7.あなたの隣に(041)

 
 瞬く間に時が過ぎてゆく。窓から入り込む、ほのかな白い光が、ベッドの上で交わるふたりを包み込んでいた。
 フローリングの床には脱ぎ散らかされた衣服がふたり分。大急ぎで脱いで脱がされて、くしゃくしゃになって散乱していた。
「もう何があっても逃げるのは無しだ」
 桐生は真正面にある奈々の唇に親指を添えて囁く。
 奈々の艶のあるリップを左から右になぞり、もう一度そこにキスをする。「返事は?」と上唇を挟みながら尋ねると、奈々は少しだけ口角を上げて楽しそうに二コリとした。
「ちゃんと返事しないと、もう二度と追いかけてやらないぞ」
「それは、……や、だ……」
 キスの合間に答える。
 だけど、逃げても逃げても追ってくる唇に苦しくなって、これ以上はダメと胸を押し返すと、その反動でシーツの上に転がされた。
「また逃げる気かよ?」
 上から言葉が落ちてくる。
「そうではなくて。いつでも追いかけて来て欲しいと思うものなんです。女の子は」
「面倒くせーな。女って」
 桐生はそう言いながらも、どうせ追いかけてしまうのだと、自分のことだからなんとなく分かる。それに抱き締めていても、ちょっと目を離した隙にすり抜けてしまいそうだから危なっかしい。とても放ってはおけない女だなと自分の溺愛ぶりがおかしくてたまらなかった。
 こんなにも深く人を愛することが自分にもできたのだと、記憶にある二十数年の人生を振り返りながら、この先もこいつとだけは一緒にいたいと強く思うのだった。
 ふたりでいるときに感じる幸せが無敵だと思うのは、それがふたり分だからで、人間はひとりでは生きていけないと痛感するのは、ふたり分の幸せを感じたとき。相手の幸せを本気で願い、大切にしたいと心に誓う。

 奈々の背中の下に手を差し込んで、桐生がその胸で甘えていた。年の差があっても目の前にいるのはひとりの女。色気は十分過ぎるくらいに備わっていて夢中にならずにはいられない。
 ふたつの胸の膨らみを余すことなく愉しんで、彼女の口から洩れる官能的な声を引き出していく。
「あ、んっ……」
 彼女の声が好きだ。普段もソプラノの透き通るような伸びの良い音が、いつも耳に心地よく届く。
 彼女の聡明さが声によくあらわれているように思った。初めて会ったときもそう思ったのだ。
「奈々、好きだよ。好きで好きでたまらない。だから、もう何も気にするな。心配することは何もないから」
「……うん」
「ついでに言うと、あの男にも渡さないから」
「それこそ心配する必要なんてないのに……」
「お前にその気がなくても、あいつがそうじゃないんだ。男は力ずくで手に入れようと思えばできなくもない」
「達哉くんはそんな人じゃない」
「そうかもな。まあ、どっちにしても俺が牽制しておいたから手出しはできないと思うけど」
 奈々の中にさっきよりも深く身を沈めていく。腰を揺らしながら彼女の身も心も支配できたという男としての喜びを一際高めて、快楽に顔を歪ませる彼女にさらに興奮していた。
「はぁ、どうしよう……すごく感じる」
「感じるなら困ることはないだろう」
「でも、もたないかも……」
「俺だったらお前を何度でも満たすことができるよ」
 桐生の言葉に奈々は安心して身を委ねる。思うがまま。自信満々で、一歩間違うと傲慢でくさいセリフも、彼が言うとそうなのだと思えてしまう。
 そして、さっきよりも締めつけが強くなったのを感じた桐生は、自分もその準備に入る。いくときは一緒にという奈々の切望を聞き入れて、目的の場所まで彼女を導いた。
 何か言いたげな瞳の動きを読み取ると、身体を倒してキスをしながら奈々の舌を追いかけた。捕まえて吸ってまた絡めて。桐生の背中にまわした奈々の指先に力が入った。
 彼女も同じように感じている。そのことを思うだけで桐生は満足で、もっと彼女を感じさせたい、何度でも絶頂の果てを味あわせたいと蜜が充満する中で自身を暴れさせた。
「あぁっ! 強すぎる!」
 そんな叫び声が聞こえた刹那。さっきよりも大きく脚を開かせて奥をめがけた。欲望が吐き出される時間は長く静かに続き、その間、桐生は奈々をきつく抱き締めていた。離れたくない一心で。


