つまりターゲットはファミリー層。若い主婦から地元の中高生までと、訪れる年齢層の幅は広い。
「雑貨類を入れてみるか?」
 桐生は売上データを見ながら、思いのほかバッグ類が売れていることに注目。洋服以外の、カジュアルで安い商品の受けがいいのだから雑貨類もいけるのではないかと思ったのだ。
「例えば食器類などのキッチン用品ですか?」
「そういうテナントはこのショッピングセンターに入っていないだろう?」
「まあ、そうですけど」
 『vivid prism』の会社はアパレル商品がメインだが、アクセサリー系の小物、タオルやクッションなどの雑貨類も取り扱っている。大手企業の傘下である会社のため、事業の幅が広いのだ。その強みを生かし、取り扱いの品を増やせば、少し年齢層の高い主婦層の顧客の抱え込みも可能ではないかと桐生は考えていた。
 ちょうど向い側にあるお店はミセスブランド。キッチン用品などを店の前面に押し出せば、物珍しさで立ち寄ってくれるかもしれない。それが好調となれば、アパレル商品も少しミセス向けの系統のものを取り入れるつもりだ。
「どうだ?」
「いいですね。そうなると、場所の確保が必要となりますけど、通路側をなんとか開けてみます。それから陳列用の棚は低めのものがいいですね。店の奥が隠れるといけないので」
「なら、そういう方向で考えてみるか」
「分かりました」
 マネージャーと店長の会話。分かってはいるが、胸に込み上げてくる不快感を拭えない奈々。
 そんな奈々の気持ちをよそに、桐生と笠間は売上データの資料を見ながら打ち合わせに没頭していた。さっき奈々が見とれていた白い指先が、紙の上で動き、それを桐生が目で追う。
 今朝まで奈々だけを見つめていた桐生は、今はここにいない。仕事としての顔は、ときに愛しい人に残酷に映ってしまう。

「あのふたり、やっぱりつき合っているのかな? 禁断の関係?」
 桐生たちを見ながら、工藤が小声で奈々に聞いてきた。
「でも、桐生マネージャーに限って不倫なんて……そういうの、嫌いそうな感じだけど……」
 だが、奈々はうまく言葉が見つからない。違うとも言い切れずに誤魔化してしまった。
「でも、いい感じだよな」
 何気ない工藤の一言が辛く感じる。本当のことを言えない関係に覚えた不満もこのときが初めてだった。
「工藤、ちゃんと仕事しろよ」
 森が珍しく社員らしく注意をしてきた。
「はい。すいません」
 いつにない森のまじめな表情に、工藤は軽く頭を下げると持ち場に戻った。
「すみません」
 工藤だけが注意を受けたのが申し訳ないと思った奈々は、森に謝る。
「いや、あれは工藤が悪いんだ。それに桐生マネージャーがふたりを見ていたから、社員として注意しておいた方がいいかなと思って」
「見られていました? まずいな」
「大丈夫だよ。俺が注意をしたから、あとから桐生マネージャーから叱られることはないから。それより工藤の言うことは聞き流した方がいいよ。あれ全部、工藤の妄想だから」
「……はい。分かっています」
 苦笑いしながら奈々は答えた。別に桐生との関係を知っていて声を掛けてくれたわけでもないはずなのに、やさしく笑う森に少しだけ励まされた。
「それとも桐生マネージャーたちのことが気になる? さっき、そんな様子だったから」
 まじめだった森の表情が急に変わる。眉がピクリと動いて、いたずらっ子のように瞳を輝かせた。
「まさか! そんなことないですよ。ただ何を深刻そうに話しているのかなと思って見ていただけです」
 奈々は大慌てで弁解をした。
「でも目が切なそうに潤んでいるけど?」
「それは、たぶん寝不足で目が疲れているからです。夕べ、あんまり眠れなくて……」
 奈々は昨日の夜のことを思い出し、ほんのりと顔を赤らめてしまう。
「へえ。眠れなかったんだ」
「え、ええ……昔から、睡眠は浅い方で……」
 奈々は必死に誤魔化そうとするが、森は逆に疑わしい顔で見つめる。森が何か知っているのではないかと感じずにいられない。
 それとも崇宏が森にしゃべってしまったのだろうか。でも桐生と親しい崇宏がそんなことをするはずはない。
 まさか、森さん……?
「話だったらいつでも聞くよ」
 すべてを見透かしたような爆弾的セリフを投下されたまま、奈々はポツンと取り残されてしまった。意味深過ぎて森らしくない。奈々は森の人当たりの良さそうな丸顔を眺めながら、そういうキャラだったかなと眉をひそめた。


