7.あなたの隣に(040)

 
「そろそろ帰ろうか。もう、こんな時間だし、帰らないわけにいかないだろう?」
 車の時計は夜の11時半を過ぎていた。奈々は観念して頷く。
 終電の時間は過ぎている。さすがに桐生もマンションで待っていることはないだろう。達哉は車を発進させた。

「電話に出られなかった理由なんだけど。実は携帯をバイト先に忘れちゃったみたいなんだ」
「そうだったんだ。でも携帯がつながらないと心配だな。何かあってもすぐに連絡が取れないだろう?」
「大丈夫。明日もバイトだから。明日にはつながるよ」
 桐生も電話をくれているのだろうか。忙しい人なのに、さんざん捜させてしまったに違いない。疲れていないかと、逆に心配になってしまう。
 奈々がお店に携帯を忘れていることを桐生は知らない。マンションに帰ったら公衆電話から電話をしてみようと思った奈々だが、笠間も一緒だったらと思うと、それも勇気がいる。
「どうかした?」
 沈んだ様子なのをさっそく達哉に気づかれた奈々は「ううん」と意識的に口角を上げて誤魔化すが、上辺だけの笑顔は長くは続かない。結局、最後まで達哉に心配されるのだった。

 そうして、車が奈々のマンションの前に着いた。
「部屋まで送るよ」
 車のエンジンを止めた達也がシートベルトを外した。夜の12時を過ぎていたため、断っても達哉は許してくれないと思った奈々はその言葉に素直に従った。
 しかし、エレベーターに乗り、奈々の部屋のある階で降りると、長く続く廊下の向こうに人影が見え、ふたりは立ち止まる。
「もしかして彼氏?」
 達哉が尋ねた。
「うん」
 奈々の部屋の前で壁に寄りかかった格好で、桐生がそこにいた。物音で桐生も奈々たちに気づいたようで、桐生の方からふたりに歩み寄って行った。
「お前、今までどこに行っていたんだよ!? 何度、電話したと思っているんだっ!」
 いきなり怒鳴りつける桐生の声がフロア中に響いた。珍しく冷静さを失っており、周囲への迷惑なんてものは微塵も考えていない様子である。
 奈々はその様子を見ながら胸が痛くなる思いだった。やはり捜しまわってくれていたのだと、怒鳴られながらも反省の気持ちが生まれる。
 だが達哉はそう捉えていないようで、奈々を庇うように前に身を乗り出し、桐生に向かって言葉を放つ。
「そんなきつい言い方をしないでやって下さい。彼女、傷ついているんですよ。それに、こんな時間にそんな大声を出したら近所迷惑ですよ」
 一瞬、達哉を睨む桐生。当然、男と一緒にいることが気に食わない。奈々が達哉を呼び出したのかと考えるが、無事に家まで送り届けてくれたのだからよしとしようと考え、冷静さを取り戻した。
「悪かった、つい……」
「分かってくれたならいいんです。俺も、あなたと喧嘩をしたいと思っているわけではないですから」
「よかったよ。お前がまともな奴で」
「まとも? それはどっちの意味ですか? 大声を制止したことですか? それとも下心をむき出しにして彼女の部屋に上がり込む男ではなかったことですか?」
「後者に決まってるだろ」
「ははっ。顔に似合わず正直なんですね。ということは、彼女ときちんと話し合おうという気持ちなんですね」
「ああ。だけど、先に言っておく。俺は、あいつを手放すつもりはない」
 桐生の自信満々な声に達哉は苦笑いする。想像していたよりも手強いなと思いながら、今日のところは手を引こうと思った。
「じゃあ、俺は帰ります。悔しいけど、あとはふたりでよく話し合って下さい」
「奈々が迷惑かけて悪かったな」
「いいえ。こういうの、俺はいつでも大歓迎ですから」
 達哉は最後にそう言い残して帰っていった。
 その顔は真顔。桐生は達哉の真剣な気持ちを感じ取っていた。

