7.あなたの隣に(039)

 
  何も見えなくなって見失って……

 それでもあなたを捜し続けたの

 一緒がいい

 この道をともに歩むのは、あなたがいい

 あなたでなくては、ならないの


 ◇◆◇


「待てよ! 奈々!」
 走りながら聞こえてきた桐生の声。だが、奈々はそれを無視して走り続ける。
 従業員用のエレベーターのボタンを押すと、すっとエレベーターのドアが開き、そこに乗り込むと、急いで『閉』のボタンを押す。早く動いてと何度も何度も無意味に押した。
 やがてエレベーターは1階に到着。外へ出ると、ちょうど来たバスに飛び乗った。

 駅へ向かうバスの中で涙を拭う。どこへ行こうとしているのか自分でも分からない。でも、あのまま走ってマンションまで帰ろうとしても、途中で桐生に追いつかれるような気がしたので、咄嗟にバスに乗ったのだった。
 今となっては、そこまでして桐生が追いかけて来てくれたのかは分からないが、ただ自分を惨めに思い、とにかく、ひとりになりたかった。
 そして、何よりも桐生に言葉をかけられることが怖かった。自分ではなく笠間を選ぶと告げられるかもしれない恐怖。
 あの日のふたりが再び蘇る。泣いている笠間をやさしく導く桐生を。
「もう、やだ……」
 怖くて怖くて、どうしようもない。彼はやさしいから、彼女を選ぶこともあるだろう。例え、彼女が結婚していようとも。そういう人なんだ、彼は。
 だけど、まだそんな覚悟ができない。失うことは考えられない。


 ◇◆◇


 あてもなく歩いていた。今、何時なのだろうと思ったが、時計を持っていないし、携帯電話もバイト先に置き忘れたまま。
 あれから終点の駅前でバスを降りたものの、行くところもなく、だからといってあのまま駅から家に帰っても、桐生がマンションの前で待っているかもしれないと思うと帰ることができなかった。
 だんだんと冷静さを取り戻し、涙もおさまっていた。取りあえず、どこかお店にでも入ろう。このままひとりで歩き回るのも危険だ。
 そう思い直して駅前に行こうすると一台の車がゆっくりと奈々の横を通り過ぎる。不自然に減速した車は、まるで奈々のあとを付けているようで、緊張を覚えた。
 辺りは暗い。ほかに歩いている人もいない。奈々はとにかく車が通り過ぎるのを待とうと立ち止まる。歩いて来た道を戻ろうと思った。道幅は狭く、どうせ車はすぐにUターンできない。その隙にどうにか逃げきろうと思ったのだが……
 そのとき、怪しげな車の助手席側の窓が開いた。
 嘘……どうしよう。
 息を飲み、じっとその窓を見つめた。助手席には誰も乗っていなかったが、恐怖の深さは変わらない。バクバクする心臓。今にも駆け出してしまいたかった。
 桐生の顔が浮かぶ。助けてと心の中で何度も叫ぶ。こんなことになるなら諦めてマンションに帰るべきだった。桐生が待っていたとしても振り切るなり、話し合いを別な日にしてもらうなりできたのだと後悔していた。
 そして、ひたすら考えるのは携帯電話もない状態で、どうやって助けを求めたらいいのかとそのことだった。
 だけど……
「奈々ちゃん?」
 奈々を呼ぶ声が車の中から聞こえた。その声にハッっとする。
「達也くん?」
「よかった。会えて」
 どうしてここに? そう思いながら、安心感から、さっきまで止まっていた涙が再び溢れ出した。達哉は急に泣き出した奈々を見て、慌てて車から降りた。
「ごめん。驚かせちゃったかな?」
 そして奈々を抱き寄せる。奈々はただ泣くことしかできず、達哉はおどおどするばかり。
「本当にごめん。俺の車、見覚えなかった? 分かるかなあと思って近づいてみたんだけど」
 それでも泣きながら達哉の胸に顔を埋める奈々。達哉の抱きしめる強さは、さらに強くなった。
「ずっと電話していたんだけど、つながらなかったから。バイトかなと思ったんだけど、長い時間、音信不通なんて初めてだろう。だから、心配になっちゃってさ。なんか、ごめんね。俺、うっとうしくて」
 努めて明るく接しようとする達哉に、奈々もようやく顔を上げる。
 泣いてばかりだなんて達哉に申し訳ない。車が近づいてきたのは怖かったけど、どちらにしてもひとりでこんな場所を歩いていること事態、心細くて仕方がなかった。だから、むしろ達哉に会えてよかったのだ。
「電話に出られなくてごめんなさい」
 奈々は達哉から身体を離す。気持ちもだいぶ落ち着いてきた。
「家まで送るよ」
 達哉はそう言うと、助手席のドアを開ける。しかし『家まで送る』という言葉に奈々は躊躇う。今帰ると桐生がいるかもしれない。
「どうしたの?」
「家には、しばらく帰りたくないの」
「分かった。じゃあ、適当にドライブでも行こうか」
 達哉の言葉に甘えて車に乗ると、助手席のドアが閉められた。どこまでも紳士的な達哉に、どんどん肩身が狭くなっていく思いだった。