 ◇◆◇


「抜け出せなくなりそう」
 桐生の腕を枕代わりに。奈々は寄り添いながら言う。
「どこから?」
「恋人同士になってしまうと会うだけでは物足りなくなってしまうのは、いやらしいかな?」
「それは男にとっては最高の褒め言葉だな。でも、俺もそうだよ。それ目的というわけじゃないけど、会えばどうしても抱きたくなるよ」
「同じで安心しました。こういうことを考えちゃうの、たぶん初めてで……今までそんなふうに思ったことがなかったような気がするから」
 優輝のときはどうだっただろうと考えを巡らせていた奈々。以前は、どちらかと言えば、身体のつながりよりも、交わす言葉や一緒にいる時間を重視していたように思う。好きだから一緒にいたいと思う。だから、共有する時間の長さが大切だと思い込んでいた。
「こうしていると、そういうことも大切なんだなあって思います」
 触れ合う肌と肌の感触は、会えない時間を埋めてくれる。寂しさや不安が喜びに変わることを知った。
「自信が持てるような気がしてきます」
「自信?」
「だって桐生マネージャーはたくさん女の人を知っていそうだから。私もその中に埋もれないように努力しないといけないなあって、よく考るんです」
「そんな必要ねえよ、お前は」
「どうしてですか?」
「お前は特別なんだよ。さっき、お前も聞いていただろう。何があっても離すつもりはないよ」
 桐生の言葉に、冷めかけていた身体を再び熱くしていく奈々。時々、投げかけてくれる愛の言葉は、その度に新鮮に胸を打つのだから言葉の力はすごい。
 身体を重ねていると心まで近くなっていくように思う。見られたくない部分、恥ずかしい場所、いつもの自分と違う声、表情──全部知られてしまうから自分を覆っていたプロテクターみたいなものがどんどん溶けていく。
 奈々から好きと伝えたことは数える程度。だけど、もっと伝えたい。言葉以上に想う気持ちをこの身体を借りて伝えたいと思った。素直に甘えて好きと表現するのは簡単なことではないけれど。それでも一歩踏み出して。そうすることでまた一歩、大人へと近づいていくような気がした。
「ずっと抱いていて欲しいの。寝ているときも、こうしてずっと……」
 ぎゅっと抱きついて、そっと眠りが誘っていく。夜はすっかり更けて、とっくに日付が変わってしまっていたので朝まであと少し。それでもその時間が満ち足りたものであるならば、得られるものは半端なく大きくて、きっと抱えきれないほどのものに違いない。
「おやすみ、奈々」
 混濁している奈々にその声がかすかに聞こえた。だけど返事ができないまま、いつしか桐生の腕の中で甘えるように眠りについた。