「早く」
「え?」
「早く鍵を開けろ」
「あ、はい」
 桐生と達哉のやり取りを茫然と聞いていた奈々は、突然、促されて慌ててしまう。気が立っている桐生にじゃっかん怯えながら部屋まで歩き、施錠を解除し、ドアを開けた。
「どうぞ」
 そう言ってドアを開けた状態で桐生を見ると、桐生は奈々の背中に手をまわして先に部屋に入れ、自分もすぐあとから入っていった。
 部屋に上がった桐生は、奈々の腕を掴んで引っ張る。よたつく奈々にお構いなしというような強引さ。それから彼女を抱え込むようにしてベッドの上へ。
 奈々の目の前の視界が揺らいで、あっと思った瞬間──
 乱暴にベッドに押し倒された割には、その身体は桐生の腕に守られていて、思ったほどの衝撃はない。いきなり、こんな状態にさせられて目を見開く奈々だが、桐生の動きはそこでピタッと止まった。
 そして見下ろされる。乱れた髪を軽く整えられて、至近距離で見つめ合うふたりの間にあるのは、怒りと怯え──ではなくて、相手を思い合う心。さきほどまでの怒りの形相からは考えられないほどの穏やかな桐生の顔がそこにあった。
「心配した。無事でよかった。何かあったらと考えて、生きた心地がしなかったよ」
「……ごめんなさい」
「どこに行ってた?」
「バスで駅まで行って、それからは……」
「さっきの男と一緒だったってことか。で、なんであいつと一緒にいたんだ?」
「偶然に会ったの」
「何してた?」
「それは……」
「……なるほどね」
「まだ何も言ってない」
「どうせ口説かれでもしたんだろう?」
「……」
「ほら図星だろ」
 桐生がニヤリと笑みを浮かべる。
 悔しいが、そんな意地悪な笑みも魅力的だと思ってしまう。降り注ぐ眼差しに見守られながら、奈々も微笑んで頷いた。
「なぁ? あいつに何もされなかっただろうな?」
「ないです」
 大きく首を振った。
「こんなこともされなかったか?」
 ゆっくりと唇が近づいてくる。奈々はそれが重なる前に瞳を閉じた。
 深く重なる唇。交わす言葉の代わりに、キスでお互いの気持ちを通い合わせた。奈々は桐生の首に腕を絡ませながら、ようやく求めていた人に求めてもらっている今を存分に味わっていた。
 そして巻き起こるキスの嵐。桐生は、奈々の負担にならないように両肘で体重を支え、彼女を労わるように大切に唇を合わせていた。

「なんで電話に出なかった?」
 ようやく唇が離れ、桐生が尋ねる。
「あっ、それは……」
 奈々はどう言えばいいのか迷った。携帯を取りに行ったら、あなたが笠間店長と抱き合っていたんです、なんて言いにくい。
「ん?」
 何か言いたげな奈々に、やさしく問いかける声。だが、奈々は、あのときの光景が重なると、涙腺がどうしても耐えられなくて、その大きな瞳はすでに潤んでしまっていた。
「携帯……お店に忘れちゃって……」
 それしか言えなかった。しかし、それだけで桐生はすべてを理解した。
「あれは、笠間店長が取り乱していて、それをなだめていただけだから」
「何かあったんですか?」
 それは離婚のこと? それとも、よりを戻したいという話だろうか。
「まぁ、家庭内のことだな。本人のプライベートのことだから、俺の口から言うわけにはいかない。悪いな」
 歯切れの悪い言い方に、もやもや感が残る。
「そうやって、私に隠そうとしないで下さい。笠間店長は、ずっと桐生マネージャーのことが忘れられなかったんですよね? だから、旦那さんと離婚することを考えているんだって言っていました」
「あいつ、お前にそこまで話していたのか」
「全部、聞きました。本当は、旦那さんに家庭に入って欲しいと言われて、仕事を辞める決意をしたのに、それでも桐生マネージャーを諦められなくて、思い悩んでいるみたいでした」
 上司として、仕事の相談を受けなくてはいけないのは仕方がない。でも、ここまでくると違うような気がする。
 私はもう、我慢しなくてもいいかな?
「だから教えて欲しいんです。桐生マネージャーにとって、仕事の範囲はどこまでなんですか? 自分のマンションの部屋で励ますことも仕事なんですか?」
「奈々……まさか……」
「もう、嘘は嫌。誤魔化しもいらない」
 ベッドに横たわり、下から見上げる奈々の目尻から、とうとう涙が零れ落ちた。けれど、言いたくて胸の中に溜めていた思いを、やっと正直にぶつけることができた。
「お願い、嘘だけは嫌なの……」
 もし、万が一、他の女性を見捨てられないと思うのなら、ちゃんと言って欲しい。重荷にだけはなりたくない。子供みたいに拗ねる自分を持て余して一緒にいるのなら、それはすごく残酷なことだから。

 桐生の喉仏が少しだけ動いた。
 しかし、沈黙は続く。その沈黙がふたりの間に緊張を生み、奈々の鼻を啜る音としゃくりあげる声だけが聞こえる。悲しい響きが部屋中を覆っていた。