 運転席に乗り込んできた達哉は、そのまま何も言わずに車を発進させた。どうして奈々がこんな夜遅くにひとりで歩いていたのか、どうしてマンションに帰りたくないと言ったのか。達哉は、何も理由を尋ねてこない。
 ほのかに香る芳香剤が漂う車内で、奈々は無言で窓の外を眺めていた。だんだんと街のネオンが少なくなっていった。車を走らせてから、それなりの時間が経過していた。だいぶ、遠くまで来たようだ。
「ちょっと待ってて。すぐに戻るから」
 達哉は車を駐車させると、車を降りてどこかへ駆けて行く。
 奈々はその行方を見守るように周りを見渡した。辺りはほぼ真っ暗で、車を停めた周辺に外灯がちらほら点いている。どうやら、駐車場のようだった。
 知らない場所。来る途中、山道のようなカーブの多い道を走ってきた。だが、ここは道路沿いで地面もアスファルトで覆われている。周囲も柵のようなもので囲まれており、変な場所ではなさそうだ。

 しばらくすると達哉が戻って来た。
「お待たせ。どっちがいい?」
 見ると、缶コーヒーとレモンティが手の中にある。奈々はレモンティを選んで手に取った。
「あったかい」
 温かい缶からは達哉のやさしさも一緒に伝わってくるようだった。
「ごめんね。家に帰りたくないなんて、我儘を言って」
「気にしなくていいよ。俺としては、こうしてドライブができてラッキーだと思っているから」
「ラッキーなんかじゃないよ。こんな私につき合わされてアンラッキーだよ」
「俺にとってがそうなんだから。否定するなよ」
 そう言いながら奈々を見る達哉はやっぱりやさしい笑顔で、奈々もつられて顔がほころんだ。達哉のおかげで、さっきまでどんよりとしていた車内の空気が、ようやく晴れやかになった。