 忙しい土曜日の午後は、あっという間に時間が過ぎるように感じる。
 夕方6時、奈々は上がりの時間になり、店をあとにする。家に帰る途中にスーパーに寄り食材を買い込むと、急いで家に帰った。
 家に帰ると早速、ふたり分の料理に取り掛かる。昨日の今日で会える可能性の方が少ないのだが、もしかすると桐生が今日も来るかもしれないという淡い期待があって、夕飯を作ろうと思ったのだ。
 桐生はあの様子だと、ラストまでお店にいるつもりだろう。閉店は夜の9時。とりあえず、その頃に電話をしてみようと考えていた。
 そして、テレビを見ながらだらだらと過ごしていると、もうすぐ夜の8時45分。奈々はバッグの中の携帯を探した。もしかするとメールがきているかもと少し期待をしていた。奈々の住むマンションは駅に行く通り道にある。寄らない方が不自然なのだ。
「あれ? どこいったんだろう?」
 だけど、なかなか携帯が見つからない。バイトが終わってから携帯を見ていないのでバッグに入っているはずだった。しかし、バッグの中身を床の上に広げたが、携帯だけがなかった。
「どこで落としたんだろう?」
 バイトがはじまる前は確かにバッグに入っていた。お店に着く直前に時間を確認したから間違いない。だとしたら……
「あっ!!」
 そういえばと、トイレ休憩に行くときに店のロッカーの中にしまってあるバッグの中から化粧ポーチを取り出したことを思い出した。もしかすると、そのときに携帯だけバッグから落ちてしまったのかもしれない。だとしたらロッカーの中にあるはず。
 そう考えた奈々は床に広げたバッグの中身を急いで元に戻してマンションを出た。

 笠間店長たちは、まだお店にいるのだろうか。
 時刻は夜の9時を過ぎていた。
 ショッピングセンターに着くと、入口で守衛さんに声を掛けて、お店のフロアへ急いだ。従業員用エレベーターに乗り、お店のあるフロアで降りると、すでにフロア全体の照明が落とされていた。ほかのテナントもすべてお店を閉めており、スタッフの姿はなかった。
 やっぱり帰ってしまったよね。
 桐生とも、すれ違ってしまったのだと奈々は落胆するも、携帯の履歴に桐生の名前があるかもしれないと期待して、ゆっくりとお店に向かって歩み進めた。
 夜間用の照明がうっすら照らすフロアは思ったよりも明るい。人気がないわりにはそれほど怖くなかった。
「……え?」
 だけど少しずつお店に近づくと、店の柱の影に見えた人影。誰かいる。最初はひとりに見えた人影がふたりだと気づいたとき、奈々の足はその場で動かなくなった。
 そこにいたのは紛れもなく桐生と笠間だったからだ。しかも、彼らを隔てる距離は無いに等しい。つまりふたりは密着中。桐生の腕が笠間の背中に確かにまわされていた。
 人が抱きあっている姿を初めて見た。映画のワンシーンのように無言のまま抱き合う様子は、本当にドキドキして言葉にならない。
 だけど、そこにいるのがどうして自分の恋人なのだろうと、奈々の胸に激しい痛みが襲った。
 信じたくない。きっとあの人たちは自分とは関係のない赤の他人、知らない人に違いない。
 だけど震える瞳からは、勝手に涙が流れ落ちる。数日前の夜のふたりの寄りそう姿がフラッシュバックする。
 彼女を抱いたの?
 そう思ってしまった瞬間に奈々の全身の力が抜けて、肩にかけていたバッグの持ち手が、どさっと肩から外れた。
 その音で、桐生と笠間が奈々に気づく。
「お前、どうして……」
 驚きと戸惑いの桐生の表情を見て、奈々は思った。もしかして、あのふたりの邪魔をしているのは私なのだろうか。
 だけど、信じていた。どうしようもない理由があって、マンションの部屋でふたりきりになったのだと思っていた。だから、今、目の前にあるのは裏切りにしか見えない。
 その瞬間、奈々の純粋な思いが粉々に砕け散った。ヒビだらけだったガラスが一瞬で形を失くし、もう、元に戻れない。
「信じていたのに……」
 かろうじて手の平で止まったバッグの持ち手をぎゅっと握り締め、いたたまれなくなった奈々は、その場から走り出した。
            




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