 ◇◆◇


 やがて朝がくる。
 目覚めた奈々の隣には桐生の姿。夕べ、先に眠ってしまったことを思い出し、もったいないことをしたような気分になった。もっとたくさんおしゃべりしたかったなと桐生の顔を眺めながら思っていた。
「何時になった?」
 奈々が時刻を確認しようと目覚まし時計を手に取ったとき、桐生が目を覚ます。
「6時半です。私は、今日はバイトがあるんですけど午後からなんです。桐生マネージャーは?」
「日曜だから休み、と言いたいところだけど。残念ながら今日も仕事だな」
 今日は日曜日。しかし、アパレル業界にとっては日曜日といっても休日とはいかず。むしろお店は一年間休みなく稼働している。それでも売り上げの数字は年々厳しくなってきているから頭が痛い。
 いわゆるファストファッションが台頭してきた現在。『vivid prism』もその中のひとつなのだが、ここ数年の間に外資系企業も軒並み参入してきており、その都度そういったショップがマスコミに取り上げられるので、どうしてもそちらに顧客が流れてしまっている。
 SPA業態(商品の企画・製造から販売までを一貫して行う小売形態)にも注目し海外に工場も持っているが、ブランド力に乏しく、成功とまでは至っていないのが実情である。
「土日は基本的に仕事だからな。でも、土日で見えてくることがたくさんあるから、チャンスなんだ。のんびりしていたら、俺だっていつクビにされてもおかしくない。まあ、その前に会社が存続していないかもしれないけどな」
 桐生が仕事の愚痴をこぼすことは珍しい。それどころか初めてである。奈々はうれしい半面、現実を見せつけられて心配になる。
「そんなに大変なんですか?」
「厳しいのは厳しいけど、それはうちだけじゃない。業界全体がそうなんだよ。その中でも成功しているところはあるけど、あそこまで辿り着くことは難しいな」
「それってテレビでよく報道されているようなお店のこと? 『vivid prism』はあそこまで有名じゃないけど、全国にたくさんお店があるから安泰なのかと思っていました」
「一寸先は闇だよ。でもそれは、どんな会社でも同じだ。世界シェアを誇る企業も簡単に潰れる時代なんだ。事業が大きくなればなるほど、世界に規模を広げれば広げるほど、いろいろな影響を受けやすい」
 社会が厳しいということは奈々も実際に働くことで、なんとなく感じていた。
 とにかく数字がすべてのような世界。結果を残せなければ生き残れない。その中で責任を背負って仕事をしている桐生は、相当のプレッシャーの中にいるのだろう。
 いつもはそんな素振りを見せない桐生が、本当は陰でどれだけ努力しているのかを、ようやく理解できた気がした。ただ漠然とした“大変”という認識から、現実的な“大変”に切り替わり、そして心からの尊敬の念を抱く。
「でも、働きづめがいいというわけじゃないからな。たまには息抜きが必要だよ」
「そうですね。たまにはゆっくり休んで下さい」
「近々、土日のどっちかに休みを取るよ。そのときはお前もバイトを休めよ」
「え? 私も?」
「今までどこにも連れて行ってやれなかったから」
「本当? うれしい! でも無理しなくてもいいですよ」
「俺を年寄り扱いすんなよ。俺だってなあ、焦ってんだよ。お前が愛想尽かして、ほかの男のところにいっちまうんじゃないかって」
 意地悪に見つめるその目。達哉のことを言っているのだと気づいた。
「大丈夫ですよ。達哉くんにはあとでちゃんと話をするので」
 昨日の夜、言いかけて最後まで言えなかった返事。ほんの少しだけ気持ちを揺さぶられたことは否めないが、今は少しもほかの男性(ひと)が入り込む隙間なんてない。
「また口説かれるのがオチだろう?」
「そんなことないです。達哉くんだって、きっと、昨日の夜の桐生マネージャーの言葉で分かったはずです。私の気持ちも。そういう人だもの」
「へえ。随分とアイツを買っているんだな」
「違います! ただ、いい人過ぎるくらい、いい人なんです。そういう意味ですから」
 本音を言い合って迎えた、今日という朝。じゃれ合うふたりはいつになく楽しげだった。

 それから奈々は、いつものように電車で帰る桐生を見送り、昨日までは次にいつ会えるのか分からなくて不安になる別れが、今日はそうではないということに気づく。気持ちをぶつけ合った結果、桐生との距離がより近づいた気がしていた。
 桐生も同じようなことを思っていた。傷つけ合うことが、時にいいように作用することがある。すべてを言葉にする必要はないとは思うが、無言を貫くことが、知らず知らずのうちに相手を追い込むこともあるのだと気づかされた。
 しかし、今回、うまい具合に解決できたのは、たまたまに過ぎない。大切に守る、それはどういうことだろうか。自分の将来、奈々の将来、そしてふたりの未来を、電車の中から望める流れゆく景色の中でひとり考えていた。未来を見据えたつき合いを、こんなにも真剣に考えたのは、桐生にとって初めてのことだった。
            




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