「それよりここはどこなの?」
 気持ちを持ち直した奈々は話題を変える。
「人工湖だよ。それ以外に何もないんだけど、景色はいいんだ。もっとも今は真っ暗でなんにも見えないけど」
 この場所は標高が少し高い。車で走っていたときも、ずっと上り坂だった。
 管理事務所のような建物が離れた場所に建っているのがなんとなく分かる。おそらく、ここは山を切り崩して整地したような場所。夜間には、ほとんど人が立ち入らないほどに寂しげだった。けれど、そこに達哉とふたりきりでいても、不思議と危機感はない。
 カチッと達哉が缶コーヒーのプルタブを開ける。その音を聞いて、奈々もレモンティを開けて口に含んだ。達哉の飲んでいるコーヒーの香りがほんのりと漂ってくる。
 いつも思う。達哉は人を和ませる力のある人だと。みんな達哉に惹かれる。前にバーベキューに行ったときもそうだった。彼は女の子の憧れの的で、みんなの中心的な存在。そんな達哉なのに、わざわざ誕生日を調べてお祝いをしてくれるほどに興味を持ってくれるのが、奈々は不思議でたまらなかった。
 だけど実際、そんなことはどうでもいい。その前に達哉には伝えないといけないことがあるのだ。
「達哉くん。今日はいろいろありがとう。それから理由も聞かないでくれて。実は私、今、つき合っている人がいるの。誕生日のお祝いをしてもらったあとに──」
「知ってる」
 奈々の言葉を遮って達哉が言う。さっきまでの穏やかな笑顔が一変した。
「え?」
「直人から聞いたから。俺ってほんと、タイミング悪い男だよね」
「そっか」
 ふたりは仲のいい友達だ。直人がそれを達也に言わないはずはない。
「弥生ちゃんから、奈々ちゃんが彼氏と別れたばかりだって聞いていたんだ。だから俺、遠慮していたんだけど。まさか直人に先を越されるとはな」
「そのことも聞いたの?」
「うん。本当だったら直人をぶん殴ってやりたいところだけど。その前に、奈々ちゃん、彼氏いるんだもんな。あいつを殴っても意味ないし」
 缶コーヒーを片手に運転席のハンドルにもたれかかった達哉は、大きく溜め息をついた。そして、気合いを入れ直すように奈々の方に身体ごと向けて続けた。
「だけど、俺、もう遠慮はしないよ。奈々ちゃんがこんなときだけど、チャンスだと思っているから。何があったか知らないけど、奈々ちゃんを泣かせて、ひとりにさせる男なんかやめろよ」
 達哉の言葉をじっくりと噛み締める奈々。しかしその答えは……
「達哉くん……ごめんなさい。私は、……」
「俺だったらひとりにさせないよ」
「達哉くん……」
 いつもと違う達也。いつもの彼だったら、そこで遠慮するのだが、今日はそうではない。強引に攻めの姿勢に入る。
 達哉もそれだけ思い詰めていた。脈がないと感じて諦めるべきかと悩んでいたが、直人から一連の事実を聞き、突き進まないわけにいかないと思った。桐生の存在を知り、達哉の闘争心に逆に火がついたのだ。
「俺じゃ、駄目かな」
「でも、私には──」
「そいつをやめて俺にしろって言ってるんだ」
「そんな……」
 ここまで張りつめた達也の顔は今まで見たことがない。奈々は視線を逸らすこともできず、それ以上言葉も続かなかった。

 静寂と闇につつまれた空間。強引な達哉にのまれそうで怖い。このまま達哉を頼ってしまいそうだと思った。
 ──だけど私は今、桐生マネージャーとも達哉くんとも向き合っていない
 桐生のもとから逃げ出した上に、達哉の気持ちに甘えて、はっきり返事を言わないまま。それに気づき、罪悪感から項垂れる奈々。その頭の上を、達哉の手が覆った。ゆっくりと気持ちを和らげるように撫でている。

「ごめん。奈々ちゃんが弱っているときに、こんなことを言うつもりなかったんだけど」
「謝らないで。気持ちはすごくうれしいの。それに、今日だって私のことを捜してくれたんでしょう? 連絡がつかないくらいで普通、そこまでしないよ」
「でもしつこくない?」
「そんなふうに思ってないよ。達哉くんだからかな。誕生日に誘われたときは正直戸惑っていたけど、今はそういう気持ちはないの。すごく感謝してる。ありがとう」
 今言える精一杯の言葉。もっと強かったら。愛する人と正面を向き合う勇気があったなら、きっと達哉をここまで振り回すことはなかったのだろう。
「それが答えだと思いたくないな」
「ごめん──」
「もうそれ以上言わなくていいよ。分かっているから。でも俺も正直に言うね。奈々ちゃんが俺のことを迷惑がっていたのはなんとなく感じていたよ。だけど諦められないんだ。彼氏がいても、俺にまだチャンスが残っていないか考えている」
 熱烈な愛の告白。ストレート過ぎて逆に気持ちがいいくらい。
 だけど、違うのだ。奈々の気持ちは揺らぐことなく、魂が求めているのはやはり桐生。
『待てよ! 奈々!』
 桐生の呼び止めた声が思い起こされる。彼は間違いなく自分を追いかけて来てくれた。
 それを思い出し、奈々は葛藤の中にいた。無性に会いたくて仕方ない。けれど、どんな結末が待っているのかと考えると身がすくんでしまう。
            




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