「ごめんな。そこまで我慢させていたなんて」
 ようやく声にできた桐生は、指先で、奈々の零れ落ちた涙をすくい取る。その感触を心でも感じ、ようやく奈々がぎりぎりのところで踏ん張っていたのだと気づいた。
 笠間を部屋にあげてしまった夜、奈々はすべてを見ていた。それなのに、奈々に間抜けな嘘をついて誤魔化した。そんな自分に耐えていてくれていたのだと、笠間の背中にまわしてしまった己の手の平を固く握り、その拳を壁に叩きつけたい気持ちだった。
「全部、正直に話すよ。仕事だと言い訳したけど、本当は知られたくなかったのかもしれない」
「それはやましいことがあるからですか?」
「やましいというか、あいつの気持ちが俺に向いているのは分かっていたから、それをできるだけお前に感じさせたくなかったんだ。言い争いになるのが嫌だったし、何よりお前、遠慮するだろう?」
「笠間店長に桐生マネージャーを譲る気なんてないです。それだけは絶対にしたくなかったです」
 桐生は今までのことを思い巡らせ、奈々の強い主張に自分の行動の浅はかさを思い知る。全部包み隠さずに話すべきだったのだ。そうしていれば、少なくとも、こんなにも傷を負わせることはなかった。

 桐生は奈々の上からゆっくりと退いた。それから奈々の身体を起こすと、ベッドの上で向かい合わせに座り直し、伸ばした右手で奈々のやわらかくすべすべとした頬を撫でた。
 桐生は、張り裂けるように溢れてくる愛おしさに身を焦がしながら言葉にできないでいた。奈々もそれを感じてか、濡れた睫毛を瞬かせ、必死に桐生を見つめた。
「お前のその目。初めて会ったときもそうだった」
 頬に手を添えたまま、桐生が唐突にそんなことを言った。ポカンとする奈々に桐生は続ける。
「何事にも、まっすぐに突き進むところ。そこが奈々の武器だよな」
「それ、褒め言葉ですか?」
「そうだよ。ガツガツしてないんだけど、自分なりに一生懸命にいろいろなことを考えている。芯があって、ぶれない性格は安心できるんだ。でも、逆に離れられてしまうと二度と取り戻せないんじゃないかという怖さに変わる。今日がそうだった」
「怖い? 桐生マネージャーが?」
 いつだって怯えていたのは自分の方なのにと、なんだか信じられなかった。だけど、桐生の大きな手の平はかすかに震えている。奈々はそれを肌で感じながら、自分と同じ気持ちだったのだと、心がぽっとあったかくなるような感覚を覚えていた。
「お前に会いたかったけど、会ったら会ったで別れ話をされるのかと思っていたから、会うのが怖かった」
「意外です。桐生マネージャーがそんなことを言うなんて。怖かったのは私の方なのに。笠間店長を選ぶかもしれないって、ずっとそんなことばかり考えていたんです」
「あいつとは遠距離になってお互い仕事を優先して別れたけど、別れてもうだいぶ経つし、俺には未練はまったく無い。確かに、あいつが結婚して、こっちに戻って来ると知ったときは正直、動揺したけど、それは違う意味だよ。あいつが何を言ってこようと俺には関係ない」
「じゃあ、どうしてお部屋に笠間店長を入れたんですか?」
「あれは俺が家に帰ろうとしたときに、駅であいつが待っていたからだよ。帰れと言ったけどその場で泣き出すから。人目もあるし、連れて帰るしかなかった。でも泣き止んで落ち着いたあと、すぐに家まで送り届けてやったし、やましいことは何もない」
 ほんの一瞬、疑った。お店で笠間と抱き合っていたあのときに。混乱して、それまで信じてきたものが粉々になってしまったから。でも、やっぱりそうじゃなかった。
「お前以外の女に興味ねえよ」
 奈々は、桐生が泣いている笠間を冷たくあしらうことができる人じゃないということを知っていたからこそ、不安の度合いが大きくなっていった。表面上はクールなのに心はそうじゃない。誰よりも情熱的で、愛情深い人。
「信じます」
 悩み続けていた日々からようやく解放されて、時が再び刻みはじめる。取り残されていたような疎外の境地からようやく引き上げられて、こうやって顔を見合わせて向き合うことができた。
「よかった。別れなくていいんですよね」
 泣き笑いの顔に、桐生が軽く噴き出した。
「そのセリフ、俺の方だから。辛い思いをさせてごめんな」
「私の方こそ、何も確かめずに勝手に誤解していたんです。それに、今日もちゃんと話を聞こうとしなかったのは私の方です。ずっと捜していてくれてありがとう」
 奈々も精一杯、桐生に思いを返す。
 ぐっと引き寄せられるままに身をまかせ、膝の上に抱え上げられる。その体勢で抱きつくと、桐生の肩の上に顎が乗る。奈々は甘えるように、ゆっくりと桐生の首筋に顔を埋めた。
 包まれていく温もりと匂いの中に、明るく輝く自分の居場所を探し出す。そこで、プリズムの光に似た粒子をたくさん浴びてパワーを充電。ここはそんな場所。
 あなたの存在が私の生きる糧になる。
 私は私らしく輝けているかな?
            




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